第1話
「シェーラ・オルゴット。お前はもう番ではない」
その言葉を告げられた時、シェーラは耳を疑った。
「……今、なんと?」
「聞こえなかったのか。お前は私の番ではない。この偽物が、よくも長年の間だましてくれたな」
憎々しげにこちらを見る男は、アイゼル・ウォルフス。狼の獣人であり、彼らを束ねる国の長だ。
この世界には獣人という種族が存在する。
獣の特性を持ち、嗅覚や聴覚に優れ、人によっては獣の耳や尻尾を有する。
他にも、熊やウサギの獣人、鳥やトカゲの獣人など、その種類も様々だ。中には竜の血を引く獣人もいると聞くが、未だに会った事はない。
獣人には、他の種族にはない性質がある。
曰く――番。
雌雄問わず、彼らには運命の相手が存在する。
一生に一度訪れる出会いで、その衝撃は二度とない。
それを番と呼び、獣人にとって何よりも特別な存在とされる。
番と出会った獣人は、至上の喜びを感じるという。
自らに流れる血が沸き立ち、鼓動が高まり、感じた事のない愛おしさに満たされる。
そして、その相手と心を通わせる事ができれば、とてつもない幸福感が訪れるという。
それだけではない。
番を手に入れた獣人は、目覚ましいほどの変貌を遂げる。
思考が研ぎ澄まされ、すべての能力が向上し、別人のように成長する。また、番を手に入れた幸福からか、寿命さえも延びると言われている。
生まれた子は優秀で、両親の優れた特徴を継ぎ、容姿も秀でる場合が多い。ごく稀に、次代に恵まれない場合もあるが、その際も生涯思い合い、ひたすら互いを大切にする。長い道のりの先、永遠に分かたれるその時まで。
ゆえに、獣人の国において、番というのは特別な存在なのだ。
シェーラがアイゼルと会ったのは、六年前の事だった。
――失礼だが、名前を聞いてもいいだろうか。
人間であるシェーラは、公爵家の血を引く娘だった。
王宮で開かれた夜会に参加した十三歳のシェーラが、当時二十一歳のアイゼルに声をかけられた。
目を上げた瞬間、シェーラの胸に走った感情は言い表せない。
精悍な顔をした青年だった。
焦げ茶色の髪はまっすぐで、凛々しい瞳がこちらを見ている。黒曜石のような輝きに、思わず目を奪われた。けれどシェーラが驚いたのは、もっと別の理由だった。
(前にも、この人に会った気がする……)
正確に言えば、やっと会えた。そんな気がした。
もちろん、それは気のせいだ。シェーラが彼と会った事はない。
すぐに薄れて消えてしまった感情は、それでもシェーラの胸に灯を点した。
人間の言葉で言えば、一目惚れ。
けれど、そう説明するには少し違和感がある。
彼の容姿は優れているが、もっと美しい人もいるだろう。瞳の色だって、もっと鮮やかな色を持つ人間はいくらだっている。
――でも、違う。
(この人だけが、特別だ……)
そして同じ事を目の前の青年も思っているのが伝わってきた。
年齢も、見た目も関係ない。おそらく種族や性別さえも。
この人がたったひとりの人であり、他の誰にも代わりはしない。
その瞬間、シェーラの運命は決まったのだ。
「私の名前はアイゼル。もしよかったら、私の国に来てくれないか」
必要な手順も根回しも飛ばして、彼はシェーラに手を差し出した。
熱に浮かされた瞳にシェーラを映し、至福の喜びに満ちた声で言う。
「君が私の番だ。間違いない」
***
(あれから、六年も経ったのね……)
アイゼルの前を辞し――正確に言えば、「出ていけ」と冷たく追い払われた後、シェーラは部屋に戻っていた。
王城の中にあるこの部屋は、シェーラのために調えられたものだ。
出会った当時、まだ幼かったシェーラを他国、それも獣人の国へ嫁がせる事に、父であるオルゴット公爵は難色を示した。
アイゼルの国は大国でもなく、軍備や貿易に重要な拠点でもない。申し出を突っぱねる事はたやすかったが、彼のシェーラに対する情熱と、こちらが赤面するほどの深い愛情表現に、次第に公爵の態度も変化した。
最終的に受け入れたのは、シェーラの意志を聞いたためだ。
――お父さま、お願いいたします。どうか、あの方の元に行かせてくださいませ。
まだ幼さの残る娘が、懸命な顔で訴えた。
どこにこんな強さがあったのかと思うくらい必死なまなざしだった。
シェーラ本人にとっても、その感情はうまく説明できなかった。
初恋さえ知らなかったシェーラには、自分の中からどうしてこんな感情が湧き出てくるのか分からなかったのだ。
――自分でも説明できないのです。ですが、あの方と初めてお会いした時、やっと会えたと思ったのです。すぐにその感覚は消えてしまいましたが、それでもあの時、確かにそう感じたのです。
娘の懸命な訴えを聞き、公爵もとうとう折れた。
だが、ただ感情に流されたわけではない。彼には彼なりの思惑があった。
番という存在を、公爵も知識として理解していた。
番は必ずしも同族ではなく、他種族からも現れるのだと。
特に、獣人との子を成しやすい人間はその可能性が高く、今までにも何人も選ばれていると。
人間は獣人と違い、番を感知する事はできない。
けれど、ごく稀に、「この相手がそうだ」と理解できる場合がある。
シェーラもそうだったのだろうと、公爵は納得するしかなかった。
それに、と公爵は思った。
番を選んだ獣人は、その番を生涯大切にするという。命を懸けて守り、その生涯を終えるまで愛し抜き、片割れを失ってからもずっと番だけを想い続けるのだと。
そこまで愛されるのならば、娘は幸せかもしれない。公爵はそう思ったのだ。
何よりも、シェーラがそれを望んでいた。
結婚はまだ先だが、婚約はつつがなく済ませた。
十六歳には一通りの教育を済ませ、十七歳でシェーラは獣人国へ向かった。生活に慣れる必要があったのと、アイゼルが強く望んだためだ。
アイゼルはいつも情熱的で、シェーラを心から愛してくれた。ごくたまに、愛情表現が行き過ぎて困惑する事はあったが、それでも不安な事はなかった。
シェーラの銀の髪に似合うと髪飾りを贈り、スミレの瞳に似合うと耳飾りをくれた。何か困った事はないかとこまめに聞き、どんな願いも叶えようとした。
結婚まではと、口づけさえ交わす事はなかったが、手の甲へのキスだけは許された。二人の年齢差もあったし、シェーラも気恥ずかしさの方が勝っていた。もっとも、アイゼルは多少不満そうだったが。
シェーラが成長し、結婚式まであとわずか。
彼から「番ではない」と告げられたのは、そんな時の事だった。
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