First Love (3)
翌日の朝、真と一緒に日直の当番となった文彦は、学級日誌を受け取りに職員室に来ていた。担任で国語教師の野場英一は、同級生からは親しみを込めて「ノバちゃん」と呼ばれていた。中等部の頃から人気の先生だったらしい。ガタイが大きく、いかにも頼りがいのある風貌で、生徒と距離を置かず、親しみやすい雰囲気の教師だった。
「先生、おはようございます。学級日誌もらいに来ました」
自席に座る野場に文彦が声を掛けると、野場は文彦の方に体を向けて答えた。
「おう、おはよう。お前もノバちゃんでいいぞ」
「それはちょっと… 」
「ハハハ。遠慮するな。真は?」
「教室です」
「そうか。それじゃ一つ、頼みがあるんだが… 」
学級日誌を手渡しながら、野場はそう言う。日直だし、何かの雑用だろうと思いながら、文彦は軽い気持ちで返す。
「何ですか?」
「伊藤、今日からお前を『真がかり』に任命する」
「… 何です? その『真がかり』って?」
「隣の席の、佐伯真のお世話係。あいつ、授業中に教科書もノートも出さないから、見せてあげて」
「いいですけど… 僕がやるんですか?」
思いもしなかった頼みごとに驚きつつ、それって先生が指導するものでは、とも思いながら文彦は聞き返した。
「うん。教師が何度言っても言うことを聞かないんで、中等部で有名になってな… まあ、頼むよ」
「いいですけど、教科書とノートを見せるだけですよね?」
「まあ、そうなんだが… 詳しいことは俺から言うのもなんだから、隣のクラスAにいる斎藤誠司ってやつに聞いてくれ」
「… 分かりました」
と言いつつ、よく分からないままとりあえず引き受け、文彦は教室に戻った。
教室には、昨日の朝と全く同じ姿勢で真が座っていた。「真がかり」のことを聞こうかとしばらく迷ったが、本人にどう切り出せばよいか分からず、日直の当番のことなどを話しているうちにホームルームになった。その後も日直の仕事をしているうちに1時間目の授業となり、結局聞きそびれてしまった。
1時間目は英語のリーディングの授業だった。文彦は教科書やノート、辞典などを机の上に並べながら、隣の席の真に目を向ける。窓の外を眺めたまま、全く動く気配がなかった。教科書を忘れたのだろうかとも思ったが、それ以前に、そもそも授業が始まることに感心が無いように見えた。どう声を掛けたらよいか迷っているうちに、担当の男性教諭が教室に入ってきて、文彦が日直の号令を掛け、そのまま授業が始まってしまった。
先生はちらりと真に目を遣ったが、そのまま何も言わず、授業を進める。どことなく教室に緊張感が漂った。先生が教材の説明や授業の内容、進め方などを話し終わると、さっそく教科書の本文に入ることになった。
「では、教科書7ページ目、出だしのところから、まずは英文を読んでもらいます。佐伯さん、お願いします」
文彦は教科書を差し出そうとしたが、真はそれには目を向けず、スッと立ち上がり、両手を体の前で重ね、少し目を伏せると、何も見ずに音読を始めた。小さいが、よく通る声だった。非常にきれいで正確なイントネーションだ。何よりも、授業初日で教科書の内容を一字一句正確に暗唱しているのに驚いた。
(高校の授業って、こういうものなんだろうか… いや、まさかそれはないよね?)
文彦は、真の様子に戸惑いながら、そんなことを考えていた。教室を見渡すと、不思議なことに、みな、さほど驚いているようには見えなかった。自分が驚きすぎなんだろうか?
「では、今のところ、訳してみてください。引き継ぎ佐伯さん、お願いします」
1ページ分ほど読んだところで先生が言う。さすがに内容が多すぎだろうと文彦は思ったが、真は淀みなく今読んだ英文を日本語に訳していく。むしろ、訳したものを読み上げていく、という感じだった。全くつっかえず、完璧な日本語訳だった。文彦が唖然としていると、先生は言う。
「佐伯さん、ありがとうございました。パーフェクトです。みなさんはここまで完璧でなくてよいですが、当日読み進める分は、あらかじめ予習しておいてください。あと、佐伯さん、この授業は板書もありますので、ノートは取るようにしてくださいね。伊藤さん、教科書とノートを見せてあげてください」
「あ、はい」
文彦はそう答えると、机を隣に寄せて、真と自分の間に教科書を置いた。
「ありがとう」
真が小声で言う。教科書のお礼というより、先生の言う通りにしてくれたことへのお詫びのようにも聞こえた。真とこうして机を寄せて教科書を見せ合う関係がこのまま3年間続くとは、このとき文彦は思っていなかった。だが、真はそのことを意識していて、関係のない文彦を巻き込んだことに、少し罪悪感を感じていたのかもしれない。後になって思い返したとき、文彦はふとそう思った。
その後の授業でも、担任が言うように、真は教科書もノートも出す様子はなく、文彦は机を寄せてそれらを見せてあげた。どうやら鞄には適当にいろいろ詰め込んだだけで、そもそも今日の授業の教科書を持ってきていないようだった。授業はちゃんと聞いていて、訊かれた質問には相変わらず完璧に答えていた。だが、しばしば窓の外を見つめ、心ここにあらずという感じだった。