第2話
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「なんだ、まだ残っていたのか。このまがい物め」
先ほどの出来事は何だったのだろうと考えていたシェーラの前に、ふたたびアイゼルが現れた。
驚くシェーラを見据え、忌々しげに吐き捨てる。
黒曜石の瞳は冷ややかで、憎しみさえ感じられた。
「出て行けとおっしゃられましたので、自室で控えておりました。……あの、アイゼル様。先ほどのお話は一体……?」
「気安く私の名を呼ぶな。その名を呼んでいいのは、愛しい私の番だけだ」
汚らわしそうにシェーラを見る瞳には、ひとかけらの愛情も宿っていない。
何が起こったのか分からずに、シェーラは目の前に立つ人物を見つめた。
「出て行けと言っただろう。この城から、即刻立ち去れ」
「お待ちください、どういうことですか? わたくしはあなたの番ではないのでしょうか」
「ふざけたことを言うなよ、この偽物が」
その瞬間、アイゼルの体から怒気が立ちのぼった。
「お前はまがい物でしかない。その薄汚れた口で、私の番について二度と語るな。彼女こそが私の至宝、私の番だ」
「『彼女』?」
その時、アイゼルの背後にもうひとりの人物がいる事に気がついた。
「身の程をわきまえない愚か者に教えてやろう。彼女こそが私の半身、本物の番だ」
「こんにちはぁ、初めまして」
甘ったるい声とともに進み出たのは、ふわふわした亜麻色の髪の少女だった。
「私、三日前にアイゼル様にお会いしたんですけど、その時にびっくりしたんです。よく分からないけど、『この人だ』って思って。そうしたら、アイゼル様も私のことを同じ目で見つめているんだもの。驚いちゃって」
「まさに雷に打たれたような衝撃だった。エバナ……彼女が私の番だと分かった」
アイゼルが愛おしそうに少女の肩を抱き寄せる。エバナと呼ばれた少女はくすぐったそうにそれを受けた。
「こんな運命の出会いってないでしょう? それで、私はアイゼル様の番になったんです」
「そんな……」
見つめ合う二人の目は互いしか映していない。
特にアイゼルの顔はとろけ、完全に心を奪われている。エバナを心から愛しているようだ。
頬への口づけを受けた後、エバナはちらりとシェーラを見た。
「それで……そう考えると、おかしなことになっちゃいますよねぇ?」
「おかしなこと?」
「私がアイゼル様の番なら、今いる『番』って何なのかなって。だって、おかしいでしょ? 番が二人いるなんて」
「!!」
番は一対のものであり、例外はない。
ひとりの獣人に二人の番がいるはずはない。いたとすれば、どちらかが偽物なのだ。
「私、前に聞いたことがあるんです。特殊な薬や香水を使うと、番を間違える場合があるって。シェーラ様、心当たりってないですか?」
「わたくしは、何も……」
「ほんとに? ほんとにないですか?」
エバナは執拗に問い詰める。まるで何かあると確信しているように。
「それなら室内を調べてもいいですよね。本当にやましいことがないなら」
「室内を?」
反射的に問い返してしまったのは、エバナという少女がどう見ても平民の少女だったからだ。
シェーラは公爵家の姫であり、彼女とは身分が違う。
いくらなんでも無礼な言動だと思ったが、それを聞いたアイゼルが許可を出した。
「構わない。好きなだけ調べろ」
「アイゼル様……!」
「黙れ。耳が腐る」
シェーラの抗議を封じ込み、アイゼルは冷たく言い捨てた。
「荷造りの手間が省けていいだろう。どうせこの部屋はエバナのものになる。お前がいたせいで、私はエバナと出会えなかったのだ。この責任はどう取るつもりだ」
「そう言われましても、わたくしは……」
この国に行きたいと告げたのはシェーラだが、先に望んでくれたのはアイゼルだ。
どうか私の元へ来てほしいと、情熱的にかきくどいてくれた。
差し出された手は温かく、シェーラの戸惑いごと包み込んでくれた。
アイゼルはシェーラを番だと言ったし、シェーラもそう思っている。
あの時感じた気持ちは嘘ではない――はずだ。
それなのに、なぜ。
「……わたくしを番だとおっしゃったのは、あなたです」
「だから、それが間違いだったのだ。思えばあの時、私はエバナに出会った時ほどの衝撃を感じなかった。確かに胸の奥が満たされるような気持ちになったが、それだけだ。エバナを一目見た時のような、突き動かされるほどの感情はなかった」
「わたくしもあなたにお会いした時、心が満たされました。あれは間違いではありません」
「それもお前の思い込みだ。いや、策略か」
舌打ち交じりに言われ、「策略?」とシェーラが問う。
「私を手に入れるために、お前が仕組んだことだろう。まったく、姑息な真似をする」
「わたくしはそのようなことしておりません。あなたと出会った時に感じた思いは真実です」
「まだ言うか、偽物が」
アイゼルの目に宿る蔑みは、憎しみに形を変えていた。
彼にそんな目で見られる事も初めてなら、そんな言葉を向けられるのも初めてだった。
どうしていいか分からなくなりかけた時、「あった!」という声がした。
「シェーラ様、これはなんですか?」
高く掲げたエバナの手にあったのは、見覚えのない小瓶だった。
「これは番の気配をごまかすための香水です。どうしてこれがシェーラ様の部屋に?」
「わたくしは、何も……」
「これを使って、アイゼル様をだましていたんですね。ひどい方。こんなまやかしの匂いで、私とアイゼル様の仲を引き裂こうだなんて」
エバナが開けていた引き出しは、普段何も入れていない。
それゆえ、いつもは開けてみる事もない。
どうしてそんなものが見つかるのか分からなかったが、エバナは胸を張ってこちらを見ていた。
そういえば、彼女はすぐに部屋の奥を目指していた。物陰になる位置でかがみ込み、何かの作業をしていたようだ。彼女が立ち上がったのはそのすぐ後だった。
エバナの服装は布をたっぷり使ったもので、小瓶ひとつくらい容易に隠せる。
いや、それとも侍女を買収していたのか。今となっては分からない。
「わたくしは知りません。それはわたくしのものではありません」
首を振ったシェーラに、アイゼルは不快気に眉を寄せた。
「見苦しいぞ、シェーラ。いい加減に認めろ」
「いいえ、できません。真実でないことを認めるわけにはいきません」
「強情な……」
アイゼルが苛立った顔を見せたが、「もういいですよ、アイゼル様」という声に口を閉ざした。
「こうやって証拠が出た以上、何を言っても同じですって。どうせシェーラ様は認めないでしょうけど、どうします?」
「結婚は白紙、公爵家には厳重な抗議をする。エバナの見つけた証拠も一緒にだ」
「あーでも、そうなると大事になっちゃいますよねぇ。私、アイゼル様との結婚前にごたごたするのはちょっとイヤかも」
「だが、このままにはできないだろう」
アイゼルの言葉に、エバナはぷらぷらと小瓶を振った。
「そうだ」と彼女が指を鳴らしたのはその直後だった。
「ねえシェーラ様、これ、シェーラ様個人で考えたことですか?」
「え……?」
「それとも公爵家の方々もグルなんですか。答えてください」
エバナの瞳は意地の悪い光を浮かべていた。
「……わたくしには、なんのことだか分かりかねます」
「じゃあ公爵家の人々もグルってことでいいですか? その場合、大変なことになっちゃいますけど」
「父も何も知りません。言った通り、そんなものに覚えはありません」
平民のエバナが言葉を崩し、公爵令嬢であるシェーラが丁寧な言葉遣いをしている事に違和感があったが、アイゼルはそれを咎めなかった。
「うーん、それじゃあ困るんですよねぇ。ちゃんとご自分の罪を認めてくれないと」
「おっしゃる意味が分かりません。わたくしは何も知りません」
「強情な方ですね。私はこう言ってるんですよ」
そこで彼女はシェーラの元に駆け寄ると、ひっそりした声で囁いた。
「……あんたの実家が巻き込まれてもいいかって聞いてんの」
「……!!」
はっと目を見張ったシェーラに唇を吊り上げ、エバナは「ふふっ」と可愛らしく笑った。
「今ならシェーラ様の暴走ってことで、大事にはしないであげますよ。おとなしく罪を認めてくれるなら。そうすれば、公爵家は安泰です」
「待て、エバナ。そういうわけにはいかない。番を偽るのは重罪だ。せめて賠償を……」
「いいじゃないですか、アイゼル様。シェーラ様は失恋して、番の地位も失ったんです。それくらいは許してあげなくちゃ」
アイゼルの首にしがみつき、エバナが甘えるように言う。
それだけでアイゼルの顔がとろけ、愛おしそうに彼女を抱き寄せた。
「なんとやさしいのだ、私の番は」
「あっでも、罰は必要ですよね。うーん、そうですね……。あっ、こういうのはどうですか?」
そこでエバナがアイゼルに耳打ちする。
アイゼルはわずかに眉を寄せたが、エバナが笑顔を見せると途端に顔をほころばせた。
「仕方ない、エバナの言う通りにしよう。だが、本当にいいのか?」
「だって、面白いじゃないですか。結婚までの暇つぶしですよ」
それに、とエバナが含み笑う。
「偽物の番が本物の前でどんな顔をするのか、とっても興味があるんです。……だからね、シェーラ様。ううん、ただのシェーラ。私のお願いを聞いてください」
歌うように軽やかに、エバナが言う。
「奴隷になってほしいんです。結婚式までの間、ずっと」