1-2 向こう側に繫がる隧道
辺りに飛び散っている血痕。倒れる血まみれの男たち。そして、突然現れた青年と少女。
暗がりに溶け込んでいるせいで、二者の顔はよく見えない。
……しかし少なくとも、この状況を生み出したのが何者かなどは、もはや明白だった。
「え……なん、で……あなた、たちは――」
「ほう。見た目通りの良い反応をしおるなぁ」
こちらの言葉を遮る少女の声。だがその声は、少女の年齢とは絶対に相容れない狂気と恍惚感に満ち溢れていた。
「ふふふ……イイ……イイな! お前、中々壊しがいがありそうだ――!」
声から伝わる興奮が最高潮に達したであろうその時、暗がりから少女が一歩、力強く前に踏み出してくる。
――アスファルトに走る小さな亀裂。
豪勢な黒いドレスに身を包んだ、華奢な少女が姿を現した。
「ひっ……」
病的に白い肌と、透き通るような白い髪。
……だが、思わず情けない声を漏らす発端となったのは、そのいずれでもない。
淡い光を放つ、殺気の塊のような真紅の目の中。
蛇にも似た細い黒瞳に、睨まれた気がしたのだ。
「――よしな。これ以上の殺生は上が許してくれねーよ。……それに、衝動に任せて動くようじゃ、こいつらと同じってもんだぜ」
次に路地内に響いたのは、そんな軽い口調の男の声だった。
「んにしてもなんで覗いちゃったかね~。あんた馬鹿か何かか? 音と声からしてやばいことやってるって、わかんねーかなぁフツー」
赤髪灰目のスーツ姿の青年が、そう悪態をつきながら少女の隣へと歩み出てくる。
そしてここで追いつく、遅すぎる理解。これは、間違いなく関わってはいけない類の者たちだ。ヤクザやチンピラなどとは比にならない、裏社会の本当の深部に通ずるような者たち。
興味本意で覗いたことがどれほど愚かな行動だったのかを、今更になって自覚した。
「ぇ……その人たち、は……」
弱者の本能が働いているかのように、出てくる声は震え、弱弱しい。
とはいえ無理もない。目の前には、三人もの男が血だらけで倒れているのだから。そんな光景を前に平然といられる方が、むしろおかしいのだ。それこそ目の前の二人組のように。
「あぁ、この豚どものことか? 我のことを穢そうとしてきたゆえ、相応の報いを与えてやっただけのことよ」
少女はそう言って屈みこみ、傍らに倒れる男の顔を持ち上げ――。
「あ」
「あ、すまん。つい」
骨や肉が折れ潰れるような音が響いたかと思えば――男の首は、あらぬ角度に曲がっていた。
しかし、少女には驚いた様子が何一つ見られない。それどころか、もう使い物にならないと言わんばかりに、男の頭をつまらなそうに放ったのである。
「うええ、やっちゃったよ。……でもまあ、どうせ死ぬ運命だったし、何しても問題ないみたいなところはあったか?」
対して青年は、酷く顔を顰めていた……が、結局、目の前で人が死んだときにとるような反応ではなかった。
「まあ無駄話はこの辺にしといて。俺らも面倒ごとは嫌いでさ。お互い、見なかったことにしね?」
これが、裏社会で生きている者の感性だというのか。目の前で一人の命が潰えたことに、何も感じることは無いのか。……異常すぎる。考え方も、人間性も、何もかもが。何より、人を殺すという行為に、なんの罪悪感も躊躇もないところが恐ろしい。
「は……人、殺し……!? け、警察……っ!」
もはや限界だった。弱者としての本能が、今度は助けを叫び求めていてやまない。
後退りながら、手元の液晶の数字列に指を走らせる。1、1、0と、三回数字を押せばそれで済む話で――。
「――おい。お互い見なかったことにしようって、俺は確かにそう言ったはずだぞ」
苛立ちが目立つ青年の言葉と共に、手元に軽い衝撃が走る。そして、硬い何かが飛び散るような、乾いた音が路地内に響いた。
「――あ、ああ……!?」
何だあれは。
青年がこちらに向けている手の平。
――ドス黒い木の根のようなものが、スマートフォンの一部を串刺しにしているではないか。
「ああ、そうかいそうかい……」
その一言で、木の根は掻き消える。
そして煽るような口調で一言挟んだ後――青年は、足元に落ちたプラスチック片を、勢いよく踏みつけ粉砕する。
「もういい、気に障った。てめぇのその"衝動"。相手の声は無視、自分しか見えてないその衝動よ!お前みたいなやつはさぁ、生かしとく価値ねえと思うんだよなぁ? なァッ――?!」
怒声と同時――おびただしい数の黒い木の根が、青年の背後から飛び出てきた。
「ッ――!」
瞬間、弾かれたように駆け出す。
簡単な話だ、確かな『死』を予感したのだから。
「誰かっ……誰かぁ……!!」
無我夢中で、閑散とした路地を走り抜ける。そして、心から助けを求める。
しかし、喉から出てくるのは大きな声ではなく、恐怖で掠れた惨めで役に立たない声だけ。
「――ひいっ!?」
背後に何やら圧迫感を感じると思って振り返ってみれば、
「逃げ足の速ぇヤツだなクソがァ!!」
路地裏から出て来て激昂している青年。ドス黒い死の塊が、背後から迫って来ていた――!
「(あっ……!)」
そのとき目に入ったのは、帰り道にいつも通る隧道。
「(あそこでやりすごせるか……!?)」
しかし迷っている暇はない。
吸い込まれるように、隧道へと向かう。
そして――、
「だぁっ!!」
勢いよく、壁の窪みへと滑り込んだ。
――間もなくして、沈黙が訪れる。
「はあ……もう、来てない、かな……」
木の根は、もう追ってきてはいなかった。
伸びる長さに限界でもあったのか、それとも、あの二人も騒ぎになるのはやはり避けたかったのだろうか。
だが、何にせよ、助かった。
「な、なんだったんだよ……あれ……」
二人が何者なのかも気になるが、特に、先の青年が繰り出してきたものが何だったのかがさっぱりだ。
ただ一つ、確かに分かること。
それは、あの木の根には絶対に触れてはいけないということである。
生命に危機をもたらす物体だと本能が理解していたから、きっと自分はあれほど速く走って逃げることができたのだ。
……いや、今はそんなことよりも、
「はやく誰かに伝えないと……!」
あの二人に、三人もの人が殺されている。下手すれば自分も殺されていた。
スマホを失ってしまった以上、外に出て誰かに直接、このことを伝えなければならない。
「――あ……」
意思と体の動きが噛み合わない。
緊張から解放された反動か、あまりの恐怖と衝撃に尚も足や手が震えており、立ち上がるのもやっとだった。
「……?」
その時、ある違和感に気がつく。
「何も……見えない……?」
いつもは、しつこすぎるほどの橙色の照明に包まれているこのトンネル。
それが今日はなぜか、真っ暗だった。
「え、違う……?」
――いくら何でも、暗すぎる。
暗闇に目が慣れているはずなのだが、それでも何も見えない。地面も、壁も、天井も、見えるはずの出口も入口も、どこもかしこもが真っ黒――。
「――っ!? なんだ……!?」
不気味なほど静まり返ったトンネル内を、突如凄まじい風圧と轟音が襲ってきた。
体全体を突っ張ってくるような重たい風を前に、反射的に顔が歪む。すぐに姿勢を低くせざるを得なくなり、その場に身を伏せる。襲い掛かってくる爆音も聴覚から遮断しなければならない。目を覆っていた掌をたまらず耳へと移動させる。
しかし――、
「っ!」
必死の防御も空しく、体は大きく吹き飛ばされてしまった。
明らかにトンネルの高さ以上に吹きあげられたような無重力感と、そして聴覚異常に、さらなる恐怖感と不快感を覚える。
……まさか通り風で死んで……?
そんなことが頭によぎった途端、意識は急激に遠のいていくのだった。
◇ ◇ ◇
――朝、目が覚めるときのような感覚だ。照明らしき光が、ぼーっと開いた瞼の隙間から差し込んできている。
そして徐々に意識が覚醒していくのと同時に、半開きだった瞼も開いてゆく。
青色の美しい花々が描かれた天井。ちょっぴりおしゃれなシェードつきの、大きな照明。
大理石か何かでできているような、硬い床の上に敷かれている絨毯から上半身を起こし、辺りを見渡す。
複数の大きな本棚、ガラスケース内の多数のトロフィー、壁に掛けられた賞状。
そして部屋の主のみが使うことを許されているかのごとく構えられている、立派な彫刻が施された木製の机に、いくら座っていても疲れなさそうな執務椅子。
この部屋を一言で言い表すのならば、「お偉いさんの部屋」が最もイメージに近いのだろうか。
――明らかにおかしい。
確か、自分はトンネルの中で凄まじい風に吹き上げられたはず。どれだけ運が良かったとしても、アスファルトに打ちつけられ、何かしら怪我を負っているのが普通だ。
しかし現状、怪我をしたような痕跡だったり、体のどこにも痛みを感じない。
いや、そもそも、違和感の大部分を占める正体は、怪我云々の話ではない気がする。
「ここどこだよ……」
目を覚ませば、そこには病室の天井が広がっているわけでもなく、点滴の管が片腕へと続いているわけでもなく――お偉いさんの部屋。
状況が全く理解できない。
一体どんな手違いがあったら、トンネルで気を失った者がこんな場所に連れてこられるというのか。
どうやっても辻褄が合わないじゃないか――。
「――気がついたようだな」
困惑がピークに達したとき、その声は突然と響いた。
声の方向へとっさに振り替える。
え、いつの間に……?
先程まで誰もいなかったはずの執務椅子には、若い男が座っていた。
黒基調のスーツに加えて軽装の鎧。藍色の髪は少し長めで、眉にかかっている。
血色こそ人間そのものではあるが、男はどこか、ゲームなどに出てくる「魔王」を現代風に落とし込んだような風貌をしていた。
「突然のことで驚いているかもしれないが。――今回君は、訳あって"召喚"された」
椅子から離れ、窓際へ移動したかと思うと、男は真剣な眼差しを向けてそう言ってきたのだった。