表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2



「レイ、何ぼーっとしてるの。早く手伝いなさい。ああ、気が利かないったらないわ。スイだったらこんな手間かけさせないのに」


「………ごめんなさい」


「何その言い方。不満でもある?」


「………ごめん、なさい」


 レイは謝ることしかできない。母は怖い。父も怖い。スイはそれよりさらに恐ろしい。


 スイは手伝いを命じられることなんてない。しかし、レイはこき使われる。この差は一体なんなんだろう。


「早くそれ持って」


「はい………」


 ずしりと重い。早くも手が痺れてきて、レイは小さく呻いた。


 まだ荷造りをしていない。だが、この肉体労働が終わるまでは、自分の部屋に戻ることさえできないだろう。


 ずっとずっと、レイはこの家の使用人だ。


 階段を降り、レイは荷物を地面に置いた。急に軽くなった身体はフワフワとしていて安定感がない。だが、それを超越するほどの痛みがあった。腰が痛い。腕が痛い。肩が痛い。すべてが痛い。レイは体力の限界をとっくに超えていた。


 うずくまるレイを見て、母はフンと鼻を鳴らす。


「ああ、やっと終わったのね。ほら、さっさとあっち行って」


 ようやく開放され、レイは逃げるように部屋に向かった。ぎい、ぎい、と床が軋む。古い廊下は踏みしめるたびに悲鳴をあげた。叫びたいのは、泣きたいのはこっちなのに。


「嫌い、嫌い、嫌い……」


 こんな狭い檻の中で、私は何をしているの。私がここにいる意味って、本当にあるの。この世界に、私は必要とされているの?


「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い……!」


 口からはとめどなく呪いがこぼれ落ちた。ふらふらと我が家を彷徨いながら、レイはひたすら何かを呪った。


 錆びたドアノブを引き、レイは部屋に倒れ込むようにして入った。ばたん、と背後でドアが閉まる。外からの光が遮断され、レイのためだけの牢獄が出来上がる。


 レイの部屋は屋根裏だ。狭くて暗い、埃臭い部屋。


 幼い頃、スイはこの部屋を見て、「素敵だね」と笑った。秘密基地みたいで素敵だね。スイはにこにこといつもの笑みを浮かべていた。


「………なんで、」


 なんで、スイはあんなに笑顔でいるのだろう。


 本当は楽しくなんてないくせに。


 面白くなんてないくせに。


 嬉しくもなくて、喜んでもなくて――素敵だなんて、思ってもないくせに。




「あら、もう荷造り終わったの?」


 部屋から降りてきたレイを、母は冷たい声で迎え入れた。唇を噛み締め、レイはこくりとうなずいた。


「ラピルスに行っても、スイに迷惑かけちゃだめよ」


「……はい」


「スイのこと守ってあげてね」


「…………はい」


「まったく、スイはどうしてラピルスなんかに行くのかしら。あんなに頑張ってラピスに受かったのに……」


 それは、母だけでなく、レイも疑問に思っていたことだった。やっと比較されなくなると思っていたのに。ラピルスに行っても、両親と別れても、またこの日々が繰り返されるのだ。指が小刻みに震えているのを感じる。ハッと息を吐き、レイはその場にへたり込んだ。


「レイー」


 鈴を振るような声が降ってきた。顔を上げると、スイが駆け寄ってくるところだった。両手で重そうなトランクを抱えている。こういうものも、スイなら買ってもらえるのだ。


「何」


 眉をひそめると、スイはにこっといつもの笑顔を貼りつけ、レイに手を差し出してきた。


 ――菓子だ。どんなときでも、スイにだけ振る舞われているもの。レイは食べたことのないもの。砂糖が贅沢に使われているであろう、愛らしい花の形をした、素朴な焼き菓子。綺麗だと、純粋に思った。


「レイにあげる」


 スイが言った。


 その瞬間――それを綺麗だと思えなくなった。


 ぐしゃりと、手の中で袋の一部が潰れた。溢れそうな涙を抑え込み、必死に普段通りを意識してスイを睨む。


「何それ……いらない、そんな田舎臭いもの」


 咄嗟に口をついて出たのは、そんな冷たい言葉だった。


 すぐに後悔が襲ってくる。じわじわと視界が狭くなり、心臓が震えるようにざわめく。母に怒られるだろうか。父に叱られるだろうか。――こんなことを言って、スイは傷ついてしまっただろうか。


 彼女の顔を見るのが怖かった。もし泣いていたら? もし、私のせいで苦しんでいたら?


 ごめん、変なこと言った。貰うよ、それ。ありがとう。脳内で何度もシミュレーションを繰り返し、スイを悲しませない言葉を探す。そして、ゆっくりと顔を上げた。


 スイは表情を変えていなかった。


 ――ああ、そうか。ただ嫌がらせのためだけに渡そうとしてきたのだから、拒絶しても何も考えないのか。


 少しでもスイを信じてしまった、申し訳ないと思ってしまった自分が嫌になった。


 一刻も早く彼女から逃げたくて、レイは足を踏み出した。一歩、二歩。身体はあっけなく外に出た。あれほど檻のようだと感じていた家は、これほど()()に近い場所にあったのだ。


 振り返り、スイを見る。まだ檻の中にいるスイを。


「スイ」


 なぜかスイの瞳が大きく見開かれた。ゆらり、美しくそれが揺れる。双眸の中でキラキラと輝く光の粒。


 そういえば、スイをまっすぐに見たのは久しぶりかもしれない。


 ふと考えて、その途端なぜか怒りが爆ぜた。


 感情に身を任せ、視線をずらす。スイの美しい顔が視界から消える。もっと見ていたかったと嘆く自分も心の隅に存在していて、けれどレイはそれを無視した。


 父が立ち上がる。落ち着きなく地面に打ちつけられる右足は、不機嫌さの表れだ。


「レイ、その態度はなんだ。せっかく貰ったものを受け取らないなんて、恥ずかしいと思わないのか? そのうえ、人の顔を見ようともしないなんて」


 ――やってしまった。絶対にスイの機嫌を損ねるようなことをしてはいけない、絶対に両親を怒らせてはいけない、それは暗黙の了解だったはず。


 怖い。また怒られる。嫌われる。


「………ごめんなさい」


 スイを見た。彼女は今何を思っているのか、気になったから。レイを蔑んでいるのか、或いは無関心なのか。そのどちらかだと思っていた。


 だけど、スイは――笑っていた。


 頬をわずかに赤らめて、ほんの少しだけ、唇を歪めていた。


 小さな小さな笑みだった。


 ――何を思っての笑顔なんだろう。


 嘲り笑っているのかもしれない。それ以外にスイが笑う理由がない。


 両親に嫌われ、虐げられるレイを見るのが、きっとスイにとって何よりの楽しみだから。


 スイにとって、この家は檻ではない。鳥籠だ。温かくて、柔らかくて、どこまでも安全な鳥籠。餌をいくらでも与えられて、愛さえも望んだ分貰える幸せな格子の中。


「スイ、気をつけるのよ。お手紙はちゃんと書いてね。あと、風邪引かないように」


 母が優しくスイを抱く。ああ、私はあんなふうに愛されたことがあっただろうか。


「うん、わかってる。今までありがとう。向こうでも頑張るよ」


 スイはその愛を当たり前のように受け入れた。


「お母さん、離れててもずっと応援してるから、だから、」


 母が心底悲しそうな泣き声をあげる。ああ、私はあれほど感情を動かしてもらったことがあっただろうか。


「わかってる。わかってるよ」


 スイの発する言葉はやはりそういうものだった。


「大好きだよ」


 父のことも、母のことも、私は嫌い。


 本当は好きになりたかった。


 好きでいたかった。


 大好きだよって、言いたかった。


 両親と抱き合って、愛していると言われたかった。


 けれど――そんなものは、ただの幻想で。


 現実では、レイは誰にも愛されなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ