はじめての男の娘 1
テーマパークにはじまりの歌が響き渡る、その少し前。
水篠瑞希は小鳥の歌声で目覚めた。
彼は寝起きがすこぶる良い方だ。目覚まし時計を六時にセットしているが、そのけたたましい音が鳴る機会はほとんど訪れない。鳴る前に瑞希は覚醒し、目覚まし時計を止めてしまう。
カーテンを開けると眩しい朝日が瑞希の身体を包む。気力が心の底からじんわりとせりあがるような、爽やかな朝だ。高校生活のはじまりの日として、これ以上なく最高の朝。
瑞希は一階に降りて、洗面台で身支度を整える。洗面台で顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を直して。十分もかからない。
鏡に映るのはさらさらとした黒髪の少年。華奢な身体に可愛らしい顔つきで、一見、女の子のようにも見えるが、生物学上、間違いなく男だ。
彼は女子のような外見に特に思うことはなかった。女の子からモテたいという願望が強ければ、また違った少年になっていただろうか。無論、男色趣味というわけでもない。ただ単に、性欲が強くないだけなのだろう。
いつも通りの時間で朝食をとって、いつも通りのタイミングで自室に戻る。いつも通りのリズム。それらは歯車のように噛み合って、一日のはじまりを形作る。
机に座って一息つくと、ベッドの上で充電していたスマホが震えた。確認すると、遥か遠い場所にいる、大切な友人から一通のメッセージが届いていた。
『入学おめでとう』
顔文字も、スタンプもない。素っ気ないけれど、想いのこめられた一言。それだけで、彼の心は舞い上がるようにぽかぽかとする。
『ありがとう』
瑞希も、言葉を飾らずに、一言で返信した。
それだけで、メッセージのやり取りは終わる。これで良い。友人は忙しいのだから。スマホを触る暇もほとんどないはずなのに、このタイミングでメッセージをくれたのは、友人の最高の心遣いだ。
ありがとう。僕、入学式に行ってくるよ。
心の中でもう一度友人に感謝して、新品のブレザーに袖を通す。身体の成長を考慮してか、少しだけブカブカだ。一年後には、ピッタリになるかなと未来に思いを馳せる。
荷物も確認して、準備完了。黒色のスクールバッグを持って、よし、と一言呟く。母に行ってきますと挨拶してから、瑞希は自宅を出た。
玄関の先は、いつもと同じ景色。
何の変哲もない、閑静な住宅街。
そのはずなのに、どこか、遠い世界……それこそ、パラレルワールドに迷いこんだような錯覚を引き起こした。
景色は同じでも、自分の立場や気持ちが違う。それだけで、違う景色に見えたのだ。
でも、それはマイナスな感情が引き起こしたものではなかった。
どちらかと言えば、よし! 頑張ろう! という、ポジティブな感情だ。
だから、いつもの道もキラキラと輝いて見えるのだ。
瑞希は丁寧に一歩踏み出して、前に進む。二歩、三歩と、高校へと歩き始めた。
瑞希が入学する高校、かすみ高校は徒歩で行ける場所にある。普通の偏差値の、普通科。特筆すべきことのない普通の高校。それがかすみ高校だ。
普通。普通だけど。
……自宅から近いのが、瑞希にしてみればとても良い条件だった。
地元なので高校の場所は前々から把握しているけれど、念のため春休みの時に高校までの通学路は自分の地図の中に開通している。今はそれをただなぞるように進んでいる。
そして、通学路の途中で、それが見えた。
桜の花びらがひらひらと舞う、大きな桜木が続く、並木道。
その道には既に、瑞希と同じ新入生とおぼしき人たちが、高校生という新たなステージに期待や不安を膨らませ、緊張した面持ちで歩いていた。
彼、彼女たちのブレザーは瑞希と同じく新品だ。その初々しい姿が微笑ましく映るのか、通行人のサラリーマンが眩しいものを見るかのように眺めている。
瑞希も桜の絨毯を歩く。履き慣れない革靴は少々歩き辛く、靴擦れを起こさないか心配になった。意識して歩みの速度を落とす。
入学式の時間には、まだまだ余裕がある。これから毎日のように見ることになる景色を、今だけはのんびりと歩き、眺めるのも悪くないかもしれない。この道が日常的となった時、きっと……気にしなくなってしまうだろうから。
それに、綺麗な桜は瞬く間に散ってしまうし、穏やかな気候も駆け足で去ってしまう。春は、本当に貴重な季節だ。桃色に彩られた道路も、その色に添えられた町並みも、今だけは絵画めいた幻想的な光景で、その美しさのあまり、瑞希は無意識のうちにため息が出ていた。
今年は入学式と桜が咲く時期が上手く噛み合ってくれて良かった。感無量で並木道を歩いていると、その傍らで、瑞希と同じ制服を着た少年が桜の木を見上げていた。
この美しさだ、見惚れることもある。別段珍しくもないか、と思っていると、高校生の少年と目が合った。
「おう、そこのお前……ちょっといいか?」
「えっと……僕 ?」
彼は短い茶髪を逆立てた精悍な顔つきの少年だった。高身長に筋肉質の体躯。活発そうな笑顔から覗く真っ白な歯が爽やかで、スポーツ万能な人気者タイプのように見えた。
茶髪の少年は大きく頷くと、目線を上に向けた。瑞希もつられたように見上げ、桜木の高所にある枝に、子猫がにゃー、と震えていることに気づいた。
「あっ……子猫……」
「そうなんだよ。怖くて降りられなくなっちまったんだろう。助けたいのだが、情けない話、俺、木登りできなくてな。どうしたもんか悩んでたんだ」
「なるほど。それなら僕に任せてください」
「それでだな……。……は?」
瑞希は鞄が汚れることも厭わず地面に置き、手慣れたように幹が太い桜木をするすると登る。あっという間に高所へと到達し、震えている子猫を腕に抱えた。
そのまま逆再生するように木を降りて、とん、と軽やかに着地した。そこに何の苦労も疲労も感じさせない。
「す、すげぇな、お前。何か、訓練でもしてたのか?」
「いえ。ところで、この子は……あっ!」
しゅたっと瑞希の腕から脱出し、どこかへと姿を消した。瑞希は逃がしてしまったことにあわあわとしたが、茶髪の少年は爽やかに笑った。
「ははは! 首輪はなかったし、多分、野良猫だから大丈夫だ! ありがとう、助かったよ」
瑞希は首を振って控えめに笑う。内心では子猫を助けられて良かったと安堵していた。
「ところで、お前もかすみ高校の新入生か?」
「うん。そうだよ」
「そうか! 俺もだぜ! よし、これも何かの縁だ。一緒に高校まで行くか!」
瑞希が了承したことで、そこからは二人で並木道を歩く。瑞希と茶髪の少年では身長差があり、並んで歩いていると先輩と後輩のようだった。
「俺は三浦健二って名前だ! お前の名前は何て言うんだ?」
「僕は水篠瑞希。同じクラスかどうかはまだわからないけれど……よろしくね」
「おう! よろしくな! それにしても、高校生ってのは、すっげぇドキドキするよな!」
「うん。僕も結構緊張してるかも」
「ははは! 早くなれるといいんだがな! そうだ、水篠はさ、高校生活はどう過ごすんだ? 俺は、やっぱバイトだ! 高校生になったんだからな!」
瑞希は少し驚いた。目の前の爽やかな少年は間違いなくスポーツ系の部活に入ると決めつけていたからだ。その驚きが顔に出ないように曖昧に笑って、まだ何も考えてない、と返した。
「ま、そりゃそうだよな。これからゆっくり考えるといいかもな!」
「うん。でも、そっか、アルバイトか……」
アルバイトという単語に思いを馳せる。
お金を入手する方法は、親からお小遣いをもらう以外、中学生まではなかった。しかし、高校生からは自力でお金を稼ぐことができる。勿論、その分、責任も付きまとうのだが。それが、その新しい選択肢が、瑞希の好奇心をくすぐる。
部活動に精を出す予定はない。それならば、今後のための貯金、社会勉強のためにアルバイトをするのも悪くはない選択ではないだろうか。
入学式が終わったら求人を探してみようかなと、瑞希は心のメモにとめた。