24 アイリス・ニクマール
アイリス・ニクマールは西の都市『イグニール』の商家の長女として産まれ、物心ついた時からずっと母親に「貴女は結婚して家を出るのよ」と言われ育てられた。
12歳になったある日、アイリスは母親の嘘を知ってしまう。毎日のように「貴女は結婚するのよ」と言われ育っていたが家の外の世界は違うことを知ってしまった。
街は華やかさで綺麗でうるさくて、自分の知らない世界に出会った。そこには女性が活躍している舞台や仕事がたくさんあった。
結婚だけが幸せではなかった。
子供ながらにアイリスはそう感じた。
そのことが原因で母親と喧嘩をし家を飛び出したアイリス。
だが12歳の子供である。どこに向かえば良いのか全くわからない。ただひたすらに街を走って疲れたら物陰で休み、休んでいると変な男に腕を掴まれ誘拐されそうになり、暴れて急いで逃げ出し、無我夢中で走り続け辿り着いた先はアイリスの祖父、ジェイムズの家だった。
どうしたら良いのかわからずアイリスは扉の前でずっと固まっていた。
何十分、何時間経ったのかわからないが突然、扉が開き白髪の老人が杖をつきながら出てきた。
老人は驚き、離した杖はカランと音を立て地面に倒れる。だが老人の目は落とした杖よりも先に目の前にいる少女を驚いたと言う目で見つめた。
その少女の目は暗く曇り視点が合っていない。もしかしたら扉が開いたことにすら気づいていない。
その老人は少し腰を屈めアイリスと視線を合わせゆっくりと声をかけた。
「アイリス?」
「おじいちゃん……」
そこで初めてアイリスは扉が空いたことに気づいた。
おじいちゃんの姿を見て安心したのかアイリスの頬には大粒の涙が滝のように流れる。
ジェイムズは何も言わずにアイリスをギュッと抱きしめる。
「大丈夫。安心しろ、ここは安全だ。」
着ている服は砂で汚れ、暴れた時に破れたのか白い肌が見え隠れする酷い有様のアイリスをジェイムズは何も言わずに迎え入れる。
妻である、ミシェルを呼び、替えの服を持ってきてもらい風呂を炊いてくれと頼む。
孫の変わり果てた姿を見たミシェルはそっと最愛の孫を抱きしめてから二階に続く階段を登って行った。
リビングのソファーに座らされたアイリスは何の変哲もない壁をずっと見つめている。
ただの白い壁だ。
その様子をずっと台所から見ていた普段料理などしないジェイムズは暖かいココアをいつも料理をしているミシェルの見よう見まねで作り、アイリスに手渡しその隣にそっと腰を下ろした。
「あっついぞ、気をつけて飲め」
熱くなり始めた陶器のカップを両手で大事そうに包み込み、すこしふーふーしながら飲み始めるがすぐに顔色がおかしくなる。
「ど、どうしたアイリス? さ、砂糖と塩を間違えたか?」
上手くできたと自負していただけに不味そうな目でカップから口を離したアイリスに慌てて声をかける。
そして恐る恐る自分の分のココアに口を付けると口の中に強烈な苦味が走る。
「苦っい、なんだこれ、量を間違えたようだな、ごめんなアイリス、今作り直してくる」
ジェイムズは立ち上がり「かぁさん!」とミシェルに任せようとするがボソッと「大丈夫」と言うアイリスの声が聞こえた。
「で、でも、飲めないだろ」
「大丈夫。美味しいから」
アイリスはその苦いココアをゆっくりとゆっくりと少しずつ啜り飲む。
だが表情までは隠し通さず不味そうな顔色を浮かべた。
またアイリスの隣に座りジェイムズも失敗作のココアを一気に飲み干し、「ぁあわぁあっぁぁ!」とこの世のものとは言えないほどの叫び声を上げ、壊れたように笑い声を上げた。
「完全に量を間違えた。失敗失敗、あははは」
恥ずかしそうに髪の毛が減った後頭部をゴシゴシを掻き、言い訳をしていると先ほど呼ばれたミシェルが色々と服を手に抱えて戻ってきた。
「どうしたの? あなた」
「いや何、ミシェルの真似してココアを淹れてみたがどうも量を間違えたようでな、酷い不味いのが出来たんだ」
「まさか、それをアイリスに?」
アイリスのカップを「ちょっと貸して」と言い受け取るとその中身を僅かに口に含んだ瞬間、思わず中身を吐き出した。
「あんた馬鹿じゃないの? なんでこんな苦いの孫に飲ますの?」
こっぴどく叱られしょぼんとしたような顔をして「だって知らなかったし」とボソボソと口にするがそれは火に油を注ぐようなものだ。
「はあ、」と自分の感情を制御するために一度ため息を吐くと、少し怒りの感情が滲み出た声でジェイムズを叱る。
「私を呼んでくださいよ、貴方、料理もしたことないんだから、やったことないことに挑戦しても失敗するだけよ」
「忙しそうだったから……」
悪気があってこういう事をしたのではない。ミシェルもそれがわかっているのか、それ以上ジェイムズを責めるのはような言葉を吐くことはしなかった。
「アイリス、お父さんがごめんね、今新しいの作るから」
ミシェルも同じようなことを言い台所に向かうとするが服の裾が摘まれていた。
「大丈夫、それ飲む」
「でも、不味いわよ」
「大丈夫」
アイリスに押し切られるような形で不味いと身をもって体感したココアを渋々返すとアイリスは苦い顔をしながら飲み始めた。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「まるで毒みたいに言わなくても」
「貴方は静かにしてて」
「はい」
「大丈夫、美味しいから」
2人の掛け合いを見ていたアイリスがわずな声量で呟く。
「無理しなくて良いからね、残ったらお父さんが飲むから」
思わず目を見開き、「そ、それは酷いじゃないか」と言うとしたが言ったら言ったで怒られるのは目に見えたからそれを口にすることはなかった。
2人の会話にアイリスは少し笑みを見せた。
それを見た、2人の安心したようなため息が合わさった。
アイリスが落ち着いたのを見計らいミシェルはアイリスを連れ隣の部屋へ向かい、持ってきた服の中からサイズの合う服を探し、着替えさせた。
戻ってきたアイリスは黄色いワンピースに黒いベルトを巻き、まだ小さかった時の母親と瓜二つであった。
それもそのはずだ、棚の上に置かれ写真立ての中に入れられた写真にはアイリスと瓜二つの女の子が両親と共に写った写真が入っている。その中の少女が来ている服と今、アイリスが来ている黄色いワンピースは同じ物でアイリスの母フローネがアイリスと同じ年頃の時に着ていた服なのだから。
フローネは結婚し家を出る時。2人に捨てておいてと言っていたがそこは親だ、そんな事を真に受けるはずもなく、大事に取っておいた。それが約二十年時を経て役立つ時が来た。
ミシェルの目には懐かしい思い出が蘇ったのか涙が浮かぶ。ジェイムズがそっとその涙を拭き取り老人特有の優しい笑みを向けた。
♢ ♢ ♢
元から買い物に行く予定だったジェイムズはミシェルに怒られる前に買い物に出かけ、アイリスと2人っきりでの時間が続く。
時計の秒針がトントントントンと刻む規則的なリズムだけが聴こえる。その秒針は速くなることも遅くなることもないはずだが体感的にはドンドン速まっているように感じる。
ミシェルはタイミングを見計らいそっと「何かあったの?」と問いかける。
アイリスの肩が飛び跳ね「ごめんね、嫌なこと聞いて」とすぐに謝るがアイリスの視線はずっと床を見続け心の中で何かと葛藤しているのか小さな拳が固く握られる。
「ーーお母さんと喧嘩した」
アイリスは消え入りそうなほど小さな声でボソッと口にした。




