婚約者(仮)が妖狐になった件
短編ですが3万字超えてます…
いつか余裕が出来たら連載用に作り直すかもしれません
「この子は長く生きられないでしょう」
ある陰陽師が言った。
朱音が生まれたとき、家族を含めた大勢が泣いて喜んだが、その喜びは長くは続かなかった。
朱音の実家である結城家はいくつかの会社を経営、特に出版業が有名な名家であり結城グループ直系だが、表沙汰にならないある特徴があった。結城家の血筋の者はある時期から高確率で妖と呼ばれる人ならざる者を認識できる力を持つ。皆護身術や妖除けの札を使うことで不自由なく日常生活を送れているが、そうでない者もいる。過去に何人か妖を引き寄せる体質の者が生まれた。朱音がそうだった。
この体質に生まれた者は自分の意思に関係なく妖を引き寄せてしまう。護身術や札で対処できない妖もだ。過去には家の中に侵入した妖に腕を食われた者もいたらしい。そのため朱音には生まれた時から陰陽師の護衛が付いていた。どこに行くにも一人で行動することは許されなかった。最初は辟易していた朱音だったが十二歳になるころにはその環境に慣れてしまっていた。
朱音には幼馴染がいる。藤堂愛華。護衛をしている陰陽師の家系、藤堂家本家の長女。なんでも千年近く続いている名家らしい。そんな家系の長女に生まれ、美人で幼いながら陰陽師の素質もあり勉学も優秀となると、ほぼ確実にわがままな性格になる。愛華は典型的なお嬢様だった。朱音の予定も考えず無理やり引っ張り出し、あちこち連れまわすのだ。護衛からしたら迷惑だと思うが、本家のお嬢様には強く言えないらしい。かくれんぼに参加させられ、朱音がうまく隠れすぎたせいか、飽きてしまったのか隠れたままの朱音を放置して帰ってしまったこともあった。流石に両親に叱られたらしくしばらくの間不機嫌だったが、その鬱憤を朱音で晴らしたのは言うまでもない。他の女子がいる前であからさまに朱音をこき下ろす、と数えたらキリがない。
彼女が口癖のように言う言葉がある。
「あんた、私たちに守ってもらわないと死んじゃうでしょ。私は優秀だからちゃんとあんたを守れるわ。守ってあげるんだから私の言うこと聞きなさいよ」
実際朱音と同じ体質の者は藤堂家の人間と婚姻を結び、その通り守りを固めてきた。幼い頃から守る代わりに、その息子と藤堂の娘を婚約させるというしきたりだ。婚約と引き換えに藤堂家は結城家と繋がりがあるということで家の格をあげ、仕事は幅を広げることができる。結城家は言わずもがなだ。何故ここまでするのかというと、この体質に生まれるのは男だけだからである。長男、次男関係なく現れる呪いのようなもので、何百年も慣習に倣い行われてきた婚姻だ。
まだ朱音に許嫁はいなかったが、本家の愛華だろうと確実視されていた。愛華からしたら愛華には妹、従妹が何人かいるが全員気が強くわがままで、散々おもちゃにされていた。誰が婚約者になったとしても大して変わらないだろう。そもそも、幼少の頃から女性に対する苦手意識が芽生えているのだ。普段から話しかけるなオーラを発しているせいか、学校の女子からは敬遠されている。朱音としては寧ろ好都合なので気にしてはいなかった。
いつの日か、正式に婚約者が決まった時が今から恐ろしい。結城家は名家には珍しく朱音と同じ体質の人間以外はほぼ恋愛結婚で結ばれている。中には自由に生き独身を貫き通した者もいるらしい。もし妖が見えるだけだったら、婚約者だ何だと悩むこともないのだろうか。
朱音は十二歳にして悩みに悩んでいた。
「俺、いつか愛華と結婚しなきゃいけないのかなぁ」
「まあ、あんなのでも本家の長女で優秀だからね、お兄ちゃんと結婚するとしたら愛華さんしかいないでしょ」
一つ下の妹、葵と喋っていたのは隠居した祖父のいる別邸に向かう前日だった。例に漏れず妖を見ることができるが、身に着けた護身術で大体の妖は蹴散らすことができる。また霊感もかなり強く、幼い頃は生きている人間と死んでいる人間の区別が付かなかったほどだ。葵は愛華について相談できる数少ない相手だった。両親は愛華を朱音の結婚相手候補と考えているため、愛華のわがままも大目に見ろ、大人になれば性格も落ち着く、と窘められる。
「愛華さんだって高校生とかになったらあのわがままもマシになるんじゃないの。分かんないけど」
「…別に誰と結婚しても変わらないなら、本家の愛華が一番波風立たなくて楽そうだ」
「自分の事なのに他人事みたいだね、お兄ちゃん。あ、愛華さんと結婚しなくていい方法あるよ」
「本当か!」
「藤堂家の陰陽師より強くて、確実にお兄ちゃんを守れる女の人を探し出す」
「そんな人いるわけないだろ」
あるいは、意思疎通できる見た目が人にしか見えない妖と結婚してしまう。そんなことも考えたが、今まで遭遇した妖は意思疎通のできず、いきなり襲い掛かるものばかりだ。夢みたいなことばかり考えず明日の準備をしに部屋へ戻ることにした。
葵の部屋を出た朱音は自室に戻る途中、普段見かけない人物を見かけた。
「あれ、ハル兄じゃん。何でうちにいるの」
180近い長身に、短く切りそろえられた黒髪に切れ長の瞳。一見すると冷たいように見られてしまうが、常に笑みを浮かべていることから、そう思われることはほぼないという。道行く女子が全員見惚れると言う一族一の美男子、四つ上の従兄弟の遥だった。平凡な容姿の朱音はこんな顔に生まれたかったと何度思ったことか。
「朱音、久しぶりだね。ちょっと伯父さんに用があってね。もう終わったからこれから帰る所」
「えー、もう帰るの?遊んでいけばいいのに」
いじけた声を出すと、遥の端正な顔が申し訳なさそうに歪む。高校生の遥は朱音と違って忙しい。成績は学年トップ、部活でもエース級の活躍をしており、その上生徒会に所属している。昔は良く朱音達兄妹とよく遊んでくれていたが、中学に上がったころから学校での友達付き合いなどで忙しいためか、遊ぶ回数はぐっと減った。
朱音もそれは理解していたので、遊んで欲しいとせがむことはしないが、今日のように偶然会えた時は遊んで欲しいと絡む。
「ごめん、これから塾なんだよ。遊べる日後で連絡するからさ」
「塾ならしょうがないな。最近ハル兄より愛華と会うことの方が多くなったよ、また昔みたいに遊びたいな」
すると遥の顔から一瞬笑みが消えた気がする。だが瞬きをした間に元の表情に戻った。
「…朱音、相変わらず愛華と仲がいいんだね」
「仲が良いとかそういうのじゃないよ。こき使われているだけ。なんであいつ俺には当たりがきついんだ。ハル兄の前だと大人しいのにさ」
愛華は遥の前では他の親戚に対する時と同じ様に、お淑やかで大人しいお嬢様のような態度になるのだ。当然朱音に対するようなキツ物言いも言わない。「遥兄さん」なんて呼んでいるのだ。朱音と居る時でも遥と二人きりでコソコソ話しているし、むしろ仲が良いのはそっちだろ、と突っ込みたくなる。
「もしかして愛華、ハル兄のこと好きなんじゃね」
これは昔から思っていることだ。朱音にきついのは親族に言われて仕方なく相手をさせられているからで、本当は遥のことが好きなのではないか。正直長男の息子というだけで跡継ぎ扱いされるのは荷が重いのだ。優秀な遥が跡を継いだ方が皆幸せになれると常々思っていた。だが遥自身跡継ぎに一切興味がないし、次男の息子である遥が跡継ぎになるのは慣習に反すると反対してくる親族が多いのである。反対に優秀な遥こそ跡継ぎに相応しい、と言う親族も一定数いる。
恋愛結婚は認めるくせに古臭い変な慣習が多いのだ。これがなければ遥が跡継ぎ筆頭になり、愛華は遥に告白とかもすんなりできるのではないか。朱音には別の藤堂の娘があてがわれるだけだ。もしくは、朱音が不慮の事故で亡くなった場合、遥が跡継ぎ候補筆頭に躍り出るだろう。そんなこと、絶対あってほしくはないが。
我ながらいい考えだと思いながら遥の方を見ると、遥は何故か複雑な表情を浮かべている。いつも浮かべている笑みも消えている。そして突然体の向きを変え
「あ、ごめん、本当に塾に遅れそうだから行くね」
そのまま走り去ってしまった。一瞬怒らせてしまったのかと不安になったが、そうではないと知り安堵した。
(そういえば昔から愛華の話題を出すと微妙な顔するんだよな、ハル兄。まさか…)
一つの結論に達したが口には出さない。本当だとすれば、二つの意味で朱音は遥にとって邪魔な存在なのではないか。朱音は珍しく感傷に浸りながら部屋に戻った。
翌日、朱音たち一家は祖父のいる別邸に居た。祖父は五年前まで結城グループの会長の座にいたが現在は全てから手を引き、悠々自適の隠居生活を送っている。グループへの口出しも一切ない。そんな祖父の別邸に来た理由は葵の誕生日を祝うためである。祖父は家族の誕生日を祝うことを大事にしており両親や朱音はもちろん、叔父一家、伯母の誕生日も祝っていた。大きなグループを率いていた人間とは思えないほど家族と過ごす時間を大切にしている人だ。今日は叔父一家の都合がつかず伯母のみ来ていた。
本日の主役の葵は母と伯母の着せ替え人形になっていることだろう。父は祖父と仕事の話でもしているのかもしれない、朱音は一人だった。
(じいちゃんの家だと護衛の人いなくて気楽でいいけど、暇だ)
祖父は普段からいる家政婦や護衛を除き、家族以外の人間が入るのを嫌がる。そのため普段べったりくっ付いている護衛の人も今日はいない。
(…裏の森行ってみようかな。最近行ってないし)
裏の森は別邸のすぐ隣にある森で、珍しい植物やキノコが生えているため葵や従兄弟とよく遊びに行っていた。子供たちの遊び場だと祖父も理解していたからか、必ず妖除けの札を持っていくようにきつく言いつけている。
早速動きやすい格好に着替え、部屋を出て誰にも見つからないように庭に出た。子供しか通れないような塀の抜け道をするりと抜け、森に向かって走っていった。
「おー、見たことないキノコが増えてる、植物も。葵に持って帰ったら喜ぶかな」
庭から抜け出し、5分ほど歩くと森が見えてくる。入ってまた5分歩き足元を見ると、普段食べているものとは違うキノコが生えていた。自宅にある図鑑で調べればどんなキノコか分かるかもしれないが今は知る術がない。もし毒キノコの場合触るだけでかぶれるものもあるかもしれない。持って帰るのは諦めた。
キノコの他に綺麗な色の花を眺めつつ奥へと進む。この森はかなり深いため子供が迷う危険が高い。初めて葵や従兄弟と森に探検に行った際、案の定道に迷い、祖父が近所の人や使用人を総動員し森を切り開かん勢いで朱音たちを探したのだ。無事に発見されたが、こってり絞られたことは思い出したくない。
子供が寄り付かないように恐ろしい化け物に襲われる、という噂を流していると近所に住んでいるおばあさんに聞いたことがある。実際のところ、2メートル以上の背丈がある獣を見た、小人を見た、等と明らかに人でないものを目撃したという人が何人もいるらしい。祖父に聞くと、この森では山から下りてきた妖が『見える人』に目撃されてしまうことがあると。だが人に危害を加える妖ではないと今のところ監視に留めているということも聞いていた。
朱音は当然ながら妖に良い印象を持っていない。こちらの意思と関係なく寄ってきて付きまとわれるのだ。幼稚園の頃はまとわりついてくる小さな妖を追い払おうと「あっちへ行け!」と叫んでしまい、近くにいた友達が自分に対して言われたと思い込み、傷つけてしまったことがあった。それ以来持っていた妖除けの札に加え陰陽師特製のお守りを持たされるようになったため、このような目には合わなくなった。
(そういやこのお守りも毎年強化してたな、中身何入ってるのか知らないけど)
ふとお守りのことを思い出し入っているであろうチノパンのポケットを探っていると
「ん?…あれっ?お守り入ってない?もしかして落とした…」
全身の体温がすーぅと下がっていく感覚になりながらも朱音はお守りの在りかを思い出そうとしていた。確かリュックの中ポケットに絶対落とさないようにと仕舞い、別邸に着いてから一度も出していなかったはずだ。落としていなかったことにほっとしたが、手元にないという状況に変わりはない。今までお守りも護衛もなしに出歩いたことがほぼない朱音にとっては恐怖心を抱くには十分な状況だ。時々疎ましいと思っていた護衛の存在がどれほど心強かったか思い知ることになる。
「じいちゃんが森には人を襲わない妖しか来ないって言っていたけど…」
それも普通の人間にとってというだけで、自分にとって安全とは限らない。こんな体質の自分にとっては。
急いで来た道を引き返すことにした。ここに来るまで結構な時間がかかった。走って森の外に出なければいけない。普段から走り回っていることもあり、走り続けて息が上がることはないが、何だか道が長く感じていた。もしかして道に迷ったか、とさらなる恐怖に苛まれそうになるが、一応歩きながら落としてきた木の実をたどりながら走っているためそれはないと結論する。考えたくはないが、妖の術か何かに嵌まっている可能性も出てくる。そうなったらいよいよ危険だ。いや今も十分危険なんだが、と一人で突っ込んで気を紛らわしていると、
「っ…?」
先ほどとは比べ物にならない悪寒を感じた。これほどの悪寒は、二年前従兄弟の別荘の近くの川で水遊びをしてた時獣の妖に襲われたとき以来だ。その時、護衛だった陰陽師の一人が腕と顔に一生残る傷を負う程、その妖は強かった。つまり今自分の近くにはあの時と同じかそれ以上の妖がいるということだ。お守りも護衛もない、プロが大けがを負う妖に自分の護身術程度で太刀打ちできるはずがない。早く逃げなければと思ったが、恐る恐る後ろを見てしまう。恐怖心より好奇心のほうが勝ってしまったのだ。
振り向いた先には、真っ黒な獣が佇んでいた。形容するとしたら狼。だかその背丈は二メートルをはるかに超えているだろう。普通の狼ではあり得ない。金色の瞳はギラギラとしており、息も荒い。おそらく空腹なのだろう。獣とはそこそこ距離が離れているから、走れば逃げ切れるかと思ったが当然ながら朱音がこちらを見ていることに気づいたようだ。
ぐあああああああおおおおおおあおおおあおおお?
咆哮が森に轟く。途端立ち尽くしていた朱音は踵を返し走り出そうとしたが、足がもつれてしまった。獣は雄叫びを上げながら突進してくる。今喰われそうになっているというのに死にたくないという思いすら浮かんでこない。目の前の光景がスローモーションで映り、あ、俺死ぬのか、と考えていた。その時だった。
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおあ?
突然横から飛び出してきた何かに飛ばされ獣は飛んで行った。
その何かは、人だった。驚いたことに背丈は自分と変わらない少女のようだった。一番目を引いたのは胸のあたりまであたりまであろう金髪だった。陽の光に当たりキラキラと輝いて見えた。朱音はこれほどきれいな金色を見たことがなかった。来ている青い着物も花柄をちりばめたかわいらしいもので顔もわからない少女に似合っていると感じた。この少女は動きにくいであろう着物で、あの巨大な獣に飛び蹴りを食らわせたのだ。自分の見ているものが信じられなかった。
その時少女がこちらを見た。初めて顔を見たが、まるで作り物かのように整った顔立ちだった。透けるような白い肌にサファイアのような碧眼が人間離れした美しさに拍車をかけているように思う。少女は無表情だったが不思議と冷たさは感じなかった。振り返ってみても朱音は少女より美しい人間に会うことはないだろう。その碧眼に見つめられ見惚れていると
「怪我してないか?大丈夫?早くここから」
凛とした声で話しかけられた、少女が言葉を言い終わる前に蹴飛ばされた獣がこちらに突進してくる、あ、と声を出す前に少女が異常な速さで獣の前に立ち右手の拳をたたきつけた。その衝撃で獣は数メートル飛ばされる。夢でも見ているかのような光景に唖然としてしまう。その瞬間、更に信じられないものを目にした。少女から耳としっぽが生えているのだ。耳は猫のようで、しっぽは白く太く長いものだった。
これは猫というより、狐の耳としっぽではないか。コスプレだとかそんなものではない、直に生えているのだ、耳が。その証拠にぴょこぴょこと動いている。彼女の人間離れした強さは人ではなかったからなのか、頭の中が疑問符でいっぱいになっていると少女に一発叩き込まれた獣はうううっ、と呻き声を上げながら蹲っている。あの大きさの獣を飛び蹴りと一撃でほぼ無力化してしまった。普通なら恐怖心を感じるだろうが朱音はそんなものは感じなかった。今の朱音にはこの時抱いた感情を言語化することは難しかった、良く分からない感覚に戸惑っていると蹲っていた妖が霧のように姿を消していく。力尽き姿を保つのが難しくなったのだろうか、死んではいないだろうが。
獣の姿が完全に消えたのを確認すると耳を生やした少女はこちらに戻ってきた。先ほど遮られてしまったが何か言わないといけないと考えた朱音はとりあえず口を開いた。
「あ、ありがとう。助かったよ」
ありふれたお礼の言葉を言ったつもりだったが、何故だか少し驚いたような顔をされる。何か変なことを言ってしまったかと焦っていると。
「…驚かないんだ、これ見ても。家族以外に見られたの初めてだったけど」
耳を指さしながら感心したように言う。しっぽは先ほどからゆらゆらと揺れている。驚かれなかったことが嬉しかったのか、それは分からない。
「…小さい時から妖が身近にいたから、耳としっぽが生えた君を見てもなんとも思わないんだ」
ポツリと消えそうな声で言う。そうだ、自分は生まれた時から否応なく妖と関わらざるを得なかった。お守りを持っていても寄ってくるときは寄ってくるし、護衛が怪我をすることだって一度や二度じゃない。あまりにもその環境に長くいたせいで、明らかに人でない少女と話していても驚かない程度には耐性がついてしまった。朱音の表情と声色で何かを察したのか、
「妖に襲われるの、初めてじゃないの」
「生まれた時から妖を引き寄せる体質で、妖除けのお守りや護衛がいないと外に出れなかった。今日はじいちゃんの家に来てたから護衛がいなくて、こっそり森に遊びに来たんだ。お守りも忘れるし、今度こそ死ぬかと思った」
なぜ初対面の少女にこんなに喋っているのだろう、自分でも分からない。そもそも女子と喋るのは苦手だったはずだ。だが何故だか彼女とは普通に喋れていた。
「君は、妖なの?それとも人?」
少女はほんの一瞬考えたようだったがすぐにこちらを向く。宝石のような碧眼に見つめられていると思うと少し照れてしまったが、余計な邪念は捨て去る。
「見てのとおり妖だよ、妖狐って呼ばれてる」
妖狐、人に化けたりするあの妖か。見た通りの妖だったわけだ。
「人に化けたりできるの?」
「いや、そういうのは全然。祖母と母親が人間だからか妖狐特有の能力はほぼ使えない。代わりに腕力と運動神経が桁違いで母親から狐というより鬼って言われてた」
鬼。確かにあの獣を叩きのめした鬼神の如く強さを見てしまうと、妖狐というより鬼と呼んだほうがあっているのかもしれない。耳の代わりに角が生えていたとしても少女の美しさに影響はなかっただろう、。むしろ神々さすら感じあれたかもしれない。
「力の加減ができなくて何度も家の壁を壊して怒られてた」
「そりゃ怒られるだろ」
壁の修繕費だって安くないだろう。会ったこともない少女の両親に同情してしまう。
「今ではコントロールできるようになったし、耳としっぽもさっきみたいに本気で殴ったりしなければ隠せる」
言われたことにムッとしたのか声色にもそれが表れていた。年齢は自分と同じくらいだろうか、何となく年相応の面を垣間見た気がした。しかし突然はっとした表情になりこちらを一瞥する。
「こんなところにいると危ない。またさっきみたいな妖が寄ってくるかもしれない、今の君は紛争地帯に丸腰で乗り込んでるようなものだし」
「それって死ぬよね」
「私が居なかったら死んでたかもな。早く出たほうが」
「え…置いてく?」
わざと傷ついたような声を出す。森に置いて行かれるよりも少女と喋れなくなるほうが嫌だった。しかしこの森に長時間滞在するのは危険だし、また襲われたら迷惑をかけてしまうだろう。
「…置いていかない、この流れで置いていくと思った?森抜けたらいいかと思ったけど、道中も心配だし家まで送る」
「それは流石に悪い」
「私の家、この森の近くだから。遅くなっても親は心配しない」
妖狐だから、と続きそうだった。妖だろうが親なら娘の心配はするのではと思ったが余計なことだと思い口を噤んだ。朱音が来た方向を逆走するように森の出口を目指す。その気になれば早く歩けるだろうに朱音に歩幅を合わせているようだった。葵の嵌まっている少女漫画に出てくるキャラが同じことをしていた気がする。もし自分が女子だったらときめきというものを感じていたんだろうか、とどうでもいいことを考える。また、ここで聞くのは変かと思ったが気になっていたことを口に出す。
「ここで聞くのは変かもしれないけど、名前教えてくれない?」
言い終わると少女は振り向き眼を見ながら言った。
「紫苑。九重紫苑」
紫苑、花の名前だ。名は体を表すというがその通りだと思った。
「俺は、結城朱音」
やっと互いの名前を知ったところで、
「朱音様―――。どこですかーーー」
聞き覚えのある声が先から聞こえてくる。いつも朱音についている護衛の声だ。別邸を抜け出したことに気づき探しに来たのだろう。以前のようにこってり絞られるだろうと憂鬱な気分になっていると、向こうが朱音の姿を発見したようで走ってくるのが見える。その時二人とも紫苑が耳としっぽを出したままになっていることに気づいていなかった。
狐耳としっぽの生えた紫苑を見つけた護衛の一人が朱音に襲い掛かる妖だと勘違いし、攻撃しようとしたところを朱音が必死で止めここまでの状況を説明した。獣の妖に襲われて死にかけたところを助けてもらったことを言うと、護衛の顔は青ざめ土下座をする勢いで謝罪した。紫苑は全く気にしていないようで謝罪を繰り返す護衛を少し鬱陶しそうに見つめている。もう一人の護衛が祖父に連絡したところお礼をしたいから連れて来いと言ったらしく、紫苑も同意したため一緒に戻ることになった。一つ気になっていることは、紫苑が名前を教えた時祖父に連絡した護衛も青ざめた顔になったことだ。何だったんだろう。
別邸に戻ると両親、妹、伯母に出迎えられそして当然だがたっぷり叱られた。妖に襲われたことを心配はしてくれたが、それよりも外を歩くのにお守りを忘れるうかつさに怒っているようだった。葵に至ってはボカボカ殴りながら泣いていた。それほど心配させてしまったことに罪悪感を覚えていると、話題は家族の様子を少し離れたところで静観していた紫苑に移る。その人間離れした(実際人間じゃないけど)美しさに家族全員見とれていたが、すぐに顔を引き締め、改めて朱音を助けたことに対するお礼を言っていた。紫苑が妖だということはすでに説明されているのだろう。葵は紫苑に興味津々なようで色々話しかけていた。
「お兄ちゃんを助けてくれてありがとう、お姉ちゃん。大きな妖を倒すなんて強いんだね、凄い!」
紫苑の手を取りブンブンと上下に振る。葵は人見知りをしないため誰に対してもぐいぐい行く性格だ。紫苑はそれに怖気づく様子もなく嬉しそうにしていた。
「お姉ちゃん狐なんでしょ?耳としっぽ見せて!」
「葵、あんまり無理言うな」
「大丈夫、それくらい簡単だから」
そういうと言葉の通りにさっと耳としっぽを生やした。それを見た葵はさらに興奮状態になった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!凄い!ふわふわー」
そう言いながらおもむろにしっぽを触り始める。
「…こんなにはしゃいでる葵久しぶりに見たな」
「いつもはどんな感じなの」
「いつも冷静で落ち着いてる。遊園地に行ってもはしゃがないし困ったときのアドバイス親よりも的確。中身は大人」
「それ本当にこの子と同一人物?別人じゃないのか。最後のよく分からないけど」
しっぽを触り続ける葵を放置し話していると離れたところで静観していた母親が泣きだした。
「葵があんなに楽しそうに…。十一歳とは思えないほど落ち着いてるから感情が抜け落ちているのかと心配してたけど…」
感情が抜け落ちてるは酷過ぎでは。その横では父親も似た表情をしていた。
「朱音が女の子と普通に話してる…。同年代の女子と喋れないから中学から男子校に行かせろと言ってたのに…」
余計なこと言うな、と声に出すのを何とかこらえた。すると紫苑が不思議そうな顔をする。
「女子苦手なのか。私とは喋ってるのに」
「幼なじみの女子がちょっと、あたりがきつくて…」
「あぁ…」
虚ろな目をし始めた朱音を見て何かを察したのかそれ以上何も聞いてこなかった。
「随分仲良さそうね朱音。女の子と普通に喋っているの久しぶりに見たわ」
今までの様子を静観していた伯母が話しかけてきた。
「初めましてお嬢ちゃん、私は結城七々子。この子の伯母です。この度は甥っ子を助けてくれてありがとう。まだ名前を聞いてなかったわね。教えてくれる?」
「九重紫苑です」
「九重…。もしかしてあの九重呉服店の?」
「うちを知っているのですか」
「着物を着る人間で知らない人はいないわよ」
話についていけない。紫苑の家は有名なのだろうか、置いて行かれている気がする。頭に疑問符を浮かべていると伯母が気づいて説明してくれる。
「九重呉服店は関西に本店を構える老舗の呉服店よ。最近じゃ関東にも支店出しているわ。私もよく着物を買うし父もよく利用していると言っていたわ。彼女はそこの一人娘よ」
伯母が説明し終えると紫苑のほうを見る。それに釣られて朱音も視線を向ける。
「お嬢様だったんだ…」
「君に言われたくない」
不本意そうな顔で答える。朱音も世間一般で言えば「お坊ちゃま」と呼ばれる部類であろう。この別邸を見れば尚更だ。そういえば彼女は朱音の家のことは気づいていないらしい。まあ小学生(推定)が結城グループなんて知らないだろう。
すると突然襖が勢いよく開き、見知らぬ女の人が汗をかきながら立っている。金髪のショートカットに青い瞳の着物を着た涼しげな美人だった。というかこの人は…
「失礼いたします!私九重紫苑の母でございます。娘はどこに?」
やはり紫苑の母親のようだった。顔立ちが似ていた。
「お母さん、なんでいるんだよ」
紫苑の姿を見つけた母親は少し怒ったような顔で娘の元に向かう。
「結城様の使用人て人から紫苑のことで話したいことがあるって電話があったのよ。またいじめっ子をボコボコにしたんじゃないかってないかってヒヤヒヤしたわよ。お孫さんの命を救ったからお礼をしたいって言われたときは別の意味で驚いたけど」
ほっとしたように紫苑の肩に手を置く。今の話の中に気になることが出てきたような。
「いじめっ子ボコボコにしたの?」
遠慮がちに訊ねた朱音に紫苑が気怠そうに答える。
「クラスメートが中学生にカツアゲとか暴力振るわれてて、その中学生全員少しボコボコにしたらあっという間に噂が広がって。目立つ髪色のこともあって私が鬼なんじゃないのかって噂もたった。おじいちゃんもお父さんも年の割に見た目が若いのも拍車をかけた」
そこまで言い終わると母親が引き継いで話し出す。
「紫苑にボコボコにされた中学生が鬼だ何だって噂を流していたらしくて、主人と義父があらゆる手を使って黙らせました」
にっこりと微笑みながら言う紫苑の母親は何だか怖く見えた。朱音を助けたことといい困っている人を放っておけない性格なのだろう。クールに見えて、見て見ぬふりをして無視をする人間なんかよりずっと優しい妖なんじゃないか。
母親は続けて語る。
「娘は主人や義父と違って妖狐の能力が使えない代わりに運動能力と腕力が高いんです。二人は娘の好きにさせろと言ってたんですけど、私は不安だったんです。妖だとバレたらこの子が生きづらくなるんじゃないかって。けど気づいたんです」
紫苑に視線を向けつつ、先ほどとは少し違う笑顔のまま言った。
「大人しくしてと言っても無駄だって。何かあっても裏から手を回せば大体何とかなるし、子供の時より制御できるようになったからもう好きにさせればいいかなって」
よく見ると青い瞳には諦めの色が浮かんでいるようだった。かなり苦労をしてきたんだろうが、紫苑の母親だ。色んな意味で強い人なんだろうなというのが伝わってくる。両親はどう反応していいか分からず困惑していたが、伯母はツボに入ったらしく先ほどから笑っていた。朱音は取りあえず。
「面白いな、紫苑のお母さん」
「私が生まれる前は見た目通りの性格だったらしい。父と祖父が大事な商談に自分の分身を行かせて遊びに行ったりして、その尻拭いしてたからあんな感じになった」
何でもないように言うが、どうやら母親より父親、祖父のほうが中々な妖らしい。なるほど、自分たちが妖狐の能力を仕事上でも使っているのなら、娘、孫に普通にしろとは言えないだろう。そんな妖達に振り回されていたのなら、多少の事では動じなくなりそうだ。その性格は紫苑にも受け継がれているのだろう。
しばらく談笑していると、再び襖が開き誰かがやってきた。祖父だ。祖父は今年六九歳を迎えるのだが、そうは見えないほど若々しい見た目をしている。白髪交じりの髪に髭を生やしており、近所のおばさまたちから「ダンディーで素敵」と人気らしい。両親たちからしたら突拍子のないことをしでかす老人という認識らしいが。
「おー朱音、久しぶりじゃな。森で妖に襲われたと聞いたときは肝を冷やしたが、無事で何よりじゃ」
他の家族は準備の時に祖父に会っていたため、今日初めて顔を合わせるのは朱音だけだ。
「そうだね、死ぬ一歩手前だったけど」
「その年で冗談を言えるようになったか。いいことじゃな。…お主が史郎の孫娘か。会うのは初めてじゃな。孫を助けてくれて感謝するぞ。しかし桜さんに似て別嬪じゃな」
祖父が何だか嬉しそうに紫苑を見ている。まるで孫娘に対するまなざしのようだ。
「祖父とお知り合いなんですか」
「ああ、奴とは旧い仲でな。妖だということも勿論知っとるし、こっそり行きたい場所への護衛、何度か身代わりを頼んで仕事を抜け出したこともある、昔の話だがな」
勿論それなりの報酬を払った上でな、と言い祖父は豪快に笑った。妖の力を自分のために使ってる人間がこんな身近にいたとは。先ほど紫苑の母親がバレたら困ると言っていたが、こんなにポンポン使っているのならどこかでバレているのかもしれない。
横目で見ると朱音の父が真っ青な顔になっている。もしかしたら大事な仕事の場に出席していた祖父が紫苑の祖父の変装だったかもしれないのだ。青白くもなるだろう。もし正体がバレていたら、他の人間はともかく藤堂家の陰陽師に知られたら面倒になっていたかもしれない。今でこそマシになったが、祖父の代の時の藤堂家の当主は妖を異常に憎んでいたらしく、妖は全て祓えというのが口癖だったとか。結城グループの会長が妖と懇意にしていたと知られていたら、考えたくもない。
「義父と仲がいいのは存じてましたけど、そんな昔からだったなんて。時々義父の姿が見えなくなっていた理由が分かりましたわ」
おほほ、と微笑みながら話す紫苑母だが目は笑っていない。紫苑祖父を帰ったら締め上げるつもりだろう。顔も知らない紫苑祖父が気の毒になる。
「とまあ、世間話はこれくらいにするとして」
世間話で済まないほどとある人物に飛び火した気がするけど。
見たことないほど真剣な顔を祖父がしているので、全員口をはさめない雰囲気になっている。
「お父さん、あんまりしない真剣な顔してどうしたの」
「儂が真剣な話するんだからチャチャいれるな」
伯母には場の雰囲気など関係ないらしい。出鼻をくじかれた祖父はゴホンとせき込み、再び真剣な顔つきになった。
「朱音が襲われた裏の森な、今日の朝から妖除けの結界を張ってもらったんじゃ。最近小さい妖が目撃されとるし、孫に万が一があったら心配じゃからな。にも拘わらず朱音は襲われた。これがどういう事か分かるかの」
問いかけるようにこちらを見つめる祖父。問われた朱音は…
「え?どういう事?」
「なんで私に聞くんだ、自分のことだろ。…あの獣が結界が効かないほど強かったか、結界が脆かったか、のどちらかってことでしょ」
「けど紫苑、普通に森に入ってたじゃん」
「私は祖母と母親が人間だから、妖だって認識されなかったか、腐っても妖狐だから結界が効かなかったかだろ」
「ああ、確かに妖狐って凄い上位の妖怪のイメージあるな。けど耳としっぽないと本当人間にしか見えないわ」
「…」
紫苑は黙っていたが、その身体能力を隠し、九重呉服店のお嬢様としてふるまっていたころその人間離れした美貌とお淑やかな性格で男子からは人気だったが、女子からは嫉妬の対象になっていた。
また祖父と父の見た目が若いこと、母もそっくりの容姿をしていたころから人間じゃないのではないかと噂が立った。女子の中には面と向かって化け物と罵る奴もいた。
それが問題となり祖父と両親が手を回し今の公立の小学校に転校したのだ。
今の学校では猫を被るのを辞め素のまま振舞ったのが良かったのか友人も多くできた。
容姿どころか耳としっぽを見ても態度が変わらない朱音に対し紫苑がどういう感情を抱いているのか、本人も分かっていない。
「おいまだ話の途中じゃぞ。喋るのは後にしなさい」
話の腰を折られた祖父が少しいじけた様に話す。そうだった、大事な話の途中だったと二人は姿勢を正し聞く姿勢になる。一連の様子を眺めていた伯母は何かを考えているようだったが誰も気づいていない。
「紫苑君の言う通り例の妖が結界が効かないほどの力を持った存在ということじゃ。結界を張った陰陽師は優秀な男で、結界に不備があったというより妖が強かったということになる。朱音がお守りを忘れて普段より妖を寄せ付けやすくなっていたとはいえ、結界の中に入られることはあり得ない。今回は紫苑君が居ったから大事にはならなかったが、次もそうとは限らない。また朱音を狙う危険性が高い」
一通り祖父が話した内容を頭の中で反芻する。優秀な陰陽師の結界が効かない妖が自分を狙っているかもしれない、妖は執念深い奴が多いと聞くから取り逃がした獲物はまた狙うだろう。お守りを身に着け護衛を付けたとしても安全と言えるのだろうか、急に不安になってきた。
昔から誰かに守ってもらえないとダメだった。葵や父は妖が見えるだけで何かあっても対処できていたが、自分は出来なかった。誰かが居ないと外出もできない、守ってくれた人が大けがを負うことも多かった。それを見て、なんで自分は弱いんだろうと隠れて泣いたこともある。両親に何でこんな体質なのかと泣きつき困らせたこともあった。
『あんた、私たちに守ってもらわないと死んじゃうでしょ』
愛華に言われた言葉が何度も反芻した。周りから愛華と結婚すれば安全と言われてきたから、いつか言われたとおりに結婚すれば今より周りに迷惑かけないのだろうかとも考えた。
紫苑を見た時思ったことは、容姿についてよりも何よりも、羨ましさだった。あんなに強ければ周りに迷惑をかけることもないし、誰かを助けることもできる。あの人並外れた強さが羨ましかった。
羨ましさだけだったはずが、紫苑と話すうちに色々な感情が芽生えた。愛華や従姉妹に振り回されたことから女子に苦手意識を持っていたが、紫苑とは普通に話せた。口調が男っぽかったからだろうか、見た目とのギャップがあって新鮮だった。
いじめっ子をボコボコにしたという話もシンプルにかっこいいと思った。見て見ぬふりをする人間が多い中で助けようとする奴は少ないだろう。そんな紫苑を尊敬すらした。
今日が終わったら紫苑には会えなくなるだろうという直感があった。危険な妖に狙われる可能性がある朱音を祖父が今のまま放っておくとは思えない。朱音は長男だ、いずれグループを継ぐ可能性が一番高い人間。早急に藤堂家の中から許嫁を選んで藤堂家との関係を強固なものとし、文字通り守りを固めに入るだろう。そうなれば今まで以上に自由がなくなる。
紫苑との繋がりが切れるのは避けたいという思いがあった。恋愛感情なのかは分からない。あまり物を欲しがらなかった朱音が、唯一と言っていいほど執着したのが紫苑との繋がりだった。
「…紫苑が、ずっと守ってくれればいいのに」
ポツリと聞こえているか分からない声量で放った言葉は、残念ながらかき消されることはなかった。紫苑以外の全員がこちらを呆然としたまなざしで見つめていたが、朱音は気づくことはない。ただ、恥ずかしいことを言ってしまったという羞恥で少し顔が赤くなった。
「あ、ごめん女々しかったよな。これ普通女子が言うセリフ…」
「いや気にするとこそこかよ」
ただ一人呆然としてなかった紫苑は驚いてもいなければ引いてもいないようだった。会って一日も経っていない相手からこのような告白まがいのことを言われれば大内相なり引くだろう。だが紫苑は何を言われても引いたりしない、マイペースな性格をしていたためこのようなことを言われても動揺しなかった。外見上は。
「…それは紫苑ちゃんが好きってことなの?そばにいてほしいって」
今まで静観していた母親が恐る恐る尋ねる。朱音としては「好き」という感情が未だ理解できていなかったため、恋愛の好きというよりも一緒にいて心地よいからという理由で言ったに過ぎない。だがその意図を読みとれる者はいなかった。
「…それ護衛をして欲しいって意味か」
紫苑を除いて。
「そうそう。紫苑藤堂家より強いから行けると思う。あと単純にもっと紫苑と居たいから」
「結構恥ずかしい台詞言ってる自覚あるか?」
呆れたような表情になるがやはり引いてはいないようだ。朱音は少しホッとする。
「護衛って、あなた紫苑ちゃんはあなたと同い年くらいなのよ。いくら強いからってそんなこと言うのは非常識よ」
母が窘めるように言う。当然の反応だ。一緒に居たいから護衛になってほしいなど、告白だとしても秒で断られるレベルだ。朱音は何故だかいけると思ったが、思いのほか母親の反応が芳しくないので不安が広がる。父は黙っているが恐らく母親と同じ考えだろう。やはり無理があったのかと諦めようとした。
「私は良いと思うわよ」
伯母から思わぬ援護射撃があった。
「陰陽師より妖狐が守ってくれたほうが心強いでしょう。なにより朱音がこんなに興味を抱いている子ですもの。意思は尊重しないと。無理やり藤堂のわがまま娘と婚約させるよりずっといいわ。正直結城としては長男守ってくれるのなら陰陽師である必要はないし。勿論紫苑ちゃんの返答を聞かないとダメだけど」
「…いや護衛だといって突然紫苑君を紹介しても藤堂家が訝しんで口を挟んでくる。体外的には護衛兼婚約者としたほうがいいかもしれん」
「名案だわ父さん。言ったもん勝ちよ。『婚約者』と言ってしまえば表立って結城に文句言える奴はいないはず」
伯母と祖父はいたって真剣な様子で話を進めている。
両親のほうを見ると「いいかもしれないわね」「婚約者問題も解決するし、そもそも朱音が自分から何かをしてほしいって言うの珍しいし」と先ほどと打って変わって乗り気の様子だ。紫苑達が無理と言ったらすべて駄目になるのだが。伯母が紫苑と母親に近づき真剣な顔で告げる。
「九重さん、紫苑ちゃんを朱音の護衛兼婚約者として迎え入れたいと考えております。受けていただけたらできる範囲で感謝の気持ちを伝えたいと考えております。勿論紫苑ちゃんがやりたくないというのであれば断ってくださっても」
それを受けた紫苑母は真剣、ではない微笑みを浮かべた表情で答える。
「紫苑は面白いか、そうじゃないかで物事を判断する子なので、紫苑が面白いと感じたらお引き受けすると思います。主人や義父は紫苑の意思を尊重するので紫苑がやりたいと言えば反対はしないかと」
普通に金や物で釣ってもあまり意味がないということか。鼻からそんなもので釣る気はなかったが、紫苑の興味を引くような話をしなければならない。というか普通は障害になりそうな両親があっさりOKしてくれたことに多少の驚きはある。一人娘が妖を引き寄せるという厄介な体質の男子の護衛をやるだなんて大反対しそうだが。まあ反対してとしても父親と祖父は普段から好き勝手やっているそうだから、それを盾に黙らせそうだ。朱音は紫苑のほうに身体を向けプレゼンさながらの説明を始めようとした。
「しお」
「やってもいいけど」
名前を言い終わる前に肯定の返事をされてしまう。ちなみに朱音を自分と居ると笞屈しないという例でほぼ毎日害はない小さな妖に付きまとわれること、三カ月に一度は大きい妖が寄ってくるので護衛が大変そうにしている、という話をしようとしていた。こんな奴の護衛をしろという求人票があったとしても、腕に自信のある奴すら寄ってこないだろう。だが紫苑なら喰いつくかもしれないという自信があった。披露する時間が与えられなかったが。
「まだ何もいってないけど、それは引き受けてくれるっていう意味?」
「ああ、護衛って寄ってくる妖ボコボコにしたり追い払えばいいんだろ。面白そうじゃん。婚約者は、要はフリだろ、朱音の事嫌いじゃないから問題ない」
好きでもないけど、と最後に付け加えた一言に朱音は何故か心が痛んだ。何だかフラれたみたいな雰囲気になる。それに気づいた紫苑が少し慌てて付け加える。
「恋愛的な意味で好きじゃないって意味であって友達としては割と好きだぞ。朱音も同じだろ」
さっきよりも居た堪れない雰囲気になってしまったが紫苑は気づいていない。朱音も友達という意味で紫苑に好意を持っていたため、何故変な雰囲気になってしまったのか気づいていなかった。
光の速さで申し出を受けた紫苑に対し紫苑母は心配そうな表情になる。
「そんなに簡単に決めていいの?フリとはいっても婚約者として扱われるのよ。結城家長男の婚約者がどこぞの呉服屋の小娘だって下に見てくる人は必ず出てくるわよ。腹が立ったからって殴ったりしたら絶対駄目よ」
「負け犬の遠吠えだと思って無視する」
「流石私の娘ね」
色んな意味で強い母娘だと思った。何となくだが紫苑は自分に向けられる悪意には鈍感そうだと思った。面と向かって何か言われる、されない限り気づかない。気にしないだけなのか、我慢しているのかは分からないが。
伯母と両親と祖父が集まって何やら話している。暫くすると紫苑母もそこに加わった。何の話をしているのか。まあ紫苑のこれからのことだろう。護衛をするとなると引っ越さないと行けなくなるだろう。困っているクラスメートを助けるくらいだから仲は良かったんだろうか。朱音が言い出したことで紫苑も承諾したこととはいえ、多少の罪悪感が芽生えてきた。
「今更聞くのも遅いけど、本当に良かったの。多分、というか確実に転校とか引っ越ししないといけなくなると思うけど。学校の友達と離れることになるよ」
申し訳なさそうに尋ねると、紫苑は何だそんなことか、と言いたげな表情になりすぐにアハハと笑った。笑っていると深窓の令嬢感が増す。
「今の時代スマホだってあるし、連絡の取りようはいくらでもあるぞ。元々中学は少し遠くの私立を受験するつもりだったし。大して変わらない」
ん?と思い尋ねる。
「来年中学受験ってことは今小六?」
「そうだけど」
「え!絶対年上だと思ってた」
「よく言われる。逆に朱音は年下だと思ってたぞ。同い年だったとはな」
再びアハハ!と笑う。年齢の割に落ち着いているせいか中学生だと思われることが多かったが、年下と言われたのは初めてだったが何だか悔しかった。頼りないと思われているのだろう。まあ紫苑にとっては大人の男でも頼りなく映りそうだが。
「そういえば、朱音はどこの学校に通ってるんだ」
「えっと、椿坂学園ってところ」
「椿坂って有名な進学校じゃん。金持ちばっかり通ってる。頭いいんだな」
椿坂は東京にある幼稚園から大学まである進学校である。幼稚園や小学校から通うには比較的簡単だが、中学、高校、大学から入る場合の難易度は跳ね上がる。内部新学組と外部受験組との学力の差がありそうだと思われるが、そうでもない。中等部から進学するには試験を受けなければならず、合格点に届かないと進学ができない。朱音は幼稚園から通っているが成績は中の下である。
「ってことは私そこに通うんだろ。一応受験勉強はしてるけど受かるか不安だ」
「仮に駄目でも君のお母さん、金と権力使ってでも入れそう」
「割とあり得そうだから辞めろ」
暫く談笑していると話し合ってた両親たちが戻ってきた。ちなみに葵はひとしきりしっぽを触って満足したのか眠っている。
「今後の方針が決まったから伝えておくわね。紫苑ちゃんは小学校卒業と同時にこっちに来てもらうわ。住むのは私の家。部屋がたくさん余っているから好きな部屋を使ってちょうだい。学校は椿坂の編入試験を受けてもらうけど、お母さまが言うには成績優秀らしいから問題なさそうね。それで、ここからが問題なんだけど」
急に口が重くなったようになる伯母。表情も硬い。
「お披露目、とは違うんだけど結城の親族や藤堂家に婚約者が決まったって発表しないといけないの。代々朱音と同じ体質の人は藤堂の人間と結婚してるから、その慣習を破ることになるの。噂を流したり、口を出す奴がいるかもしれないけど一切気にしないでほしい。これも春以降に行う予定よ」
話終わると同時に紫苑は聞きたいことがあると言いたげに手を挙げる。
「聞きたいことがあるんですけど。婚約者はフリってことですけど朱音が本当に結婚しないといけない年になったらどうするんですか」
それは言外に朱音と結婚するつもりがない、と言っているのではと大人たちは思ったが紫苑にそんな意図はない。単純に疑問に思ったから聞いただけである。
「その前に婚約は解消したということにするわ。勿論紫苑ちゃんや九重家に迷惑が掛からない理由をでっちあげてね」
伯母は朱音と紫苑が互いを想い合い結婚してしまえば一番丸く収まると思った。勿論そんなにうまくはいかない。朱音は少なからず好意(恋愛感情か不明)と思うが紫苑にそんなそぶりは一切ない。朱音は危ない所を助けてもらったから、吊り橋効果のように紫苑に好意を抱いている可能性は否定できない。ある日突然冷めてしまい、この関係も解消すると言い出しかねない。
だが伯母はその可能性は低いと考えている。本人は気づいていないかもしれないがかなり「しつこい」のだ。気に入った食べ物は一カ月食べ続けるし、本や漫画も何十回も読み返している。文房具も壊れる寸前まで使う。一度気に入るとずっと使い続ける性質なのだろう。その興味が人に行ったとしたら。
自分が若い時に出版した小説に似たキャラターを出したことがある。幼い頃に出会ったヒロインに一目ぼれし、再会する十数年間ずっと好きで居続けた、というキャラだ。ここだけ見ると一途な男だと思うかもしれないが、その実体は異常な執着心を抱きヒロインの行動を支配しようとし、男性と喋るだけで怒鳴りつけるというとんでもない男だった。ヒロインは男と別れたいと悩んでいるときにヒーローと出会う、というストーリーだが、自分の作ったキャラと十二歳の甥と重ねる等飛躍しすぎている。だが、自分が知る限り朱音が「人」に執着したことはない。友人は多いみたいだが浅く広くといった感じで親友は居ない。親戚から婚約者について話が出てもどこか他人事のような態度を取る。藤堂の娘たちを苦手としていながらも、誰が婚約者になってもかまわないという、そんな態度。恐らく朱音は自分にも他人にも興味がないのだろう。幼い頃から妖に襲われ続け護衛が怪我をしていたら、そうなっても無理はない。もしかしたら自分を結城の駒の一つだとでも思っているかもしれない。
そんな甥が「妖」に執着した。どう転ぶかは分からない。仮に朱音が「暴走」したとしても紫苑なら回し蹴りでも喰わらせて終わりにしそうだが。
「そうなると俺が捨てたとか、別に好きな相手ができたってことにあるのか。クズじゃん。そんな理由で婚約破棄とか結婚以前に彼女もできないじゃん」
「その辺は『その時が来たら』考えればいいんじゃないのか。というか多少クズでも金持ちで長男、その顔ならむしろ寄ってくると思うけど」
身も蓋もないことを言い出した。それを受けて何故か朱音は神妙な顔つきになる。
「あのさ、俺の見た目どう思う?」
「は?」
何を言っているんだこいつは、という顔をしている。突然自分の顔についての評価を求めているのだから、当然の反応だ。
朱音は自分の容姿が好きではない。家族とあまり似ていないからである。両親、妹共に黒髪で目も黒い。対して朱音は髪も目も色素が薄く茶色い。肌も白く焼こうとしても赤くなって終わりだ。染めているのではいうほど明るい茶髪は周りから染めているのではないかと言われたことがあるし、両親や従兄弟は全員黒髪なのに朱音だけ地毛が茶髪なので、血が繋がっていないのではないかという口さがない連中もいた。
そのためたとえ悪意がないと分かっても見た目の事を言われるのは好きではなかった。今までは容姿について言われても笑ってごまかしていたが、この時は何故か尋ねてしまった。
「どうって、人の容姿の良し悪し良く分からんけど。肌が白いから儚そう。転んだら骨折りそう」
どんな印象だ、と突っ込みたくなったが黙っていた。
「顔は、普通にかっこいい部類に入るんじゃないのか。これ言うといつも『お前に言われたくない』って言われるだけど」
この人並外れた美貌を持つ奴に容姿の事を言われても嫌味にしか聞こえないのだろう。だが紫苑は正直に思ったことしか言わなそうだ。
「あと、妹ちゃんと顔似てる。私は一人っ子だから分からなかったけど。、兄妹ってこんなに似るもんなんだと思った」
「……」
人から「妹と似ている」と言われたのはいつぶりだろう。ほとんどの人間は髪の色や目の色ばかりに注目して、顔立ち自体は似ているのに「妹と似ていない」と言うことが多かった。紫苑は人のことを良く見ているのだろう。かっこいい部類と言われたことよりもそっちのほうが嬉しく感じた。
ずっと黙っている朱音を心配したようにのぞき込む紫苑。端正な顔が目の前に近づき思わず驚いてしまう。
「急に黙ったかと思えば、急に驚いてどうしたんだ。なんか変なこと言ったか?」
「いや、俺全体的に色素が薄いのに親や妹は黒髪だから、似てないって言われること多かったから、妹と似ているって言われるの久しぶりだった」
先ほどと打って変わってしおらしくなった朱音に多少驚きはしたが、紫苑は真剣な顔つきになった。
「親が黒髪で子供が茶髪なんてたくさんいるだろうし、似てないとかいう人は妬んでいるんだろ。気にするな、っていうのは無理かもしれないけど言われたら『こんなに似ているのに、似ていないとか目が腐っているんですか?』って言えばいいんじゃないか」
「紫苑なら言いそうだけど、俺が言ったら面倒なことになるわ。まあ心の中に留めておくよ」
「いや私でもそこまでは言わないわ。今は」
「昔は言ってのかよ、その言い方は」
そんな様子を話の途中だったはずの伯母の含めて微笑みながら見守っていた。ちなみに葵はまだ眠っている。二人はまだ話している様子だったので、こちらで話を進めることにした。
「えーとどこまで話したかしら…まあ今日はもう遅いし細かい話は後日にしましょうか。九重さん、ご主人達に先ほど電話してましたけどどうでした?」
「はい、勝手に話を進めるなんてと少し怒られましたけど、紫苑がやりたいのならと特に何も言われませんでした。義父は紫苑が家を出ていくのが寂しいみたいで、長期休みには帰省させないと家に乗り込むぞ、と言ってました」
「あいつ本気でやりそうだから怖いんじゃ。帰省させるわ当り前じゃろ。うちはブラック企業じゃないんじゃから」
「その間朱音の護衛は他の人がやるんですか」
朱音の母が心配そうに尋ねる。こちらの都合で護衛を変えるのだ。帰省している間だけ代わりにやってほしい、なんて虫のいい話が通るのか不安なんだろう。
「それについては問題ない。妖除けの札開発した藤堂の分家に変わった奴がいてな。そいつが言うには、今使っているものとは比べ物にならない妖除けの道具ができそうだと言っていた。遅くても来年の頭にはできると言っていたな。ただ、強力な割に効果が長続きしないとか不安になること言っておったな…」
「それ、和泉君ですよね父さん。まあ彼が言うんなら本当にできると思いますけど…出来るまでに人体実験とかしませんよね」
「それやったら二度とこの世界で働けなくしてやると言ったら渋々納得してくれたわ」
「脅したんでしょそれ…あいつがそれくらいで引き下がるかしらね。まあ藤堂の中で気にせず付き合えるのあいつくらいだけど」
和泉は藤堂家の分家出身で、妖除けの札やお守りを開発している開発部のエースで、出世や権力に一切興味がなく、ただ妖や妖除けの道具の研究をしていたいという藤堂家の異端児である。当然ながら朱音はかなり世話になっていて、お守りの調整をしているのも和泉である。
「というかあいつを紫苑ちゃんに会わせるの怖いのよね。妖って知ったら研究させろーってしつこく付きまといそう」
「仮にそうなったとしてもあの子ならボコボコにして終わりにするでしょう」
「うちの娘のことすぐに手が出るみたいに言うのは辞めてください」
言いたい放題言われ温厚そうな紫苑母も怒りを露わにしだした。といっても声色から本気で怒っていないのは明らかだ。
仕切り直したのは祖父だった。
「紫苑祖父と息子も呼んで改めて話し合った方がいいじゃろ。いくら反対していないとはいえ。今日はもう遅いしお開きにしよう。お前たちも明日朝早くに戻らないといけないんじゃろ」
両親と伯母は明日どうしても外せない仕事が入っていたので本家に戻らなければならない。当然朱音と葵も一緒に戻る。一旦紫苑とはお別れしなくてはいけない。
それを聞いて紫苑母も家に帰ると言い出す。朱音はまだ話していたい気持ちもあったが、無理に引き止めてはいけないだろう。取敢えず互いの連絡先を交換することにした。
「近いうちにまた会う気がするけどな」
紫苑は帰り際にそう言っていたが、それが現実になるとはまだ知らない。
別れてから早くも三週間が経っていた。紫苑から父親、祖父共に護衛兼婚約者の件は正式に許可をもらったらしいと連絡がきた。朱音は依然と変わらない生活を送っていた。どこかに行くには護衛を伴い、愛華に振り回されるという生活だ。今日は学校帰りに服を買うから手伝えと引っ張り出され、今帰ったところだった。朱音自身服の事など何も分からないためどっちの服がいいのか聞かれてもうまく答えられない。取敢えずどちらも似合うと言うと「そういわれるのが一番困るのよ。ちゃんと見てるの。目ついてるの?」と言われてしまった。
変わったことというと紫苑とメールのやり取りを始めたこと、葵が紫苑には次いつ会えるのかと聞いてくることだ。朱音よりも会いたがっているのではないだろうか。
「紫苑さん次いつ来るの?」
「塾と習い事が忙しくて難しいって言ってたぞ。エスカレーターの俺と違って向こうは編入試験受けないとけないからな。しつこくするなよ。というかいつの間に仲良くなってたんだ」
朱音が覚えている限り尻尾を触って寝てた記憶しかない。というかまともに喋ってた時間はほぼなかったのではないか。
「あのあと伯母さんに頼んで連絡取ってもらったの。その時連絡先聞いて、何度かテレビ電話しているうちに仲良くなったよ」
いつの間に。こっちはメールのやり取りしかしていないのに。これが異性同士、同性同士の差というやつか…と朱音は歯ぎしりしそうになる。
「こっちはメールのやり取りしかしてないのに…」
「お兄ちゃんが見たことない顔してる。というか婚約者(仮)といっても友達みたいなもんでしょ。メールのやり取りが普通じゃないの」
葵の指摘に図星を突かれたような顔になる。今の二人の関係は形式的なものであって、実際は友人レベルである。下手をするとボディーガードと護衛対象になりかねない。そもそも異性の知り合いが愛華以外いないためどのように付き合えばよいかも分からなかった。対照的に葵は割と社交的で異性の友人が多いため、アドバイスを求めれば答えてはくれる。その内容が当たっているかどうかは不明。
「メールのやり取りをしていると言っても、今日何したとかそんな感じだぞ。毎日送るものでもないだろうし」
「へー意外。お兄ちゃん毎日長文のメール送ってそうなのに」
「そんなことしないわ」
「まあいいけど。電話するなりなんなりすればいいじゃん。嫌な顔とか態度に出さないと思うよ」
アドバイスをくれた葵に対し朱音はしかめっ面を通り越して無表情になっていた。虚無である。何を考えているのか、流石の妹もお手上げである。
「…ナニヲハナセバ」
「初対面であんだけ喋っておいて今更何言ってるの」
メールのやり取りは出来て、電話は無理とはヘタレかと思ったが、朱音は結構な人見知りであることを忘れていた。特に女子に対しては苦手意識もあってか殊更口下手になってしまう。初対面のときは勢いで喋れるらしいが間が開いてしまうと喋れなくなるらしい。紫苑と会ってから三週間は経っているので今この状態である。
「振りとはいえ婚約するんだから、まともに喋れないなんて周りにバレたらどんな横やりが入るか分からないよ」
そう告げると朱音の顔が真っ青になる。横やりとは藤堂のことである。今までの慣習を破るのだ。どんな小さい粗を見つけてでも二人の関係に口を出してくる可能性は高い。「そんな呉服屋の娘より子供の頃から仲がいい愛華さんのほうが〜」と要らん口を挟んでくる藤堂家や結城の親戚も要注意だ。愛華が我が儘に振舞うのは同世代の子供の前だけで大人相手には、信じられないが礼儀正しいお嬢様で通っているのだ。完璧な偽装である。勿論私たち家族や護衛、従姉妹は本性を知っているが言えるはずもない。
そのため愛華は結城の親戚からの評判がいい。朱音の婚約者に相応しいと小学校に上がったころから言われているのだ。
婚約したとしても安心できない。二人の仲が良すぎて口出しできないくらいにならないと。
「私も何か対策考えておくから、お兄ちゃん部屋戻って」
「ああ、ありがとう。いつも頼りにして悪いな」
そう言い残し朱音は部屋を出て行った。これだとどっちが上か分かったもんじゃないが、頼られて悪い気はしない。
「私ブラコンなのかなぁ」
そうつぶやき葵はスマホのメッセージアプリを開いた。
それから更に二週間経った土曜日。朱音は部屋で漫画を読んでいた。妹から借りた漫画だ。モテる親友に女子と話す方法を聞いたところ、「お前の恋愛偏差値幼稚園児レベルだからマンガ読んで出直せ」ときついお言葉を頂いた。なので妹から少女漫画を借り、恋愛について学んでいるのだ。何故か葵は呆れた顔をしていたが。少女漫画は初めて読むがなかなか面白い。特にヒロインが暴漢に襲われたときに助けに来たヒーローに惚れるというオーソドックスな始まり方の漫画は、途中からサスペンス要素も加わり先の読めない展開であっという間に読み終わってしまったが。
「まさかヒーローが全部仕組んでいたとは。怖すぎだろ」
ヒーローは幼い頃に一目ぼれしたヒロインを手に入れるため、わざと暴漢に襲わせてそこを助けるというマッチポンプを行い、ヒロインの心を手に入れた。途中ヒロインの幼馴染の男がヒーローを怪しみ、ヒロインから引きはがそうとする。ヒーローは男を邪魔と判断し自分の手は汚さずに幼馴染を始末してしまう。邪魔者を全て排除し、ヒーローとヒロインが結婚式を挙げるところで幕を閉じる。当然ヒロインは何も知らない。幼馴染が殺されたというのに、あまり悲しんでいる様子がなくひたすらヒーローのことしか考えていなかった。所謂依存というやつだろう。このヒロイン幸せになれるのか心配になった。
「これ少女漫画って括りでいいのか。結構えぐい描写多かったけど」
分かることと言えばこれを詠んでも恋愛のことは分かりそうにないということだ。
読み終わった本をベッド横のテーブルに積み重ね、腕を頭の上に伸ばす。するとドアをノックする音が聞こえた。
「お兄ちゃん。お客さん来てるよ」
葵の声だ。お客さんとは誰だろう。友達の誰かだろうか。
「今開けるから少し待て」
ベッドから起き上がりドアへと向かい、開けた。
「よっ!久しぶりだな」
ドアを閉めた。
「は?何で閉めるのお兄ちゃん!」
葵がドアをたたきながら抗議の声を上げる。開けた先には見覚えのある金髪碧眼の少女が立っていた。今日は着物ではなく青いワンピースを身にまとっていた。
思わず扉を閉めてしまった。来ると聞いていたなら色々準備をしていたのに。ずっとメールで近況報告はしていたが、こちらに来るなんて一言も聞いていない。
「な、なんでいるんだ。来るなんて聞いてないぞ!」
「え?葵が、朱音が悩んでるみたいで自分にも話してくれない。私なら言うかもしれないから予定が空いているなら来て欲しいって電話で。葵、朱音に言ってないのか」
困ったように尋ねると横にいる葵は悪びれもせず答えた。
「言ってないよ。言ったらサプライズにならないでしょ」
「サプライズ?」
「お兄ちゃん来週誕生日でしょ。だから紫苑さん呼んだの」
そういえば来週の十月十二日は自分の誕生日だった。毎年葵と両親に言われるまで気づかないほど自分のことに無頓着である。
気を取られた一瞬のスキを突き葵はドアをこじ開け無理やり入ってくる。
「お兄ちゃん紫苑さんにこの辺案内してあげてよ。お守りと紫苑さんが付いていれば大丈夫でしょ。護衛の人は私が足止めしておくから」
言い終わると紫苑と朱音の腕を引っ張り、部屋の外に出てそのまま走り出した。そのままキッチンへと入り裏口のドアを開ける。料理人が何人か残っていたが葵は気にも留めない。この裏口は中庭へと続いておりそのまま従業員出入口へ行ける。
「ここからなら気づかれないでしょ。ほらさっさと行った!」
二人して背中をどんと押され、中庭に出てしまった。出た瞬間扉を閉められる。試しにドアノブを回してみるが、やはり鍵がかかっていた。
「…どうする。ある程度時間が経たないと開けてもらえなさそうだ」
困ったような声を出すが、入り口はここだけではない。人目に付いてもいいなら遠回りして表門から家に入ることだってできる。葵の言う通りにしなくても家に入る方法はあるのだが、朱音がそれを選ばないことを我が妹は見越していた。
「突然呼び出されて、うちにいるのもつまらないだろ。この辺案内するよ」
そう告げると紫苑は嬉しそうな顔になる。碧眼も輝いていた。
「ああ、よろしく頼む」
早速行動に移す。中庭を横切り従業員出入口のドアを開けた。すると出入口のすぐ横に見覚えのある黒い高級車が止まっている。それを見た朱音がばつが悪そうな顔になる。その様子を見て心配した紫苑は声をかけようとするが、その時車の後部座席のドアが開き少女が下りてくる。腰まである黒髪に勝気そうな瞳にキリっとした眉、白い肌に口をきゅっと結んでいる少女は、見た人全員が美少女と評する容姿をしていた。少女が身にまとう青いワンピースは少女の上品さを際立てていた。
そこに立っていたのは藤堂愛華。藤堂家本家の長女で、朱音の婚約者候補筆頭だった。
「朱音じゃない。こんな裏口で何してるの。まさか藤堂の護衛を連れないで外出しようとしたわけじゃないわよね。そんなことしたらどれだけ周りに迷惑がかかるか分かっているのかしら。来年中等部に上がるのだからそんな子供みたいなことやめなさいよ」
いつものように朱音に有無を言わさず、責めるように言葉をぶつけてくる。声に圧があるせいか言われると反論をするのが難しくなる。
愛華は横にいる紫苑に気づき、一瞬ギョッとした表情になるが、すぐに元に戻った。紫苑の美貌に慄いたのだろう。愛華も美少女と言われる顔立ちだが、紫苑と並ぶと勝ち目は薄いだろう。
「ところで隣の人はどなた?見ない顔だけど、まさか友達?朱音に私以外の女友達がいたなんてね」
そう言いながら、愛華は明らかにこちらを下に見ているようだった。朱音に女友達がいるわけがないと高を括っているようだ。実際朱音に女友達は居ない。愛華とその取り巻きが女子にあることないこと吹き込んで、女子を遠ざけているのだ。朱音はそれに気づいていない。
紫苑は相手が朱音を馬鹿にしていることに気づいたのか、見たこともないような笑顔で愛華を見据える。
「初めまして。私朱音の『友達』の九重紫苑と申します。朱音とは一カ月前に仲良くなりまして、妹の葵とも仲良くさせてもらっていますわ」
最近では使うことのなくなっていた「令嬢モード」で応戦することにした。喋っているうちに身体がむず痒くなってくるが、見た目と合わさりこの喋り方をするとどこかのお嬢様だと思い込み、相手は怯む。例に漏れず愛華も怯んだ様子を見せるがすぐに立て直す。
「あら、朱音にあなたのような友人がいたなんて知らなかったわ。でもあなた、朱音とどこかに出かけるなんてやめた方がいいわよ。朱音は」
「体質の事なら知ってますわ。心配していただかなくても、私腕に自信がありますので妖が襲ってきたとしても対処できます」
朱音の体質を知ったうえで二人で出かけようとしていたことに驚いたのか、キリっと引き締まっていた口が震えていた。信じられないものを見るかのような目を紫苑に向ける。
「知った上でってあなた馬鹿なのかしら?朱音の体質がどれだけ厄介か知らないの?うちの凄腕を何人も怪我させるような妖ばかり引き寄せるのよ。おまけに慣習だか知らないけど藤堂から朱音の婚約者を出さないといけない。選ばれると藤堂での地位が上がるから家族みんな乗り気だけど、それがなかったらそんな厄介な奴と婚約なんて誰もしないわよ!」
最後は叫ぶ感じになっていた。我が儘だがいつも淡々としている愛華が感情的になっているのは初めて見た。自分で朱音の婚約者候補筆頭であるように振舞い、周りからもそのように言われていたが、本当は重荷に感じていたのだろう。実際は周りがはやし立てているだけで愛華としては従姉妹が選ばれればいいと思っていたのだろうか。
息を切らしハーハー言っている愛華と対照的に涼しい顔をしている紫苑。その笑みを崩すことなく言い放った。
「そうなんですか。大変でしたね。けどもう大丈夫ですよ。私朱音の婚約者に決まったので。あなたが選ばれることはないです。良かったですね」
何の感情も感じない、淡々とした冷たい声だった。朱音は背中にぞくりと寒気が走った。表情は笑顔のままだが、スっと開いた瞳は絶対零度の冷たさを孕んでいる。紫苑は怒っている。朱音を厄介者扱いしたからかどうかは分からないが、見たこともない本気の怒りの形相なのだと察する。
愛華は言われたことが理解できないようで口をパクパクさせるだけだ。
「は…?何言って…」
「聞こえませんでした?私朱音の婚約者に決まったんです。正式な発表は来年ですけど。私素手で妖撃退できるので護衛も任されました。なので『厄介な』朱音のことは私に任せてあなたは好きにしてください」
淡々と愛華を追い詰めていく様は、いつもの紫苑と同一人物かと疑う程で恐怖すら感じる。だが朱音は目が離せなかった。
「そんな、そんな勝手事おじいさまが認めるわけ」
「あなたのおじいさまが認めなかったとしてもあなたには関係ないでしょ。後日朱音のおじいさまから話があると思いますよ。面倒な慣習から解放されるんだから喜んでください」
にっこり微笑むと朱音の手を掴みずんずんと歩き出す。愛華は力尽きたのかその場でぺたんと座り込んでしまう。すれ違いざま、紫苑は愛華にだけ聞こえるように告げる。
「婚約が決まっても、私はあなたのように女子を遠ざけたりしませんから。これからも友達として朱音をお願いしますね」
いい終わった途端愛華の顔が引きつる。それを無視して紫苑は手を掴んだまま歩き出した。後ろでは運転手が座り込んだ愛華を介抱しているようだったが、それも気に留めることはなかった。
朱音は手を握られたまま、何も言えず紫苑の後ろを歩いている。似たようなシチュエーションを漫画で読んだことがあるなとどうでもいいことを考えていると、突然歩みが止まる。どうした、と声をかけようとしたがそれより先に紫苑が振り向いた。
「朱音、ここどこ?」
先ほどの真剣な表情はどこへやら、困った表情の紫苑に朱音は脱力してしまう。
「この辺分からないんだから、どんどん先進むなよー」
するとばつの悪そうな表情になる。何事にも動じなさそうなのに、この状況に動揺しているのだろうか。まあ朱音はここがどこだか分かるから道に迷ったということはないのだが。
「いや、さっきのが恥ずかしくてな。それで無我夢中で歩いてきた」
そこで紫苑は手を握ったままだと気づき「あ、悪いな」とパッと手を離した。愛華に啖呵を切ったことは恥ずかしがっているのに手を握ったことについては何も感じていないようだ。
「恥ずかしいってなんでだ?かっこいいと思ったけど。あとさ」
言葉を区切り.、真剣は顔になり紫苑の顔を見た。
「ありがとう。怒ってくれて。なんかすっきりした」
今まで愛華に同じようなことを言われても、言い返すと倍にして帰ってくるのが面倒で、言いたい放題言わせていたが多少なり腹が立つことはあった。紫苑が愛華を追い詰める様は見ていて溜飲が下がるようだった。
お礼を言われ、紫苑は少し照れたように言う。
「私がムカついたから言っただけだ。別にお礼とかいい」
「怒るとあんな感じになるんだな」
普段と差が大きかったから、多少の怖さを感じたが黙っていた。また
「母親から、あなたは怒ると敬語で詰め寄ってきてちょっと怖いから友達相手にはやらないようにしなさいって言われてた。ってそれより!」
もっと大事なことがある、と朱音の目を見る。
「勢いで『婚約者に決まった』って言ったけど来年まで秘密だっただろ。さっきの子が周りに言いふらしたら」
「いや、それは大丈夫」
焦っている紫苑と対照的に朱音は実に落ち着いていた。普段と真逆だ。
「愛華は昔から俺の婚約者筆頭って家族や周りにも言われてた。実際は嫌だったみたいだけど、自分もそうだって振舞ってたから、少なくとも正式に発表されるまでは口自分から婚約者が別の人に決まったって絶対言わないはずだ」
プライドがエベレスト級だから、と最後に付け加えると紫苑は納得したようだった。
「さっきの子、例の幼馴染みだったんだな。想像通りというか高圧的というか。誰に対してもあんな感じなのか」
紫苑は先ほど言い合った相手を心配しているような口ぶりだった。
「いや、あいつ外面いいから。俺や従姉妹達以外にはお淑やかなお嬢様で通ってる。付き合い長いけど、なんで俺にはあんな態度なんだろう」
理解できないという顔をする朱音に対し、紫苑はおおよそ察したようだった。恐らく愛華は朱音に好意を抱いている。朱音にだけあたりがきついのも、理解はできないが「好きな子をいじめたくなる」というやつなのだろう。だからといって限度というものがあるが。好意はあるが婚約者候補として扱われるのが嫌だったというのは分からないが、重荷に思っていたのは本当だろう。あの様子だと遅かれ早かれ爆発していただろうけど。何も知らない愛華という少女にほんの少し同情した。
「…なんでだろうな」
紫苑は何も言わないことにした。第一印象最悪の相手だが、好意を持っていると勝手にばらすのは駄目だと思ったからだ。
「それより、婚約者ってフリだけの予定だったけどあんなこと言っちゃったらフリだけだと怪しまれるんじゃないか」
落ち着いた様子から一転、焦りだす朱音。一番の障害だった愛華は紫苑に完膚なきまでにやり込められたから突っかかってこないだろうが、正式に発表された後、愛華が親戚に紫苑が婚約者だと啖呵を切ったことを言う可能性は高い。よそよそしい感じだと、啖呵を切ったのは何だったのだと疑問に思われる。特に愛華は騙されたと知ったら何をしてくるか分からない。
「それはもう、入り込むすきがないくらい仲良くするしかないだろ」
何でもないことのようにさらっと告げる。紫苑は意味を分かっているのだろうか。仲良くというかイチャイチャするという意味に等しいと思うのだが。
「仲良くとは…?」
「今までと同じ感じでいいだろ。そもそも朱音は女子が苦手だと思われてるんだろ。なら普通の友達感覚で仲良さそうにしているだけで周りは納得するんじゃないのか」
紫苑に言われ、面食らった顔になった。こんなに喋っているから忘れかけていたが朱音は女子が苦手なのだ。多分紫苑以外の女子とはまだうまく喋れないかもしれない。朱音が女子が苦手だということは親戚一同知っていることだ。そんな朱音が普通に喋っていたら、それだけで周りは仲良くやっていると納得してくれるのではないか。周りに見せつけるようにイチャつかなければならないと考えていた朱音は拍子抜けしてしまった。別にフリでもイチャつきたかったということは断じてないが。
「だから、別に無理して仲がいいふりしなくていいと私は思うぞ」
「紫苑が啖呵切ったのが原因だけどな」
「それについては謝るから」
すると紫苑は再び朱音の手を取りこちらを見据える。突然手を取られたため、えっ、と声を出してしまったが気にしていないようだ。何故だか照れ臭くなってしまう。
「案内してくれるっていう約束だろ。私今日中に戻らないといけないから早く行こう」
本当に同い年の女子か疑わしいほどの力でグイグイと引っ張っていく。歩くというよりも引きずられていくというほうが合っているかもしれない。
「だから道分からないのにどんどん先行くなよ…」
引きずっていく紫苑に抵抗しつつ、通っている学校から案内することにした。
「いやー楽しかったよ。来年からあそこに通うのが楽しみだ。この辺も図書館とか博物館が多いし退屈しなさそうだ」
「俺はドッと疲れたよ」
満足そうにニコニコしている紫苑とは反対に朱音は疲れた顔をしていた。
椿坂学園を案内するために、受付で見学許可証を貰うために手続きしているうちに運悪く朱音の友人たちに出くわしてしまった。女子嫌いのはずの朱音がとんでもない美少女を連れている、と瞬く間に広まってしまい案内している間ずっと付きまとわれ追い払うのに苦労したのだ。紫苑について聞かれたときは頑なに友人だと言い張った。婚約者だと言おうものならどうなるか分かったものではない。
朱音の苦労など知らず当の紫苑は都会のマンモス校に興味津々真の様子で、学食でラーメンとチャーハンを食べて、バスケ部や柔道部に飛び入り参加する等、文字通り自由人そのものの振舞いをしていた。ちなみにバスケ部ではチームワークとは?というレベルの一人勝ちを収めていたが、来年編入予定と知るや否や是非入部してくれと詰め寄られていた。陸上部でも部内の歴代最高記録をたたき出したとかで、こちらでも勧誘されていた。しかし紫苑は運動部に入る気はないらしい。理由を聞くと
「前スポーツクラブに入ってたんだけど、元々いた子たちをすぐに追い抜いちゃって。その子たちは私の事恨めしいって目で見てくるし、なんか居た堪れなくて辞めた。それ以来部活やクラブには入らないことにしてる」
寂しそうに告げる様に朱音はかける言葉が一瞬見つからなかったが、
「やりたかったらやるべきだろ。自分よりうまい相手を恨むなんてお門違いだし。うちの学校、強豪レベルの部活多いからむしろ紫苑が入った方がやる気出るかもな」
朱音としては慰める意図はなく、ただ思ったことをそのまま告げただけだが紫苑には何か響いたようで、寂しそうな顔から一転元の微笑みに戻った。
そうして学園から退散し、近くにある博物館や図書館も案内した。博物館はチケットを持っていなかったことと閉館時間が近づいていたことから、周囲を散歩して終わった。その途中小さい小鬼がまとわりついてくるという、朱音にとっては日常茶飯事の事が起きた。小さくても鬼のためお守りを持っていても寄ってくることがあるのだ。だがその小鬼達は紫苑を見た途端一目散に逃げて行った。
「私まだ何もしてないけど」
当の本人も困惑していた。何か妖狐特有のオーラでも出ていたのかもしれない。だがこれは、護衛として申し分ないとも思っていた。
「まあ蹴りとか使わないに越したことはないけどな」
その後図書館に移動した。その図書館はかなりの蔵書数を誇っており、特に中高生に人気のライトノベルや文芸を多く入荷しており制服姿の学生の姿が多く見えた。やはり閉館時間が迫っていたので一部しか案内できなかった。本人は編入できたら好きなだけ来られるから、と不満な様子は見せなかった。
図書館を出る前に紫苑は家の運転手に連絡し、結城家の従業員出口に車を止めておくように伝えたらしい。遅いから泊まっていったら言ったら、と伝えると
「明日朝から小テストあるんだ。通知表に響くから休むわけにはいかないんだ」
「テスト前なのに遊びに来てたのか」
「範囲はほぼ覚えてるから、直前に見直せば問題ない」
「…」
勉強できると聞いてはいたが、本当だったらしい。朱音はどうやっても中の下から抜けられないというのに。
「いや私公立校だし。難関進学校と比べないでくれ」
久しぶりにスマホを確認すると葵からのメッセージが入っていた。誤魔化すのも限界だからそろそろ戻って来いとの旨が書いてあった。そういえば家を出てから四時間程経っている。むしろ四時間も誤魔化せたことに驚きを隠せない。
そういえば護衛なしで、友達だけでどこかに出かけるというのは初めてだった気がする。普通の友達付き合いというものはこんな感じなのかと感じた。紫苑と一緒にいたからか、普段よりも妖が寄ってくる頻度が少なかった気がする。護衛と居る時よりいいかもしれないと思ってしまい、文字通り体を張ってくれている護衛の人たちに多少の罪悪感を抱いてしまう。
来年、これが普通になるのだと考えると胸が躍った。紫苑と一緒なら他の友人といろんな場所に行けるのだ。思わずにやけてしまい不審がられた。
「何笑ってるんだ。気持ち悪いぞ」
ひどい言い草だ。確かに気持ち悪かったかもしれない。たまに友人から「にやけ面が気持ち悪い」と言われるから実際気持ち悪いのか。少しショックを受ける。
「いや、来年紫苑がこっち来たらこんな感じで出かけたりできるって思ったら楽しみで、つい」
反応が意外だったのか驚いた表情を見せたが、一瞬だった。
「まあ編入試験受かればだけど」
「そっちも進級試験落ちるなよ」
「うっ…!」
痛い所を突かれた。一応家庭教師に教わっているし、このままサボらず続ければ問題なく受かると言われた。何故だか紫苑が編入試験に落ちるより朱音が進級試験に落ちる可能性の方が高い気がしてきた。
いつのまにか家の裏口の近くに着いた。紫苑が呼んだであろう黒い車が裏口の近くに止まっているのが見えた。それを確認した紫苑は朱音の方に振り向いた。
「じゃあ帰るわ。今日はありがとう。気を付けて帰れよ」
裏口までの距離は二十メートルほどだ。流石に馬鹿にしているのではないかと感じてしまう。
「この距離で何かあったらもう外出れないわ。じゃあな」
手を振ると紫苑は車に乗り込み去っていった。見送りを終えた朱音は裏口から中庭に入った。スマホを見ると葵からの着信が入っている。早く戻った方がよさそうだ。
そのままキッチンへ続くドアを開けるために中庭を横断した。
【それ】は夜の闇から這い出てきた。近づくだけで全ての生物の精気を吸い取ってしまうのではないかというほど禍々しいオーラに満ち溢れていた。【それ】の存在に誰も気づくことはない。陰陽師ですら欺けるほどの力を持った【それ】は本来女の姿をしていた。見た者が全員目を奪われるほどの絶世の美女の姿をしていたが、その額には角が二本生えていた。所謂鬼と呼ばれるものだった。
女は朱音が消えていった裏口を見つめ、呟く。
「…厄介な狐が憑いたようだ…だが、まだ時間はある…逃がしはしない…」
妖しく微笑むと再び夜の闇に溶けていった。
あれからめまぐるしく月日は流れていった。朱音の友人も交えて進級試験勉強に勤しんだり、葵も含めて遊園地へ遊びに行ったこともあった。懸念だった愛華は言いふらすこともなく、以前のような朱音へのあたりのきつさは鳴りを潜め、従妹たちに驚かれていた。何か心境の変化でもあったのだろうか。
遊び惚けていたはずの紫苑は編入試験を難なく合格したらしい。ちなみに朱音は平均点で合格した。この差はいったい何なのだろう。
無事合格したため、紫苑は伯母の家に引っ越してきた。伯母の家は近くにある高級マンションの最上階のワンフロアだ。引っ越しの片付けも業者がやってくれるということで、その間葵を交えて遊んでいたが伯母の住居の豪華さに慄いていた。
「ワンフロア全部とか…スケールが違う…」
確か伯母は「開いている部屋がいくつかある」と言っていた。そういわれてワンフロアを想像できる人間はいないだろうが。
そして遂に、『発表』の日がやってきた。発表と言っても今日に合わせて郵送で手紙を送るだけらしいが。朱音は緊張していたが、紫苑はいつも通りで朝からごはん三杯食べてきたらしい。流石マイペースだと、もはや感心すらしてしまう。
【結城家長男、結城朱音の婚約者を九重呉服店の長女、九重紫苑とする。また紫苑嬢は護衛も兼任するため、藤堂の護衛は本日付で解任とする。】
この発表がどんな波乱をもたらすか、誰も知らない。