Ⅰ
「レイ、何ぼーっとしてるの。早く手伝いなさい。ああ、気が利かないったらないわ。スイだったらこんな手間かけさせないのに」
「………ごめんなさい」
「何その言い方。不満でもある?」
「………ごめん、なさい」
レイは謝ることしかできない。母は怖い。父も怖い。スイはそれよりさらに恐ろしい。
スイは手伝いを命じられることなんてない。しかし、レイはこき使われる。この差は一体なんなんだろう。
「早くそれ持って」
「はい………」
ずしりと重い。早くも手が痺れてきて、レイは小さく呻いた。
まだ荷造りをしていない。だが、この肉体労働が終わるまでは、自分の部屋に戻ることさえできないだろう。
ずっとずっと、レイはこの家の使用人だ。
階段を降り、レイは荷物を地面に置いた。急に軽くなった身体はフワフワとしていて安定感がない。だが、それを超越するほどの痛みがあった。腰が痛い。腕が痛い。肩が痛い。すべてが痛い。レイは体力の限界をとっくに超えていた。
うずくまるレイを見て、母はフンと鼻を鳴らす。
「ああ、やっと終わったのね。ほら、さっさとあっち行って」
ようやく開放され、レイは逃げるように部屋に向かった。ぎい、ぎい、と床が軋む。古い廊下は踏みしめるたびに悲鳴をあげた。叫びたいのは、泣きたいのはこっちなのに。
「嫌い、嫌い、嫌い……」
こんな狭い檻の中で、私は何をしているの。私がここにいる意味って、本当にあるの。この世界に、私は必要とされているの?
「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い……!」
口からはとめどなく呪いがこぼれ落ちた。ふらふらと我が家を彷徨いながら、レイはひたすら何かを呪った。
錆びたドアノブを引き、レイは部屋に倒れ込むようにして入った。ばたん、と背後でドアが閉まる。外からの光が遮断され、レイのためだけの牢獄が出来上がる。
レイの部屋は屋根裏だ。狭くて暗い、埃臭い部屋。
幼い頃、スイはこの部屋を見て、「素敵だね」と笑った。秘密基地みたいで素敵だね。スイはにこにこといつもの笑みを浮かべていた。
「………なんで、」
なんで、スイはあんなに笑顔でいるのだろう。
本当は楽しくなんてないくせに。
面白くなんてないくせに。
嬉しくもなくて、喜んでもなくて――素敵だなんて、思ってもないくせに。
「あら、もう荷造り終わったの?」
部屋から降りてきたレイを、母は冷たい声で迎え入れた。唇を噛み締め、レイはこくりとうなずいた。
「ラピルスに行っても、スイに迷惑かけちゃだめよ」
「……はい」
「スイのこと守ってあげてね」
「…………はい」
「まったく、スイはどうしてラピルスなんかに行くのかしら。あんなに頑張ってラピスに受かったのに……」
それは、母だけでなく、レイも疑問に思っていたことだった。やっと比較されなくなると思っていたのに。ラピルスに行っても、両親と別れても、またこの日々が繰り返されるのだ。指が小刻みに震えているのを感じる。ハッと息を吐き、レイはその場にへたり込んだ。
「レイー」
鈴を振るような声が降ってきた。顔を上げると、スイが駆け寄ってくるところだった。両手で重そうなトランクを抱えている。こういうものも、スイなら買ってもらえるのだ。
「何」
眉をひそめると、スイはにこっといつもの笑顔を貼りつけ、レイに手を差し出してきた。
――菓子だ。どんなときでも、スイにだけ振る舞われているもの。レイは食べたことのないもの。砂糖が贅沢に使われているであろう、愛らしい花の形をした、素朴な焼き菓子。綺麗だと、純粋に思った。
「レイにあげる」
スイが言った。
その瞬間――それを綺麗だと思えなくなった。
ぐしゃりと、手の中で袋の一部が潰れた。溢れそうな涙を抑え込み、必死に普段通りを意識してスイを睨む。
「何それ……いらない、そんな田舎臭いもの」
咄嗟に口をついて出たのは、そんな冷たい言葉だった。
すぐに後悔が襲ってくる。じわじわと視界が狭くなり、心臓が震えるようにざわめく。母に怒られるだろうか。父に叱られるだろうか。――こんなことを言って、スイは傷ついてしまっただろうか。
彼女の顔を見るのが怖かった。もし泣いていたら? もし、私のせいで苦しんでいたら?
ごめん、変なこと言った。貰うよ、それ。ありがとう。脳内で何度もシミュレーションを繰り返し、スイを悲しませない言葉を探す。そして、ゆっくりと顔を上げた。
スイは表情を変えていなかった。
――ああ、そうか。ただ嫌がらせのためだけに渡そうとしてきたのだから、拒絶しても何も考えないのか。
少しでもスイを信じてしまった、申し訳ないと思ってしまった自分が嫌になった。
一刻も早く彼女から逃げたくて、レイは足を踏み出した。一歩、二歩。身体はあっけなく外に出た。あれほど檻のようだと感じていた家は、これほど自由に近い場所にあったのだ。
振り返り、スイを見る。まだ檻の中にいるスイを。
「スイ」
なぜかスイの瞳が大きく見開かれた。ゆらり、美しくそれが揺れる。双眸の中でキラキラと輝く光の粒。
そういえば、スイをまっすぐに見たのは久しぶりかもしれない。
ふと考えて、その途端なぜか怒りが爆ぜた。
感情に身を任せ、視線をずらす。スイの美しい顔が視界から消える。もっと見ていたかったと嘆く自分も心の隅に存在していて、けれどレイはそれを無視した。
父が立ち上がる。落ち着きなく地面に打ちつけられる右足は、不機嫌さの表れだ。
「レイ、その態度はなんだ。せっかく貰ったものを受け取らないなんて、恥ずかしいと思わないのか? そのうえ、人の顔を見ようともしないなんて」
――やってしまった。絶対にスイの機嫌を損ねるようなことをしてはいけない、絶対に両親を怒らせてはいけない、それは暗黙の了解だったはず。
怖い。また怒られる。嫌われる。
「………ごめんなさい」
スイを見た。彼女は今何を思っているのか、気になったから。レイを蔑んでいるのか、或いは無関心なのか。そのどちらかだと思っていた。
だけど、スイは――笑っていた。
頬をわずかに赤らめて、ほんの少しだけ、唇を歪めていた。
小さな小さな笑みだった。
――何を思っての笑顔なんだろう。
嘲り笑っているのかもしれない。それ以外にスイが笑う理由がない。
両親に嫌われ、虐げられるレイを見るのが、きっとスイにとって何よりの楽しみだから。
スイにとって、この家は檻ではない。鳥籠だ。温かくて、柔らかくて、どこまでも安全な鳥籠。餌をいくらでも与えられて、愛さえも望んだ分貰える幸せな格子の中。
「スイ、気をつけるのよ。お手紙はちゃんと書いてね。あと、風邪引かないように」
母が優しくスイを抱く。ああ、私はあんなふうに愛されたことがあっただろうか。
「うん、わかってる。今までありがとう。向こうでも頑張るよ」
スイはその愛を当たり前のように受け入れた。
「お母さん、離れててもずっと応援してるから、だから、」
母が心底悲しそうな泣き声をあげる。ああ、私はあれほど感情を動かしてもらったことがあっただろうか。
「わかってる。わかってるよ」
スイの発する言葉はやはりそういうものだった。
「大好きだよ」
父のことも、母のことも、私は嫌い。
本当は好きになりたかった。
好きでいたかった。
大好きだよって、言いたかった。
両親と抱き合って、愛していると言われたかった。
けれど――そんなものは、ただの幻想で。
現実では、レイは誰にも愛されなかった。