彼のもとへ
電車が駅につき、吊革につかまっていた者や腰掛けていた二人連れらが先を行くのを見送りながら、最後になって藍はひとりホームへ降りると、そのままうつむきかげんにぎゅっとコートにくるまり歩む折から、ひらひらと地面を舞って来た紙切れをブーツのつま先で蹴飛ばそうとした途端、横風がふいとさらって、思わずそのゆくえを追うと、ふらふらと煽られた紙切れはベンチまで飛んで行きその脚にぴたりと貼りついて静止した。
一瞬間そのさまに見惚れたものの、再び風に乗って羽ばたきだしたのをよそに藍はそれとは気づかぬのか、すでに出口へむかって階段を下り、改札を抜けるとすぐ先に見えるコンビニに入って、おつまみと彼のためのビールを小さな買い物かごに入れながら、なお店内をまわるうち、おのずとひき寄せられるままにボトルワインを手にとるや否や、たちまち彼の冷蔵庫にそっと忍ばせてあるこれより少しばかり良質な白ワインの風味をかぐ思いをしながら、ふっと口元をほころばせた。
コンビニをでて右に進むと、夕食時の郊外に似つかわしくごく慎ましい賑わいを見せる通りを、初冬の風がみたび吹きつけコートの裾がはためくうち、明かりは早くもやわらぎながらひっそりとした薄闇へと立ち戻るなか、藍の心だけはぽっと温かくなるままに足元はおのずと軽く、静かな外灯を頼りに誰とも擦れちがわぬうち道を二度曲がって、しばらく歩くと一際高い木々が歩道のわきに立ち並ぶのを見上げながらそれも過ぎると、折から過ぎゆく乗用車のライトが一軒家の玄関先にたたずむ青紫の花々をあざやかに照らす。
ふと目を射た色彩に藍はぽっと惹かれるとともに、すぐと赤ワインを連想して、舌にそのほの苦い甘さを思い出しながら立ち止まって振り返ると、すでに明かりはなく、優雅な花々はその残像を残したままひっそりしている。
しばし名残の眼差しをただよわせるうち、藍はふいと向き直り、手に提げた袋をにぎりしめて歩む折から、すぐと見えた二階建ての彼のアパートの外階段を上がって奥から二番目の部屋に行き、袋を持ったままの手でベルを押した。留守なのか幾度か押しても出ないので、それも最近慣れっこになりつつある藍は、ハンドバッグから合鍵を取りだして鍵をまわした。
ブーツをぬいで隅に寄せ、廊下をぬけて八畳の部屋に入るとそのままソファのある方へ向かい身を投げ出し、手探りでクッションをつかんでぎゅっと抱き寄せるうち、床に落ちたバッグへ手を伸ばして携帯電話を取り出すと、一時間前に連絡が途絶えたままで通知はない。
藍は立って電気をつけ、姿見に向かって髪を整えるうちふと気がついて玄関に立ち戻ると、ビールとおつまみを冷蔵庫に入れ、ついでにワインボトルの温度を指先に確かめながら十分に冷えているのに微笑み、それからソファへもどって仰向けにクッションを抱きしめながら折々腕時計に時間をみても、一向にすすむ気配がない。
仕方なく目をつぶっていると、瞼を透る電球のひかりが煩わしくて、藍は明かりを消そうと思う間もなく怠惰にもソファの背に顔を押しつけてなお目をつぶるうち俄に起き直り、コートをぬいで裾のしわを手ではたき、暖房をかけようとしたところへ、鍵穴に鍵をさす音がした。
藍はすぐに姿見へ寄ると、すこし寝乱れた前髪の分け目を指先でなおし、ドアが開いて閉まる音をききつけながらそっとソファへ行き、クッションにあごをうずめてテーブルに視線を落とすまま先日置き忘れた手鏡に反射する電球のひかりにたまらず目を閉じた折から、部屋に踏み入るやわらかな音に藍はぱっと瞼をひらいて照れ笑いをすると、こちらへ歩み寄りながら微笑をかえす彼を待てぬままにすっと飛んで行きひしとかじりついた。
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