第6話
「え?」
「もちろん、努力はするけどね。相手がいないなら全力で迫るし、言葉を尽くして説得する。贈り物もするし、懇願するし、愛も囁く。思いつく限りのことをする」
――けれど。
「それでも駄目なら相手の意志を尊重する。少なくとも、竜人は」
「……それでいいのですか?」
「よくはないけど、仕方ない。その代わり、たまに近況をのぞきに来てもいいか聞くよ。番だからね」
あくまでも相手の意志が大事なのだと告げられて、シェーラは目を丸くした。
「少し……意外です」
「竜の愛は重いからね。重くて大きくてうざったい。だから、欲望のままに相手に詰め寄ることはしない。それだと相手を潰してしまう」
相手が望む事を、望むように。
それをするのが竜の愛だと彼は言った。
「……では、もし、わたくしがあの方と番のままで、あなたがそれを知ったとしたら、あなたはどうしていたのでしょうか」
「それは難しい質問だけど……そうだな、もしも、この城で、この国で、君が笑顔のままだったら」
そう前置きし、金色の目を細める。
「そのままにしていただろうね。きっと」
「――――……」
「君の笑う顔を見て、喜ぶ声を聞いて、花束でも送るよ。無記名でね」
何か言いかけ、シェーラは唇を噛みしめた。
一度目をつぶり、「……怖いのです」と口にする。
「あなたはわたくしを番と言った。けれど十三歳の時、アイゼル様もそうおっしゃった。永遠の愛を誓い、国へ来てくれと誘ってくださった。わたくしはそれを受け入れて、この国へ来た」
「……そうだね」
「六年も一緒にいたけれど、結局あの方はわたくしを捨てた」
どれだけの時間を重ねても、たったひとつの出来事で壊れてしまう。
番というものの存在を、シェーラは信じられなくなっている。
新しい番というならなおさらだ。アイゼルが駄目ならこっちなんて、そんな事があるはずもない。
「わたくしは……番などではなく」
「うん」
「あの方のことが……好きだった……」
「うん」
「あの方は、やさしくて、子供で、少しだけ怒りっぽくて……」
「うん」
「……わたくしには、誰よりもやさしかった……っ」
きっかけは番でも、それだけではなかった。
だから、この涙はただの失恋の涙だ。
ぽろぽろと涙がこぼれるたびに、残っていた最後の感情が消える。涙と一緒に、未練と悲しみまで消えていく。
この涙を流し終わった時、アイゼルへの恋情も消え去っているのだろう。
どこか冷静な頭でそう思っている事に気がついた。
「君がいいと言うまで、いくらでも待つよ。彼と同じ時間が必要なら、最低でも六年。もっとずっと待つこともできる」
「……それでは、おばあちゃんになってしまいます」
「おばあちゃんになった君も可愛いだろうな。会いに行っていい?」
「それは構いませんけれど……」
本当にそれでいいのかと聞くと、彼は笑って頷いた。
「言っただろう。竜の愛は重いんだ。それくらいなんでもない」
「わたくしが番ではなくなったら?」
「それでもいいよ。君が大切なことには変わりない」
「番ではないのに?」
「一度でもそう思っただけで、竜にとっては特別だ。それに、君はとてもやさしくて、思いやりがあって、愛情深い。そういう人は好ましい」
濁りのない笑みは、それが本心だと告げている。まっすぐぶつけられる感情は、そのままシェーラの胸を揺らした。
「……あの方のように、心変わりをするかもしれません」
「そんなことにはならないと思うけど、心配なら何をしてもいいよ。君が不安にならないように、できる限りのことをする」
「あなたではなく、わたくしも」
「そうなる前に、たくさんの思い出を作っておこう。死ぬまでずっと笑えるように」
手放さないよとジェイドは言った。
「君が番なのは本当だけど、それだけじゃない。僕は君を好きになる」
「…………」
「予感があるよ。番とは関係なく、君に惹かれていくだろうって」
「ですが……」
「すぐにじゃなくていい。ゆっくりと、時間をかけて、僕のことを考えてほしい。今はそれで十分だ」
じわじわと説得されかかっているのを知り、シェーラはなおも逃げ腰になった。
「考えた結果、嫌だと言ったら?」
「全力で迫るけど、それでも駄目なら身を引くよ。元々、見つからなかったはずの番なんだ」
「他の方と結婚すると言ったら?」
「泣くよ。ものすごく泣く。それから、君を幸せにしろって相手の男に説教する。あと年一回は会いに行く。それくらいは許してほしい」
「……それだけ……?」
「そう。それだけ」
生真面目に頷き、胸を叩く。
――だから、大丈夫。
「……わたくし、あなたのことをよく知りません」
「これから知ってくれると嬉しい。父君にもご挨拶に行く」
「知っても好きになれないかもしれません」
「さっきも言った通り、全力でかかる。君に好かれるように死力を尽くすよ」
「言葉の使い方、お間違えではないですか?」
「間違ってない。愛する者のために全力を尽くすのが竜の習性だ。そして、番のために命を懸けるのも竜の本能だ」
ああでもそうなると、やっぱり一緒にいる方が都合がいいかな。
いたずらっぽくそう言うと、ジェイドは手を差し伸べた。
「僕の国に来てくれと言ったけど、訂正する。君が行きたいところへ連れて行く。だから、一緒に行こう」
「……ええ」
差し出された手を取ると、遠い記憶がよみがえる。
十三歳のあの日、アイゼルもこうして手を差し伸べてくれた。
君は私の番だと言って、包み込むような目で笑ってくれた。
残っていた最後のかけらが胸を刺し、止まったはずの涙がこぼれ落ちる。
「……ふ、っ……」
「うわ、どうした? 大丈夫? 痛かった?」
「いいえ……いいえ。そうではなく……」
なんでもないのだと言うと、ジェイドはほっとした顔をした。
涙を拭いている最中、彼が妙な顔をしているのに気づく。
「どう……なさいました?」
「いや、慰めようと思ったんだけど……」
そこで彼は決まり悪そうな顔になった。
「名前を呼ぼうとして、聞くのを忘れてたことに気がついた。……今更だけど、名前、教えてくれる?」
「まぁ……」
シェーラは目を丸くした。
そして、こぼれるように笑った。
***
その日、アイゼルの城からひとりの娘が消えた。
痩せたみすぼらしい娘で、番を偽っていた罪人だ。アイゼルは手を尽くして探したが、娘はとうとう見つからなかった。
心配からではない。まだ使い足りないとねだるエバナのためだった。
ひとつ言い添えると、エバナはシェーラと同じ人間である。
エバナの実家は貿易商であり、異国から珍しい品物をたくさん仕入れていた。その中に、獣人によく効く香水が混じっていたらしい。
その薬は効き目が強いが、慣れるのも早い。
そして薬が効かなくなった時、相手の体臭を不快に感じるという。
その日、アイゼルはいつにも増して不機嫌だった。
このところずっと、頭痛が消えない。
用事を言いつけるシェーラがいなくなったからだろうか。
彼女の汲んでくる水は美味だった。飲むと頭がスッキリした。それだけでなく、用意される食事も服も心地よかった。
番もどきの分際でそばにいる事は不快だったが、しょうがない。それをエバナが望んでいたのだ。
エバナは最愛の番だ。
シェーラのような偽物ではない、本物の番だ。ようやく手に入れた宝物を、誰にも渡すつもりはない。
――だが、ずっと、何かが頭に引っかかる。
(おかしい)
何かがおかしい。
「アイゼル様、どうしたんですか?」
「いいや、なんでもない」
エバナの声に、アイゼルはすぐに相好を崩した。
「今日は何をして過ごしていた? 何か困ったことはないか」
「何もないわ。いつも通り、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり。楽しかったわよ」
そうかと頷き、アイゼルはエバナを抱き寄せた。最愛の番は、今日もいい匂いがする。
「それよりも、まだ見つからないの? あの奴隷は」
「すまない。手を尽くしてはいるんだが」
「まぁいいけど。早くしてね」
エバナと関係を持ったのは出会ってすぐだ。出入りの商人の娘の匂いに惹かれ、声をかけたのが始まりだった。
彼女の体は柔らかく、ほのかに花のような香りがした。
肌を重ねた翌朝、目覚めたエバナに衝撃を受けた。
どうして昨日のうちに気づかなかったのだろう。彼女はこんなにも強い香りをまとっていたのに。くらくらするほどの芳香に、番特有の酩酊感。
シェーラが野の花なら、彼女は大輪の薔薇だ。
彼女こそが本物の番だと確信した。
彼女の匂いに包まれると、シェーラの匂いがいとわしくなった。
正確に言えば、気配だろうか。香りというか気配というか、うまく言葉では説明できない。
エバナと出会った事で、シェーラはまがい物だったと知った。
知った瞬間、強い怒りが込み上げてきた。
シェーラと過ごしたすべての時間は無駄だった。一緒になって笑い合った事が呪わしい。番でなければ何の意味もない時間だった。思い出など、本物の番の前では塵芥に等しい。
愚かしく、くだらない、たくさんの日々。
(……だが、本当にそうだったか?)
考えても答えは出ない。
自分の番はエバナだ。他の誰も代わりはしない。
けれど、どうした事だろう。
エバナを抱いても欲求はおさまらない。それどころか、指先まで渇き切ったように物足りない。霞で腹が膨れぬように、どれだけかき抱いても空しくなる。
(頭が……痛い)
シェーラがいなくなってから、頭痛が消えない。
常に頭が重く、手足がだるい。体が冷えて、吐き気さえある。エバナがそばにいるというのに。
そういえば、異国には番もどきを作り出す薬があると聞いた。そうだ、シェーラはそれを使っていたのだ。なんと愚かで醜い女。
だが、本当にそうだっただろうか?
(――アイゼル様。最近、お体の調子がすぐれないのではないですか?)
耳の奥に、やさしい声がよみがえる。
(――お顔の色が悪く見えます。夜もよく眠れていないのではないですか)
気遣いあふれる声は、最初に会った時から変わらない。
(――わたくしがあなたをお慕いしていたのは、あなたが番だからではありません)
そう、彼女はそう言っていた。
あなたがあなただったから、アイゼルのそばにいたのだと。
(――それをあなたが望んでくださったから、わたくしもおそばにいたのです)
ほんの一瞬、何かが胸をかすめた。
捨ててしまったはずの何か。それが疼く。じくじくと、深い場所で。
理由も分からず胸を押さえ、アイゼルは首をかしげた。
「……どうでもいい、か」
自分の番はエバナで、エバナは最愛の香りをまとう。
その時ふと、アイゼルは違和感を覚えた。
むせ返るように甘い香りの中、ほんのひとすじ、奇妙な臭いがした。
後ろを振り向き、不思議そうに聞く。
「エバナ、香水を変えたか?」
***
***
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