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第3話


    ***



 それからシェーラの生活はがらりと変わった。


「ちょっと、何これ? こんなぬるいお水、飲めないわよ」

 美しく装飾されたグラスを手に取ったエバナが、一口口をつけるなり顔をしかめた。


「汲み直してきて。今すぐによ」

「申し訳ありませんが、エバナ様。それは井戸から汲んだばかりなのです。汲み直しても、これ以上冷たくなりません」

 グラスを手渡したシェーラが言う。エバナはぴくりと眉を動かした。


「口答えする気なの? 生意気ね」

「控えろ、シェーラ!」

 そばにいたアイゼルが声を(あら)らげる。シェーラは「申し訳ありません」と目を伏せた。


「ですが、本当に無理なのです。どうか分かって……」


 バシャッ。

 言い終える前に、グラスの中身をかけられた。


「奴隷の分際で生意気ね。謝罪して」

「……申し訳ありません」


 濡れた髪のまま、深々と頭を下げる。

 その様子を止める者はいない。ポタポタと水の雫が落ちて、大理石の床を濡らす。


「差し出がましいことですが、これ以上冷たくするには氷が必要です。許可をいただければ、厨房に言って……」

「えー、そんなの面倒だわ。もう一度井戸に行ってきて」


「ですが、それでは……」

「それで駄目ならもう一度、それでも駄目だったらもう一度よ。私、氷が入っていないお水が飲みたいの」


 何度でもやり直しをさせると告げる顔には、愉悦にも似た笑みが浮かんでいる。


 井戸は庭の奥にしかない。この炎天下、何度も往復するのはそれだけできつい労働だ。慣れないシェーラでは井戸に取り付けられた綱を引っ張る事さえ難しい。

 シェーラの手のひらはすり切れて、衣服も薄汚れてしまっている。それでも彼らが攻撃の手をゆるめる事はなかった。


「ほら、さっさと行ってきて。これは罰なのよ。私とアイゼル様を長い間引き裂いていたことへのね」

「エバナの言う通りだ。お前さえいなければ、私はとっくにエバナと結ばれていたものを」


 二人は涼しい部屋の中で、寄り添ったまま過ごしていた。

 シェーラに「番ではない」と告げた日から、彼らは片時も離れずそばにいる。


 獣人の国へ赴くにあたり、シェーラは最低限の侍女しか連れていかなかった。それが彼らのしきたりであると聞いたからだ。

 こちらの生活に慣れるにつれ、連れて行った侍女もひとり、またひとりと国へ帰していった。最後に残ったのはシェーラだけだ。身ひとつでアイゼルの元に飛び込む事に不安はあったが、彼の愛情が後押ししてくれた。


 だが、それはこの地で何かあったとしても、誰にも助けてもらえない事を意味する。


 シェーラの生まれた国は大国だが、公爵家はその一領地を得ているに過ぎない。発言権はあるものの、絶対ではない。その娘ひとりのために戦をするなど、決してありえない事だろう。

 獣人族は特殊であり、いざ他種族との間に争いが起こった場合、種族を超えて共闘する。アイゼルの国だけならまだしも、獣人国すべてを敵に回せるはずもない。


 どうしてこんな事になったのか、どれだけ考えても分からない。

 分かるのはただ、すべてが変わってしまった事だけ。


 番という存在を妄信していたわけではない。けれどまさかこんな状況になってしまう事を、誰が予想できただろう?

 手紙を送ろうにも、周りはアイゼルの味方ばかりだ。

 今現在、シェーラのそばには誰もいない。


 侍女達が帰った後、シェーラにつけられたのはアイゼルが用意した者達だった。

 当然、すべて獣人だ。

 今はエバナの侍女となり、シェーラはひとりぼっちだった。


「ああ、私はなんと幸福なのだ。偽物の企みにも負けず、本物の番と出会えたのだから」

「私も同じ気持ちです、アイゼル様」


 彼らが睦み合う声を背に、シェーラはその場を後にした。



    ***



 それから三回も水を汲み直しに行かされ、まだぬるいとひとしきり罵られた後で、シェーラはようやく解放された。


「ほんと、あなたって役立たずなのね。水汲みひとつできないなんて」

「……申し訳ありません」

「疲れたわ。腰を揉んでちょうだい」

「かしこまりました」


 柔らかい敷物の上に寝そべるエバナは、透けるような衣装を身に着けている。以前は自分もそんな恰好をしていたのだろうかと、シェーラはぼんやりと考えた。


「痛っ、何するのよ!」

 言われるまま腰を揉みほぐしていた時、突然エバナが叫んだ。


「どうした、エバナ」

「この人、急に痛くしてきたの。きっと私に対する仕返しよ」

「なんだと、シェーラ。本当か!」


 アイゼルに怒りの形相を向けられて、シェーラはすぐに首を振った。


「違います。わたくしはいつもと同じように……」

「言い訳するな。手をついて、エバナに謝れ」

「……してもいないことを謝るわけにはまいりません」

「まあ、私が嘘ついたって言うの?」

「無礼だぞ、シェーラ!」


 アイゼルに怒鳴られたが、シェーラは頑として頷かなかった。


 彼らがくつろいでいる部屋は、少し前までシェーラが使っていた部屋だった。

 今のシェーラは奴隷用の部屋があてがわれ、着る物や食べる物にさえ事欠く日々を送っている。城中にエバナの命令が行き渡っているらしく、シェーラをかばう者はいなかった。


(……そんなことより)


 シェーラには気になる事があった。


「アイゼル様。最近、お体の調子がすぐれないのではないですか?」

「なんだと?」

「お顔の色が悪く見えます。夜もよく眠れていないのではないですか」


 シェーラの目には、アイゼルの不調が明らかだった。

 目の色が濁り、表情にも生気がない。顔色も青白く、頭痛にも悩まされているようだ。エバナがそばにいても変わらず、しょっちゅう他の人間に当たり散らす。


(もし、この方に何かあったら……)

 それを心配したのだが、返ってきたのは憎しみの混じる視線だった。


「誰のせいだと思っている、この番もどきが」

「番もどき?」

「お前のような者のことだ。なまじ紛らわしいせいで、本物の番と間違える。お前のように、薬や道具を使って番を偽る者や、番と間違うような気配を持つ者を指す。お前は正に番もどきだ、この偽物め」


「わたくしは、そんな……」


 この国に来る前に、番の事はよく調べた。

 まだ分からない事も多いが、文献はいくつも残っていた。

 番もどきという名は知らなかったが、確かに彼の言うような例もあると知っていた。

 片方が番によく似た気配をまとっているせいで、間違う事があるのだと。


 人間は番が分からない。基本的にはそう言われている。

 ただし、ごく少数だけ、それに当てはまらない例もある。

 シェーラはその例外だと思っていたが、違ったのだろうか。


「私をたぶらかした魔女だ、お前は」

 アイゼルが忌々しげに舌打ちする。


「お前の気配にさえ惑わされなければ、こんな間違いを犯すことはなかった。すべてお前のせいだ、シェーラ」

「アイゼル様……」

「私の名を呼ぶなと言ったはずだ!」


 アイゼルが近くにあった果物を投げつける。それはシェーラの胸に当たり、べしゃりと赤い実がつぶれた。

 自分の恋心が血を流していくような錯覚に、シェーラは胸元を握りしめた。


「……あなたはもう、わたくしを好きではないのでしょうか」

 ぽつりと聞いたシェーラに、アイゼルはきつく眉を寄せた。


「当然だろう。そもそも、お前を好きだと思っていたことが間違いだったのだ」

「間違い……ですか」

「お前は本物の番の地位をかすめ取っていた盗人だ。偽物の分際で、よくも今まで平気な顔で私のそばにいられたものだ」

「それをあなたが望んでくださったから、わたくしもおそばにいたのです」

「まだ言うか、偽物が!」


 彼が声を荒らげた時、「それでも」とシェーラは顔を上げた。


「わたくしがあなたをお慕いしていたのは、あなたが番だからではありません。あなたがあなただったからです」

「何を……」

「あなたもそうだと思っていましたが、違ったのでしょうか」


 シェーラの目は静かな悲しみをたたえていた。


 同じ時間を過ごし、同じものを見て笑い、喜び、共に悲しむからこそ、絆を深める事ができる。それは番だからではなく、この人といたいと思うからだ。

 運命や惰性などではない。そこに信頼と愛情があるからこそ、共にありたいと願ったのだ。


「わたくしもそうやって、あなたと絆を深めてきたと思っていました」


 それは間違っていたのでしょうかと静かに問う。アイゼルは眉をひそめ、少しも迷わない口調で言った。


「偽物の言葉など胸に響かぬ。お前と過ごした時間は、この上なく無駄だった」

「……そう、ですか」

「今からでも記憶を書き換えて、エバナとの思い出にしたいくらいだ。どうしてあの時、お前に出会ってしまったのか。あれが私の人生における一番の失態だ」

「失態……」

「そうだ、シェーラ。お前と出会ったことは、私の人生の汚点だった」


 お前は汚点だ、とアイゼルが言う。


「私の人生の中の、ぬぐい切れない汚点だ。お前と出会ったことが、私の不幸の始まりだった」

「不幸……ですか……」

「今からでも遅くはない、伏して謝れ。そしてエバナに取りすがって許しを乞え。この薄汚い、まがい物めが」


 彼の瞳に映る自分は、ただこちらを見返していた。

 その瞬間、残っていた恋心が砕け散るのを感じた。



「……わたくしを番だとおっしゃったのは、あなたではないですか……」



 囁く声は静かだったが、胸に迫るような悲しみがあった。

 初めて出会った時、アイゼルは熱を帯びた瞳で自分を見ていた。

 ただ純粋に自分を求め、その手を差し伸べてくれた。


 獣人でも、人間でも構わない。

 彼がもっと年上の男性でも、貧しくても醜くても構わない。太っていても痩せていても、いっその事、老人であっても構わない。やっと会えたと思ったあの時、シェーラの運命が決まったのだ。


 けれど今、美しかった思い出は跡形もなくなり、彼は自分を否定する。存在も、記憶も、何もかも。


 途方もない喪失感がのしかかり、体中を覆い尽くす。

 このまま溺れてしまうのかもしれない。それほどの絶望が体を満たす。

 今まで自分を育んできたはずの感情が色あせ、花びらのように散っていく。留めようとする指先を通り抜け、粉々になって消えていく。


 喜び、戸惑い、ためらい、驚き、そのすべてが消え失せて、何もかもまっさらになっていく。


 そして――あふれるほどの愛情も。




 プツリ。




 その瞬間、何か大きなものが自分の中から失われた事を知った。

 目に見えない糸が切れ、永遠に手の中を離れたのを知る。


 それが何かは分からない。愛おしくてかけがえのないものだったはずの何か。

 けれど、ふたたび顔を上げた時、シェーラの目は濡れていなかった。


「なんだ、その顔は」

 これまでとは違うシェーラの表情に、アイゼルが不愉快そうな顔になる。


「泣きもしないとは、本当に生意気な女だな。お前は」

「まあまあ、アイゼル様。奴隷相手にそこまで言わなくてもいいでしょう。曲がりなりにも公爵令嬢なんですから」


 ちっともそう思っていない声でエバナが取りなす。完全に面白がっているのが声で分かる。彼女は勝ち誇ったような瞳でシェーラを見た。

 だが、シェーラは反応しない。もっと言えば、できなかった。


「……そうだな。忌々しいことに、婚約の解消にも時間がかかる」

 そんな様子には気づかないアイゼルが息を吐く。


「余計なことは言わないと思いますけど、何をされるか分からないし。刺激しないのが一番ですよ」


 シェーラとの結婚がなくなれば、シェーラは自分の国に戻されるだけだ。その際、国同士の軋轢(あつれき)を避けるため、真実を伏せるようにと言われていた。


 あくまでもシェーラの心変わりが原因で破談になる。そう言い含められ、口外するなら殺してやると脅された。この国に味方のいないシェーラにとって、逆らえる話ではなかった。


 言われるまま手紙を書き、母国へ送った。アイゼルには何の瑕疵(かし)もないと書き添えて。

 内容は確認され、何度も書き直させられた。助けなど求められるはずもなく、その気力さえ湧かなかった。


「文句があるなら出て行け。誰も止めない」


 そう言うと、彼は小馬鹿にする目でこちらを見た。

 シェーラは何も言わず、ただ深く頭を下げた。

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