第5話
人なつっこい鳥で、シェーラの手からパンくずを食べた。その可愛らしさに微笑んだ時、アイゼルが手で小鳥を払ったのだ。
小鳥は飛び去ってしまい、シェーラはなぜそんな事をしたのかと彼を責めた。すると、アイゼルは言いにくそうに口ごもった。
――鳥相手に、嫉妬してしまった。
その時は許したものの、ほんの少し不安になった。
思えばそんな場面は他にもあった。アイゼルに愛されて見えなくなっていたが、不安に思っていた事はあったのだ。
彼はいつも言っていた。
番に出会えて幸せだ、番を得る事ができて幸せだと。
その言葉を嬉しく思う反面、番でなかったらどうなのだろうと思う事があった。アイゼルに言うと、「番でない君など考えられない」と一笑に付されてしまったが、明確な答えはもらえなかった。
一緒に過ごしたたくさんの時間。
共に笑い、慈しみ合った思い出。
少しきつい顔立ちだが、笑うと見える牙が好きだった。
手を引いてくれるやさしさも、目を輝かせて未来の話をするところも。
自分の名前を呼ぶ時の、やさしい声が好きだった。
熱を帯びた手のひらの温度が好きだった。
番だからでなく、シェーラは彼に恋をした。
彼が彼だからこそ、そばにいたいと願ったのだ。
黙り込んだシェーラに、ジェイドがゆっくりと口を開く。
「……番はね、特別な存在だ。でも、全員が番を手に入れられるわけじゃない」
見つからない場合もあるし、出会えない場合もある。そもそもいない場合もある。相手が他種族なら、番に拒否される事もある。
番が見つかり、その相手に受け入れられた事だけでも奇跡なのだ。
けれど、そうでない獣人は。
「番じゃなくても、自分の決めた相手を大切にする。共に笑い、喜び、同じ時間を積み重ねていくことで、僕らは番になっていく」
本物の番でなくても、そんな事は関係ない。
迷い、怒り、許し、信じ、助け合い、愛し合う。そうして生涯、思い合って生きていく。
「君と彼とが積み重ねてきた時間は嘘じゃなかった。なのに、彼は『本物の番』が現れたことで、ためらいもなくそれを捨てた」
それが許せないのだとジェイドは言った。
「君と離れるにしても、方法があったはずだ。少なくともこんな風に、傷つけて追い詰めて、痛めつけていいはずがなかった」
あの思い出は、確かに真実だったのだから。
「わたくし、……」
何か言いかけ、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……辛かったのです」
彼が、突然変わってしまった事が。
「……寂しかったのです」
憎々しげに自分を見る瞳が、自分の名を呼ぶ冷たい声が。
「……怖かったのです」
一夜にして、すべてが変わってしまった事が。
シェーラは何もしていないのに、何もかもが姿を変えた。
彼は自分を偽物と呼び、まがい物だとシェーラを責めた。番もどきと罵られ、食事さえ満足に与えてもらえなかった。代わりにエバナをそばに置き、「私の番」と慈しんだ。
シェーラのすべてが否定され、汚点だと言い切った。
出会いさえ間違っていたと言われた時、心のどこかが砕け散った。
悔しさもある。怒りもある。どうしてと責めたい気持ちもある。
でも、何よりも。
「……ただ、悲しかったのです……」
あのやさしい瞳が、二度と自分に向けられない事が。
あの声で名前を呼んでもらえない事が。
あの手が差し伸べられる事はもうない。
見つめ合う事も、隣で笑い合う事も、寄り添って眠る事も二度とない。
ただ、それが、悲しかった。
「……泣かないで」
綺麗な布を差し出され、シェーラはそれを受け取った。シェーラが落ち着くまで待って、ふたたびジェイドが話し始める。
「僕の番はね、どうしても見つからなかったんだ」
竜の獣人は特別で、強い力を有している。
竜人同士が番になるのが通常だが、ジェイドの番は見つからなかった。
「国中探しても駄目だった。獣人の国をいくつも回った。隅から隅まで、調べ尽くしたと思うくらい探した。でも、どれだけ探しても無駄だった」
けれど、ジェイドは感じていた。
この世界のどこかに番がいる。
その相手は生きて、どこかの地で暮らしている。
それは獣人としての本能でもあり、竜人としての直感でもあった。
「番がいる。そのことは分かる。でも、どうしても見つからない」
気が狂うかと思ったよ、とジェイドが笑う。シェーラはよく分からないまま、居心地の悪さに身じろいだ。
「ああ、気にしないで。君が悪いわけじゃない」
「ですが……」
「僕が君を見つけられたのは、番の糸が切れたからだ。君と彼との絆が切れて、ようやく見えた。君が僕の番だと分かった瞬間、目の前の霧が晴れた気がした」
ジェイドはしばらく前にこの国を訪れた。
竜の獣人は位が高く、王族への目通りも簡単に叶う。城の中は好きに歩いていいと許可をもらい、あちこち歩いてみる事にした。
本当なら、一通り探してすぐに国を発つ。だが今回はなぜかそんな気になれなかった。
番の気配は感じないのに、胸がざわつく。
言葉にできない焦燥が生まれ、次の瞬間には落ち着いている。心が浮き立ち、逆に沈み、気持ちがはやり、すぐに鎮まる。浮かれ、落ち込み、喜び、悲しむ。自分でも訳が分からなかったが、ついさっき、ほとばしるような衝撃があった。
――見つけた。
全身が震えるほどの感動が体を通り抜けたのは一瞬、すぐにそれは凪いでいった。
だが、もう迷わない。
心を落ち着け、ゆっくりと深呼吸する。
シェーラがやってきたのはそんな時だった。
「一目見て分かったよ。君が僕の番だと」
「……ですが、わたくしは……」
「さっきも言った通り、番はひとりだけど、永遠じゃないんだ」
番だからと高をくくり、ひどい目に遭わせていれば愛が消える。
番は唯一無二の存在だが、心は自由だ。
そばにいたいと願わなくなった番はもはや、番ではない。
「彼は自分で番との絆を切ってしまった」
かろうじてつながっていた最後の糸も、相手を傷つけることで切ってしまった。
切れた絆は戻らない。その瞬間、シェーラはアイゼルの番ではなくなった。
「わたくしは……」
あの瞬間、糸が切れたような感覚があった。
大事なものが失われ、二度と戻らないのを知った。
あれが番の絆だというなら、何と大きなものを失ってしまったのだろう。
「君が望むなら、結び直すこともできるよ」
事もなげにジェイドは言った。
「え? ですが……」
「元通りとはいかないけど、それなりには繕える。ちょっと骨は折れるけどね」
彼の言う「ちょっと」がどれほどの事かは分からなかったが、そう簡単な事ではないだろう。けれど、彼は迷わなかった。
「言っただろう。出会えたこと自体が奇跡だと。竜の獣人は番を心から愛するんだ。番の幸福を心の底から望んでいる」
それがたとえ自分の望みに反する事でも、相手が望むなら叶えたい。
「……だからね、もし君が彼の元に戻りたいなら、本当に君がそれを望むなら、そのために僕は全力を尽くすよ」
それが君の幸せならと、ジェイドは柔らかく微笑んだ。
あたたかな笑顔に、胸のどこかが鈍く痛む。
番というものへの執着を、シェーラはよく知っている。
きっと彼も同じだろう。それなのに、彼はシェーラの望みを叶えようとする。おそらくはその強靭なる精神力にて。
「……いいえ、戻りません」
シェーラは静かに首を振った。
あの時切れてしまった糸は、決して結び直される事がない。
この手にあったはずのつながりは、もうどこにも存在しない。
ただ、彼を失った事によるかすかな痛みが残るだけだ。
「……そう言うと思った」
ジェイドは目を伏せ、それから仕方なさげに微笑んだ。
「彼には悪いけど、ほっとしてる。ここで君が幸せになれるかどうか心配すぎて」
「まあ、そんな」
けれど、事実だろうという気がした。
「……他人の番だったものが、別の方の番になることはあるのですか?」
「ある。めったにないことだけど、前例はある」
だからといって、事前に分かるものではないけれどと付け加えて。
「もしそんなことが事前に分かったら、刺し違えてでも手に入れようとする輩もいるだろうからね。だから番との絆が切れるまで、誰がそうかは分からない」
「ですがそれでは、その方が元の番と添い遂げた場合、ずっとひとりになってしまうのではないですか?」
「そうだよ。でも、そんなことにはめったにならない」
相手が別れるという意味ではなく、自分の方の問題だと彼は述べた。
先ほども述べた通り、番と出会えるかは運による。その理由は様々だが、番を得られない獣人は案外多い。どれだけ強く思っていても、巡り合えない事もある。
だからこそ、番がいない時の事も考える。
普通はある時点であきらめて、別の相手を探す。
見つからないのは残念だが、必ず手に入るものでもない。
だからこそ、見つけた時の喜びはひとしおなのだ。
「……ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ、なんでも」
「先ほど、番に拒否される場合もあると聞きました。もしそうなったら、あなたはどうするのですか?」
彼が言ったように、刺し違えてでも手に入れるのか。
それとも誘拐するのだろうか。それとも、もっと別の――?
返事を聞くために顔を上げると、彼はくすっと笑みを浮かべた。
「何もしない」