はじまりの歌
寂れてしまったテーマパークの、イベントステージの裏側。キャスト用の机や椅子が散乱する薄暗い部屋に、腰まで伸びた、長い桃色の髪を持つ女の子が極度の緊張で自らを抱きしめるようにして立ち尽くしていた。
赤色のミニスカートから伸びているすらりとした細い足は、まるで寒さに耐えるかのようにガタガタと震えている。万人を惹き付ける端正な顔も、今は血の気がなく、青ざめていた。
まばたきの間に消えてしまいそうな……どこか儚さを纏う少女は、気休めに置かれた質素な姿見の前で世話しなく身だしなみを確認する。純白のブラウスはシワ一つなく、黒ニーソの長さが左右で違っていることもない。大丈夫、大丈夫と、彼女は自らに何度も言い聞かせていた。そしてまた……身だしなみを確認する。何かしていないと、プレッシャーに押しつぶされてしまいそうだった。
「みずきちゃん。あなたなら、大丈夫。今日までにたっくさん、練習してきたんだから! 自信を持って!」
小学生のように身長の低い女性は、姿見の前で震えていた彼女に背後から明るい声で励ます。その女性は頭から下をうさぎの着ぐるみで身を包み、ファンシーにデフォルメされたうさぎの頭をお腹の前に抱えていた。
姿見の前で震えていた女の子、みずきちゃんは、ハッと我を取り戻し、鏡越しに励ましてくれた女性と目を合わして、頷いた。
間もなく、みずきちゃんが主役の初ステージが開演する。『ラビット☆ラビランド』のイメージソングをみずきちゃんのソロで歌う予定だ。
みずきちゃんにとって、衆目に多く触れるステージで主役として立つのは初めてだった。今まではテーマパークのマスコットを補佐している立場で、どちらかと言えば裏方に近かった。大きな責任を抱えることはなかった。
そう、責任だ。それが……みずきちゃんを緊張させている原因だった。
自分が失敗したら、これからはじまるイベントは全て台無し。
せっかく来てくれたお客様も……二度とこなくなるかもしれない。
失敗は……絶対に、できない。
深呼吸をして気持ちを整えたみずきちゃんは、姿見に踵を返し、うさぎの着ぐるみに身を包む女性に向き合った。頭一つ分身長が低い彼女に向かって、何度も何度も練習した、花が咲くような笑顔を作った。
「永野さん。僕、頑張ってみます!」
「もう。素敵な笑顔だけど、僕、じゃなくて私、だよ? 今はいいけど、ステージに立ったら気を付けてよね?」
こくんとみずきちゃんは頷き、気合いを入れるように頬を軽く叩いた。そうだ、一つの油断が命取りになる。立ち振舞いには気を付けようと、みずきちゃんは改めて自らを戒めた。
「みずきちゃん。このステージを引き受けてくれて、本当にありがとう。改めて、お礼を言わせて欲しい。君がいなければ、俺は……いや、俺たちは皆、希望を失ったまま、ただ朽ちていくだけだった」
二人の様子を部屋の隅で見守っていた青年の男性は、年下のみずきちゃんに深々と頭を下げた。感極まったのか、まだステージがはじまってもいないのに、涙がぽたぽたと床に落ちていた。
「や、山村さん! えと、その、頭を上げてください! 僕、まだステージを成功させていません!」
わたわたと挙動不審になったみずきちゃんは、必死に山村の身体を起こした。山村は泣きそうになっているみずきちゃんを見て、申し訳なさそうに苦笑した。
「そうだね。でも……」
パン! と、堂々巡りになりそうな空気を裂くように身長の低い女性、永野は手を叩いた。
「はい! その辺で! さて! そろそろステージの時間だよ! でも、あまり気負わずにね。せっかくなんだからさ、楽しもうよ!」
永野は頭にうさぎの頭を被り、マスコットへと姿を変えた。ラビット☆ラビランドのマスコット『ラビラビ』だ。丸い頭は大きいが、その身体は人のシルエットを持つ。人型の着ぐるみだ。
みずきちゃんと山村はラビラビの身体を前から、後ろから、夢を壊す恐れがないかを入念に点検する。大丈夫、永野はすっかり、マスコット化している。
……いよいよ、ステージがはじまる。
「ぼ……ううん、私! 私、がんばりますっ!」
小さな拳と、無骨な拳、モフモフした拳を三人は軽くぶつけ合う。テーマパークの危機を共有し、再興のために、あがき、努力したことで芽生えた友情が、そこには確かに感じられた。
壁時計を見ると、そろそろ開演時間だ。ラビラビの補佐役だった頃の癖で、みずきちゃんはラビラビの狭い視界に入るよう、左手首を右拳で二回叩いた。そろそろ時間、という合図だ。
ラビラビが頷いたことを確認し、みずきちゃんが先頭になり、ステージへ向かって、光の差す方へ、意気揚々と駆け出した。
みずきちゃんとラビラビがステージに躍り出ると、わっ、と耳に届く野太い歓声。その中にほんの少し幼い声も含まれている。みずきちゃんを待ち望んだ観客たちの、熱のこもった歓声だ。
上着が必要ない、春の暖かな気候に、一面の青空。本日の空は雲一つなく、みずきちゃんの門出を祝うかのように、どこまでもどこまでも透きとおっている。
観衆に用意された簡素なベンチは全て埋め尽くされ、満員御礼だった。今回のイベントを全く知らず、何事かと興味深そうに立ち見している客も幾人かいる。閑古鳥の鳴くテーマパークにおいて、この人数は異様だった。ベンチを全て合わせて五十人も座れないとしても、だ。
熱気に包まれた観客席の大きなお友達は目を輝かせてみずきちゃんを見ていた。そのおみ足に釘付けになっている足フェチもいれば、清楚な服装を見事に着こなすみずきちゃんに骨抜きになっている者もいる。幼い少年も恥ずかしそうに彼女をチラ見し、早くも萌に目覚めかけていた。
ステージに立った彼女は身体全体を大きく使って観衆に手を振った。その瞬間、歓声のボルテージがギアを変えたように一段階上がる。
「今日はラビット☆ラビランドにご来場、ありがとうございますっ! 私、とっても、とーーっても、嬉しいですっ!」
永野に習った通り、少し媚びたような声音を手に握ったワイヤレスマイクに拾わせ、満面の笑みを作る。普段の彼女であれば甘い声を出す自分に悶絶し、自己嫌悪に陥るだろうが、今はアドレナリン全開で微塵も気にならなかった。むしろノリノリである。
野太い歓声が一部、飛び抜けて上がる。彼らは、このテーマパークに前々から出没すると言われた美少女、みずきちゃんのファンだ。アイドルの追っかけ程ではないが、荒ぶる熱い魂を持っている。
「初めましての皆様もいるでしょうか? こちらの可愛らしいうさぎさんは、当テーマパークのマスコット、ラビラビでーす!」
みずきちゃんは空いている方の手で隣にいるラビラビを紹介した。ラビラビは自らの存在感を示すように、大きく手を振った。幼い女の子の喜ぶ声がこだまする。
「そして、私は、えと、みずきです! 本名はみずきちゃんなんですけど、自分でちゃん付けするのは恥ずかしいので……」
左手で頬を触り、軽く首を傾げて、顔を赤らませる。このしぐさを、みずきちゃんは素で行った。客席にいた男性たちはここぞとばかりにスマホや一眼レフのカメラで可愛いみずきちゃんを撮影する。一部は執念のように太もも、絶対領域だけを撮影している輩もいる。
「天候にも恵まれて、絶好の遊園地日和ですね! まだまだ日も高いし、この後もいっぱい、ラビット☆ラビランドを楽しんでくださいねっ!」
みずきちゃんとラビラビは大きく手を振った。ラビラビは設定上、喋らない生き物なので、身ぶり手振りが一段と激しい。着ぐるみマスコットらしく、時折あざと可愛いしぐさも挟み、その手の人種を萌えさせる。
「さてさて! 本日は、僭越ながら私が歌いますねっ! ちょっと、緊張しちゃうけど……。でも、みなさんに届けたい! それでは! 聴いてください! 『ようこそ! ラビット☆ラビランドへ!』です!」
みずきちゃんは心の内で大きくため息を吐くイメージをした。明鏡止水の境地。ここからが、本番。今までの練習成果を、このステージに、全力で、ぶつける!
軽快なエレキギターのイントロが流れはじめる。家でも、通学中にも、ヘビーローテーションをして、耳で、身体で覚えた楽曲。明るいポップに合わせて、ラビット☆ラビランドの魅力を歌詞へとふんだんに盛り込んだ、熱意と宣伝の塊。
ラビラビは音楽に合わせて踊りを開始した。動物マスコットでありながら、本職のダンサーのようにキレのあるダンスをこなす。その動きは着ぐるみなのに違和感がなく、中に人がいることを感じさせない。いや、中に人などいないのだ。
みずきちゃんは音の波に乗るように、波長を合わせるように、歌う。ここのテーマパークの再興として。彼女の新たな道として。
福音を告げる、はじまりの歌だ。
流れている伴奏は録音で、楽器の生演奏のような躍動感はない。しかし、みずきちゃんの清水のように一切濁りのない、澄みきった声は観客たちを一人残らず魅了する。
踊りなどのパフォーマンスが無い分、みずきちゃんは歌声に全身全霊を注げる。
だから、歌詞、一つひとつに自分の想いをのせて。
お客様、一人ひとりのこころに声が届くように!
次第に緊張はどこかへと吹き飛び、彼女は楽しい気持ちで埋め尽くされた。一体となったこの会場をさらに盛り上げたくて、楽しい気持ちを共有したくて、手拍子を求めた。これはみずきちゃんのアドリブだ。練習では行っていない。永野にも教わっていない。観客もそれに応えて、会場が、彼女が、観ている人々の気持ちが遥かなる高みへ、どんどんと昇っていく。
すごい! 楽しい! 歌うって、楽しい!
これが、ステージ! ライブ!
歌ってるのはカラオケにも入っていない、テーマパークの歌だけど!
「みずきちゃーん!」
「最高!」
「萌えるうぅぅぅぅぅ!!」
不安で仕方なかった初ステージ。しかし、いざ本番を迎え、今の会場の空気に、雰囲気に触れ、ライブというものの印象を大きく変えた。
この仕事、すっごい楽しい! もっと、やりたい!
みずきちゃんは全てのことに感謝したい気持ちでいっぱいだった。自分が生まれたこと、この仕事に出会えたこと、友達の支え、集まってくれたお客様のこと。ありがとうと、一人ひとりに伝えたかった。
……ただ、一つだけ、この観客たちに対して、重大な秘密があった。それは、墓場まで持っていかなければならない爆弾で、みずきちゃんでいる限り、常にそれを抱えなければならなかった。
彼女、みずきちゃんは、彼女、ではなく。
彼、だった。
つまり、男の娘だった。