第4話
***
先ほどの感覚は何だったのだろうと思いつつ歩いていたシェーラは、ふと誰かに呼ばれた気がして足を止めた。
「……?」
なんだろう、この感覚は。
不思議な感情が生まれ、妙に心を騒がせる。
嫌なものではない。けれど、よく分からない。
わけが分からないまま、シェーラは足の向く方へと歩き出した。
その先にあるのは中庭だった。
季節の薔薇が植えられて、砂の多いこの地でも咲き誇っている。以前はシェーラもよく訪れていた場所だ。
――あちらの方へ、あちらの方へ。
耳元で囁かれる感じがする。実際は誰もいないのに、背中を押されているようだった。
理由も分からないまま、シェーラはそちらへと足を向けた。
中庭へ行くと、知らない青年が立っていた。
背の高い、青みがかった黒髪の持ち主だ。目の色は鮮やかな金色で、夜の化身のように見える。
どこか不思議な感じがして、シェーラはその横顔を見つめた。
見つめていたのはそう長い時間ではなかったが、彼はふと気づいたようにこちらを見た。
「……ああ」
その瞬間、彼の瞳が甘くほどけた。
「こんなところにいたのか」
「え……?」
「やっと見つけた。ようやく会えた」
たった数歩で目の前に立った青年が、シェーラの前に跪いた。
下からすくい上げるように見つめられた瞬間、胸の中に何かが走った。
(これは……?)
十三歳のあの時、アイゼルに感じたのと同じ気持ちだ。
二度と訪れるはずのなかった感覚。ただし、それは以前よりもずっと強い。
ずっと離れていた自らの一部が、ようやく戻ってきたような。
長く失われていたかけがえのない何かが、この手に返ってきたような。
(……それに)
――やっと会えた。
こんな思いをするのが二度目など、あっていいはずがなかった。
「……あなたは誰?」
震える声で問うと、彼は嬉しそうに目を細めた。
「ジェイド。ジェイド・ドラクス」
「ジェイド……」
その名に覚えはない。おそらく会った事もないだろう。こんなに目立つ人、一度会ったら忘れないだろうから。
それに、彼はシェーラから目を離さない。まるで目を離したら消えてしまうと言わんばかりに。
彼は至福の喜びを浮かべた顔でシェーラを見た。
「君は私の番だ。ぜひ私の国に来てほしい」
「待って……何……」
何が起こっているのか分からず、混乱して後ずさる。彼はその場から動かなかった。
「驚くのも無理はない。私は竜の獣人だ」
「竜の……獣人?」
「番というのを知っているだろうか。魂の半身であり、一対の翼とも言う。長い間探していたが、どうしても見つからなかった。気配を感じたのはついさっきだ」
金色の目には歓喜があふれていた。
端正な顔立ちをした人物だった。野性味の強いアイゼルよりも気高く、物腰も洗練されている。年頃の娘なら誰もが心を奪われてしまうだろう美貌の主は、まっすぐシェーラを見つめていた。
その目に迷いはなかったが、シェーラはふたたび後ずさった。
「何をおっしゃっているのか分かりません。わたくしは、アイゼル様の……」
番だと言いかけて口を閉ざす。
もうそうではない。いや、とっくにそうではなかった。
その事に悲しみを覚えないのを不思議だと思う間もなく、「分かっている」と青年が頷く。
「分かっている。いや、それで分かったと言うべきかな。番が解消されたことで、私は君を見つけ出せた」
「どういう……ことですか?」
「番というのは、永遠ではないんだ」
そう言って彼が語ったのは、シェーラの知らない話だった。
「番はいつもひとりだけ。けれど、絶対ではない」
いくつか誤解を解いておこうと、彼は薔薇の茂みへとシェーラをいざなった。
「少し言葉を崩していいかな。込み入った話になるから」
「……ええ」
「じゃあ、改めて。私……じゃない、僕が知っていることを教えるよ」
言葉を変えると、彼は途端に子供っぽくなった。にこりと笑った顔があどけない。シェーラが目を丸くすると、「出会いだけはきっちり決めようと思ってたんだ」と、照れたように言われた。
「まあ……」
「その顔を見ると、成功かな」
ふたたび笑った青年は、そこで表情を改めた。
改めて彼が語ったのは、番についての伝承だった。
番にはいくつかの定説がある。
獣人のみが番を見分ける事ができ、人間にはほぼ不可能である。
出会った瞬間にそれと分かり、激しいほどの衝動に突き動かされる。
獣人が番を間違える事はなく、その絆は永遠である。
「他にもいくつかあるけど、代表的なのはこれくらいかな」
でもね、と彼は苦笑した。
「これは全部でたらめなんだ」
「えっ?」
「人間にも番を感じ取れる人はいるし、出会った瞬間に衝動に突き動かされるかは人それぞれ。そして、番を間違えることはある」
一本ずつ指を立てていく姿に、シェーラは思わずうつむいた。
では、やはりアイゼルは番を間違えたのだ。自分も……と思ったところで、「泣かないで」と慰められる。
「……わたくし、泣いておりません」
「そう見えたんだ。ごめんね」
「いいえ」と首を振り、シェーラは手元に目を落とした。そのまま、しばらく沈黙が落ちる。
ジェイドと名乗った青年は、急かす事はなかった。
シェーラが話を聞けるようになるまで、黙ってそばにいてくれた。
その事に気まずさを感じるよりも、安心を覚える事にシェーラは戸惑った。
やがて彼がふたたび話し始めた時、気持ちはずいぶん落ち着いていた。
「君はアイゼルに会った時、何か感じた?」
「……ええ、感じました」
春の訪れのような柔らかい気持ちと、やっと会えたという喜び。
激しくはないが、この人が唯一無二だという感覚があった。
それを告げると、彼は小さく頷いた。
「そう。きっと彼も同じように感じたんだろうね。惹かれ合う番同士は、互いの感覚まで共有するという話があるから」
「……ですが、違ったのです」
アイゼルは本当の番を見つけ、シェーラは捨てられた。
いや、先ほどの言葉が確かなら、最初からシェーラは番でさえなかった。
そう答えたシェーラに、ジェイドは首を振った。
「いいや、違わない。君は彼の番だった」
「ですが、わたくしは」
「番に出会った時、どう感じるかは人それぞれだ。さっき言ったように、強い衝動に突き動かされる場合もあるし、抗えないほど濃厚な甘さに酔うこともある。それとは逆に、小さな気持ちがゆっくり育っていくこともあるんだ」
「小さな……気持ち?」
「彼はそっちの方だったんだと思うよ」
ジェイドは困った顔をしていた。
「君たちの場合、絆はゆっくり深まっていくはずだった。片方が他種族である以上、それは自然なことだ。何も不思議な話じゃない」
同じものを見て、同じ経験を重ねていき、少しずつ互いに向き合う時間が増える。そうすることで、ゆっくりとつぼみがほころんでいき、やがて大輪の花を咲かせる。
けれど、そうはならなかった。
「わたくしが番だというなら、どうして……?」
「――番もどき」
発された言葉に、シェーラははっと目を見張った。
「君も聞かされたはずだろう。番でない者が、番のような気配を宿すことだ。故意か偶然かはともかく、そういうものが存在する」
そして、まがい物であるほど匂いが強い。
「匂いというか、気配というか。うまく説明できないけど、強く獣人を酔わせるんだ。ただし、これには特徴がある。その相手と肉体的に結びつくことで、爆発的に効果が高まるんだ」
「それは、まさか……」
言いかけてシェーラは口を押さえた。
確かにアイゼルはシェーラに触れられない事に不満を持っていた。
シェーラには言わなかったが、多少は発散していたようだ。それでも、番として大切にされていたのは事実だし、決定的な行為まではないと思っていた。
そもそも獣人が番を見つけると、その相手以外に性的な欲求は生じなくなる。正確に言うと、欲求が生じにくくなる。それが本能であるとも聞いていた。それなのに、なぜ。
「……本来は、番を見つけるだけで幸せなんだ。存在するだけで嬉しくて、見ているだけで満たされる。もちろん、気持ちが通じ合った後ならもっと嬉しい。でも……そうだな、人間でいうところの性欲は、獣人にはあまり当てはまらない」
「……では、どうして?」
「君に聞かせるのは少し抵抗があるけど……番を見つけた後の獣人は性欲が落ちる。正確に言うと、番以外が目に入らなくなるんだけど……見つける前は別なんだ」
「前?」
「そう、前」
言いにくそうにジェイドが口ごもる。んん、と咳払いして後を続けた。
「獣人は基本的に性欲が強い。種族問わず、特に肉食系の獣人はその傾向が強い。狼の彼も同様だね。さて、ここでひとつ問題です。彼は君という番を得ていたのに、そういった欲求がおさまらなかった。それはなぜ?」
「……わたくしに、魅力がないから……?」
「外れ。彼の方が未熟だったから」
しょんぼりと答えたシェーラに、君は魅力的だよとジェイドが笑う。そのまぶしい金色に目を奪われた。
「番に反応したのは二人ともだけど、彼の成長は遅かった。おそらく、肌を合わせたいという欲求もあったんだろう。それが叶えられない不満もあった。でも、君の体は獣人を受け入れるにはまだ早い。個人差はあるけど、あと半年は無理かな」
さらりと言われ、シェーラは思わず赤面した。
「……そういったことも、お分かりになるのですか……?」
「彼も分かっていたと思うよ。そして獣人の僕らにとって、番の肉体を手に入れるより、その体が健やかでいる方を望む。本能的にね」
だから、アイゼルが欲求不満で他の女性に手を伸ばす事自体、番としては未熟だったのだと彼は言った。
「とはいえ、これは建前だ。浮気性な獣人もいるし、番以外と契る獣人もいる。最愛であることに変わりはないけど、それはそれ、っていう手合いだね」
「それはそれ……」
「そういうところは人間と似ている。ただ、我々は番というものに割く感情の割合が大きくて、傾ける愛情も比べ物にならない。それだけの違いだよ」
だから、その事自体は責めないとジェイドは述べた。
「問題はね、そこじゃない」
その瞬間、彼の体から冷気のようなものが立ちのぼった。
わずかにびくりとすると、「ああ、ごめん」とジェイドが笑う。
春の陽光のような笑顔に、一瞬の冷気は跡形もなく解けた。
「――君は彼とどれだけの期間一緒にいた?」
「え……?」
「彼と出会ってから何年経った? その間、どれくらい彼と過ごしていた?」
「出会ったのは六年前で、一緒にいたのは……」
問われるままシェーラは答えていった。
彼と何を話し、どんな事を思ったか。
何を見て笑い、喜び、驚き、迷い、怒り、悲しんだのか。
意見が合う時、合わない時、ぶつかった時にどう感じたか、相手はどう答えたか。
答えていくうちに、今までの出来事が思い出される。
彼といて、シェーラが怒る事はあまりなかった。ただ、あまりにも強い愛情に戸惑い、困惑する場面はいくつかあった。当時はそれも愛情なのだと思っていたが、今考えれば違う気もする。
「……数年前、小鳥が飛んできたことがありました」