かつて“悪役令嬢”だった私は、今や継母です
窓辺のカーテンが、朝の風にふわりと揺れた。
まだ夜の名残を残す空に、東から光が差し始める。
「……今日も、雨にはならなさそうね」
エルヴィラは小さくつぶやき、銀のポットに湯を注いだ。湯気とともに立ちのぼる紅茶の香りは、彼女にとって朝の儀式のようなものだった。
この屋敷に来て、十年。
すっかり慣れた手つきで朝食の支度を進めながら、エルヴィラはふと、階上の気配に耳を澄ませた。
――今日も、下りてこない。
義理の娘、リリー=グレイヴ。
十五歳になる彼女は、いつだって時間ぎりぎりにしか食堂に現れない。呼びに行けば「うるさいです、継母様」と冷たく言われるのがオチだ。
もっとも、そう言われる理由は、彼女自身が一番よく分かっていた。
かつて、王都の社交界をざわつかせた“悪役令嬢”。
強欲で、嫉妬深く、気位ばかり高い令嬢。
そんな汚名を着せられて、婚約破棄され、追われるように王都を離れた――。
(あの頃の私を、リリーが知っているわけじゃないけれど)
それでも、リリーの瞳の奥には、いつもわずかに怯えと警戒が見え隠れする。
仕方のないことだ。母を早くに亡くした子の前に、ある日突然“継母”として現れたのだから。
「エルヴィラ様」
扉越しに、控えの侍女が声をかけてくる。
「旦那様は朝一番の書簡を開封なさるそうです。食堂には、あとでお越しになると」
「ありがとう。……じゃあ、少し早めにリリーの部屋に行くわ」
返事をして、ふと、立ち止まった。
――また、無視されるかもしれない。
けれど、それでもいい。
母親ぶる気はない。ただ、彼女にとっての“安全な朝”でありたいと、願うだけだった。
小さく息を整えながら、エルヴィラは廊下を歩いた。義娘の部屋は、屋敷の東側――朝日がよく差し込む角部屋だ。
ほどなくして、目の前に馴染みの扉が現れる。エルヴィラは立ち止まり、そっと一呼吸おくと、指先で静かにノックを打った。
「……開いてます」
その言葉を受けて、エルヴィラはそっと扉を押した。
日差しが差し込む部屋の奥では、リリーが鏡台の前で髪を結っていた。
「おはよう、リリー。朝食、できてるわよ」
返事はない。
だがそれは、怒っているというより――いつものことだった。
エルヴィラは一歩踏み込み、部屋に香る花の香りに気づいた。
リリーの部屋にはいつも季節の花が飾られている。世話をしているのは庭師でも侍女でもない。彼女自身だ。
「きれいに咲いてるわね。……ラナンキュラス、かしら」
「花の名前なんて、知らないんですか?」
リリーの声はとげとげしかったが、その指先は丁寧にリボンを結んでいた。
「知ってるわ。でも、確認したかっただけよ。あなたが好きそうな花だから」
リリーはちらりとこちらを見たが、何も言わずに視線を逸らした。
沈黙が降りる。その沈黙を破ったのは、屋敷の執事だった。
「失礼いたします。エルヴィラ様、王都からの使者がいらしております」
空気が、わずかに張り詰めた。
「……王都、から?」
「はい。使者は“王家より預かりし書状を届けに参った”とのことです」
エルヴィラの指先が、わずかに震えた。
十年前、すべてを置いて去ったはずの地――その名が、唐突に屋敷へと戻ってきた。
「応接間に通して。すぐに行くわ」
「かしこまりました」
執事が去った後、リリーがぽつりと言った。
「やっぱり、あの人たちとは繋がってたんですね」
――“やっぱり”。
その言葉が、胸に小さな刺のように突き刺さる。
「そんなつもりじゃないのよ。……でも、私が王都にいたのは事実。逃げたって、過去は消えないわ」
「ふーん。そういうこと、ちゃんとお父様に言って結婚したんですか?」
いつもの冷たい皮肉。
でも、その奥には、聞いてほしい“何か”があることに、エルヴィラは気づいていた。
「ええ、話したわ。全部。あなたのお父様は、それでも私を迎えてくれたの」
リリーはふっと笑った
「……変な人」
それだけ言うと、リリーは立ち上がり、足早に部屋を出ていった。
残された空気は少しだけ、寂しく、しかし静かだった。
応接間の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
磨き上げられた調度と、重々しい沈黙。
中央のソファには、淡い灰色の外套をまとった青年が座っていた。金の刺繍が王家の紋章を描いている。
「エルヴィラ・グレイヴ様。初めまして、王都直属の使者を務めております、クラレンスと申します」
深く一礼するその姿は礼儀正しく、若いながらも落ち着いていた。
けれど、彼が手にしていた封筒を見た瞬間、エルヴィラの胸は微かに軋んだ。
――それは、十年前の最後の夜、あの玉座の前で見たものと同じ紋章だった。
「ご苦労さまです。……お手数ですが、要件を伺っても?」
「はい。王太后陛下より、直々の書簡です」
青年は丁寧に封筒を差し出した。
蝋が割れる音が、やけに大きく耳に響く。
開いた紙面に目を通すと、静かな筆致でこう記されていた。
《来月、先王陛下の追悼式を王都にて執り行います。旧縁あればこそ、ぜひご参列をお願い申し上げます。
――王太后・アマーリア》
「……追悼式、ですって」
「はい。先王陛下の、十年目の追悼式でございます」
十年――ちょうど、自分がすべてを捨てて、ここに来た年数と重なる。
(今さら、私に何をさせようというの)
唇を引き結び、エルヴィラは一礼した。
「申し訳ありませんが、即答はいたしかねます。夫と、義娘の意向もありますので」
「無理もございません。お返事は、三日以内にいただければ」
使者は再び丁寧に頭を下げ、席を立った。
その後ろ姿が扉を閉めるまで、エルヴィラは微動だにせず立ち尽くしていた。
ふと、背後から小さな足音が近づく。振り返れば、リリーが廊下に立っていた。
「やっぱり、“何か”あったんですね。あの人、すごく偉そうだったし」
「リリー……」
「私は別に、追い出そうなんて思ってませんよ。ただ――」
そこで言葉を切り、リリーはエルヴィラをまっすぐに見た。
「“悪い人”だったって、本当なんですか?」
その言葉は、重く、鋭く、過去の傷を抉り出す刃のようだった。
エルヴィラは目を閉じた。
喧騒と笑い、軽蔑と賞賛。――社交界の渦の中、誰よりも美しく、そして誰よりも憎まれていた“あの頃の自分”が、脳裏にゆっくりと立ち上がる。
――そう。
すべての始まりは、あの夜だった。
夜会の喧騒は、今でも耳に焼き付いている。
王宮の大広間。
金銀の燭台が整然と並び、花々の香りが天井近くまで立ちのぼっていた。
貴族たちの笑い声とワイングラスの音が交差する中、彼女はその中心にいた。
――エルヴィラ=クローデル。
伯爵家の令嬢。王家直系の公爵子息と婚約を交わし、若くして王妃候補と目されていた女。
だがその夜、全てが変わってしまった。
「……ご報告いたします! エルヴィラ様は、私を陰で侮辱し、舞踏会の招待状を破棄し、社交界から排除しようと――!」
そう叫んだのは、純白のドレスに身を包んだ少女だった。
涙を流し、震える肩を王子が抱きしめる――その姿は“真実”にしか見えなかった。
そして誰も、エルヴィラの言葉に耳を傾けなかった。
「違います。それは……」
声が震えた。喉が焼けるように痛いのに、何も伝わらない。
いつの間にか、周囲の貴族たちが一歩、また一歩と距離を取っていた。
かつて自分を囲んでいた微笑みは、嘲りと好奇に変わっている。
「……クローデル伯爵家の令嬢、エルヴィラ。
そのような人物を我が家に迎えることはできません。婚約は、ここに破棄いたします」
淡々と告げられた宣言。
王子の表情に、わずかな痛みさえなかった。
それが何より、答えだった。
――私は、もう“彼の婚約者”ではない。
その事実が、重くのしかかるよりも先に、周囲の空気が冷たく変わっていくのを感じた。
誰も、声を上げなかった。誰も、「待って」とさえ言ってはくれなかった。
(当然よね)
唇の内側を、そっと噛んだ。
エルヴィラはかつて、婚約者という立場を盾にしていた。
周囲が彼女を持ち上げれば、それを当然と受け取り、逆らう者がいれば牽制をした。
笑顔の裏で、線引きをしていたのだ。
それは「支配」ではなかった。けれど、決して「信頼」でもなかった
だから今、誰も肩を持たない。
それが、彼女が積み上げてきた“関係”の答えだった。
「ねえ、エルヴィラ様って怖いのよ。笑ってても、心の中では見下してるんだって」
「あの婚約者がいるから強気なのよ。もしあれがなかったら、どうなるのかしらね」
――かつて、聞こえたことのある声が、脳裏に響く。
すべてが壊れた瞬間、誰も彼女の隣にはいなかった。
大理石の床が、やけに冷たく感じられた。
振り上げられた手ではなく、支えてくれる手を、
――最後の最後まで、誰一人として、差し伸べてはくれなかった。
名誉も、立場も、家の誇りも。
後に残ったのは、冷え切った屋敷と、沈黙を貫く父、寝込んだ母、そして……哀れな自らの姿だった。
だからこそ、彼女は王都を離れた。
すべてを捨てて、自分の足で、何者でもない女として生き直す道を選んだ。
その選択が正しかったかどうかは、今でも分からない。
けれど――
「本当よ。……でも、それは、私のすべてじゃない」
現在のエルヴィラが、そう静かに口を開いたとき、リリーは視線を逸らさなかった。
「あなたの知る“悪い人”は、私の一部。否定はしないわ。でも、あの頃の私は、そうするしかなかった。そうしなければ、誰にも、見てもらえなかったの」
「……見てもらう、ために?」
リリーの眉が僅かに動く。
その表情には、まだ疑念と警戒が残っていたが、同時に、聞こうとする意思もあった。
「……じゃあ、今のあなたは?」
問いかけの声は、まっすぐだった。
エルヴィラは少しだけ目を細める。
「今の私は、リリーの“継母”よ。……たとえ、あなたに嫌われても、私はあなたを守りたい。
母親ぶる気はない。だからといって、あなたが身構える理由には……なりたくないの」
リリーは目を伏せたまま、しばらく黙っていた。
指先で制服の裾をつまむその仕草が、かえって彼女の迷いを物語っている。
「……そんなふうに、優しくされても……困ります」
ようやく絞り出すように出た言葉は、つっけんどんで、拗ねたようでもあった。
だがその声には、少しだけ――ほんの少しだけ、棘が丸くなっていた。
「困っていいのよ。すぐに答えなんて、出さなくていい。私は、急がないから」
――それだけで、十分だった。
「……じゃあ、私、行きます。遅刻すると面倒なので」
「ええ。行ってらっしゃい、リリー」
短く頷いてから、リリーは踵を返した。
いつもよりわずかに静かな足音が、廊下に消えていく。
エルヴィラはしばらくその背中を見送ってから、そっと吐息をついた。
彼女は、冷めかけた紅茶を一口だけ口に運ぶ。
その味は、少しだけ苦く、けれど不思議と心に沁みる味だった。
◇
その日の午後、旅支度の確認を終えたエルヴィラは、一人で荷馬車のそばに立っていた。
王都行きの馬車には最小限の荷しか積まれていない。三日以内に戻る予定だが、それでも行き先は、十年前にすべてを失った場所――。
風が春の花をかすかに揺らす。
屋敷の庭は少しずつ色づきはじめていた。過去を思えば苦くなるこの土地も、今では、彼女にとって確かな「生活」の匂いがした。
「……お出かけ、ですか?」
後ろからかけられた声に、振り返る。
リリーが、制服姿のまま門のそばに立っていた。
「戻ったのね。もう少しかかると思ってたわ」
「近道、覚えたので。……あの」
そこで言葉を切ったリリーは、珍しく、視線をあちこち彷徨わせていた。
その手には、小さな包み。見覚えのある布――あれは、エルヴィラが好んで使うハンカチだ。
「これ……持っていきますか? お弁当。詰めただけですけど」
声はそっけない。表情も、わざとらしいほど素っ気ない。
けれど、それがどれほどの思いの上に差し出されたか、エルヴィラにはすぐに分かった。
「ありがとう。嬉しいわ」
リリーは何も言わず、ただその場に立っていた。
「今度は私がお弁当作ってあげるわ。私、こう見えて料理は上手なのよ」
そう言って微笑んだエルヴィラに、リリーは一瞬きょとんとした顔をした。
そして、すぐにぷいと視線を逸らす。
「……別に、期待なんてしてませんから」
返ってきたのは、やっぱり棘のある一言だったけれど――その頬は、ほんのりと赤くなっていた。
やがて御者が声をかけ、馬車の準備が整ったことを知らせる。
エルヴィラは最後にもう一度リリーを見た。
「じゃあ、行ってくるわ。良い子にしていてねリリー」
リリーは少しだけ間を置いて、視線を戻す。
そして、ごく小さく、唇を動かした。
「……いってらっしゃい」
たったそれだけの言葉だった。けれど、それは初めてリリーが、自分からエルヴィラにかけた見送りの言葉だった。
エルヴィラは微笑み返し、何も言わずに馬車へと乗り込む。
扉が閉まり、御者の掛け声が響くと、ゆっくりと車輪が動き出した。
春の風が、緩やかに庭を通り抜けていく。
揺れる木漏れ日のなか、リリーは立ち尽くしたまま、その背中をじっと見つめていた。
ほんの数日前まで、「継母」など鬱陶しいだけの存在だった。
なのに今、胸の奥に残っているのは、奇妙な静けさと、ほんの少しの――
「……バカみたい」
ぽつりと呟き、リリーはそっと目を伏せた。
それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいたのだった。