First Love (7)
「いやあ、年を取ると涙もろくなるね… 文彦くんもいるかい?」
崇はそう言って、鼻をかみながら文彦にティッシュを差し出した。文彦はそれを受け取ると、目元を拭い、隣の茉莉花を見た。まだ泣き止むことができないようだった。先程まで明るく振る舞っていた茉莉花の様子からは想像できないその姿に、文彦は驚いた。
「私、外に出てるね… 」
涙声でそう言いながら、茉莉花はスタジオの出口に向かった。
「俺が付き添います」
気遣うように茉莉花の背に手を当てながら、誠司がそう言い、茉莉花について行く。どこか、こうなることを予期していたような雰囲気だった。スタジオに入る前から誠司の表情が暗かったが、そのせいだったのだろうか。茉莉花も、わざと普段よりも明るく振る舞っていたのだろうか。どことなく、そんな気がした。崇は何か声を掛けて二人を見送ると、ブースの方を向いて真に言った。
「お疲れ。文彦くん来てるよ。いったん上がって、休憩にしようか」
「うん」
真が答える。ブースが明るくなり、真が入っていた専用チェアのカバーが開く。フルフェイス型のデバイスを脱ぐと、真は座ったまま自分の右手を見つめ、何かの感触を確かめるように、それを天井にかざして眺めていた。しばらくそうした後、ようやく自分の頬を涙が流れるのに気付き、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭う。そして、何事も無かったように専用チェアから立ち上がり、掛けてあったブレザーをゆっくりと身に付けた。
(いつもこうなんだろうか?… )
表情を変えず、淡々とした動きの真を見て、文彦は疑問に思った。その様子からは、とてもあのような音楽を内に秘めているようには見えなかった。ひょっとしたら学校にいるときもそうなんだろうか? いつも心の中にはあんな音楽があるんだろうか? 何の変哲もない教室の風景が、そう思うだけで全く別の世界のように思えた。真がブースからこちらに戻ってくるのを見て、文彦は崇に質問した。
「リアルタイムオーケストレーションのテストだったんですね。成功ですか?」
「いや、今回も失敗だよ… 」
「これで失敗なんですか?」
「そうか、ごめん。まだ何も説明してなかったね。これを見てごらん」
そう言って崇は AR のモニターを指し示す。
「ほら、演奏の最後の方でブレイブが消失してるだろ。脳波の活性度は高いままだから、音楽のイメージを音にしきれてないんだ… 」
モニターにはブレイブと脳波の活性度がグラフで表示されていた。その上には、消失していくブレイブの様子が映し出されていた。
完璧な演奏に聴こえた。元からこういう曲だとばかり思っていた。だが、途中から失敗していたらしい。コントロールルームに戻ってきた真は、隅のソファーに腰掛け、飲みかけの飲み物に口を付けていた。特に気落ちしている様子もなく、落ち着いた表情に見えた。
(どういうことだろう? ひょっとして… )
ひょっとして、こうなるかもしれないと分かっていて演奏したんだろうか。だとしたら、あの涙の意味は…? 少しずつだが、さっきの曲の意味が分かってきたような気がする。あの少女は真自身で、煌く星々は真が想い描いていた音楽なんだ。手が届かないことを分かっていて、手を伸ばしたのだ。ブレイブが消失することも、音が消えていくことも計算に入れて、あの演奏をしたのだ。だとしたら、決して失敗などではない。やはり、完璧な演奏だったのだ。その上での、あの涙。
(悲しんでいるんだ… 手が届かないことを… )
文彦は、ソファーに座る真にもう一度目を遣った。落ち着いた表情のその裏に、あれほどの悲しみを潜ませていたのだ。今ようやくそのことに気づいた。一昨日の放課後の、助けを求めるような真の姿を思い出しながら、文彦は強く心に思った。
(もし、自分に出来ることがあるのなら、真を助けたい。この悲しみを止めてあげたい… )
意を決して、文彦は崇に告げた。
「その、やってみたいことがあるんですが、あのブレイバー、使わせてもらってもいいでしょうか?」
これが、文彦と真が共に音楽活動を始めるきっかけとなった、最初の一言だった。