猛獣島
大海原に1つのイカダが浮かんでいた。イカダには帆があり1匹のスライムが2本の触手を器用に動かしイカダを操作している。
青い半透明のスライムであるジエルの体が太陽の光を浴びて輝いていた。
「まおう様、この方角に進み続ければいいの?」
『そうよ。この方角に進めば大きな島に到着できるわ。この辺りの地理は大まかにだけど覚えているのよ。なんせ私は魔王だから』
ジエルの視界の一部にワイプのように表示されている魔王の顔がジエルを安心させる。魔王の外見は人間の赤髪の美女のようだ。
「流木に乗って海に出るって怖い。でもちょっぴり楽しい。怖いのに楽しいって変なの」
『冒険心ってものをスライムのあなたも分かってきたのよ。あ、見えてきたわよ』
魔王とジエルは五感を共有している。魔王はジエルの目を通して見ている。水平線に島影が現れたのだ。
ジエルにとっては初めて目にする別の大地だ。ジエルの体が興奮したようにぷるりと震える。
イカダはそのまま進み、島の砂浜の近くまで到達した。
初めてみる自分の故郷以外の場所にジエルは歓喜したように飛び跳ねる。砂浜からは険しそうな山が見えた。
「わぁっ! すごいや! ボクの生まれた所と同じような所が本当にあった!」
『世界は広いって事よ。あなたが生まれ育ったのはスライムがたくさんいるスライム島。そしてこの島は――』
島の内陸にある山から獣の遠吠えが聞こえてきた。その遠吠えに応えるように島のあちこちから遠吠えがいくつも響いてくる。
その野性味溢れるたくさんの音を聞いたジエルは怯え、軟らかい体をすくませた。
『様々な獣が生息する――猛獣島よ』
魔王の指示で砂浜にイカダを上陸させたジエルは不安げだ。
「ボク、この島には怖いやつがたくさんいると思う」
『攻撃的な生物は当然いるわよ。というかあなたが今までいた島が平和すぎたのよ。スライムだけしかいない島って他にはないわ』
「スライムがたくさんいる島、他には無いのかぁ……」
スライムの友達を求めるジエルは落胆した。
『大陸に行けばスライムなんて溶ける程いるわよ。でも今の弱いままのあなたが人間の多い大陸に行くと簡単に殺されてしまう。この島に来た目的は強い生物をたくさん殺す事で生命力を吸収して強くなる事。
強くなって仲間を皆殺しにした勇者の一味に復讐をしたいのでしょう、ジエル』
「うん、ボクは絶対みんなを殺した勇者を殺してやるんだ」
『ではさっそく島の探索をしましょう。保存食の残りは少ないし水場も見つける必要がある。ここに棲む獣は攻撃的だから油断しないように』
ジエルから2本の触手が生え、先端が刃状に硬質化した。
『私は能力の発動はできるけど体はあなたにしか動かせないから頼んだわよ。あなたが死んだら私まで死んでしまうんだから』
「まかせて」
ジエルは決意の表われのように触手刀を高速で動かした後、体から生えた可愛らしい短い2本の足でトコトコと歩いていった。
ジエルは触手刀で茂みを切り分けながら森の中を歩いた。砂浜から見えていた大きな山にはまだ達していない。湿度が高くジエルは蒸し暑さを感じていた。
ジエルの穴だけ空いた耳に微かに水の音が聞こえてきた。
『水音。木々の豊富な山があるのだから水源は必ず存在するはず。音のする方へ行ってみなさい』
「わかった。湖だったら泳ぎたいな」
うだる暑さの中、冷たい水に浸かる自分を想像しジエルは心を躍らせた。
水音のする方向へ進むと水音は徐々に大きくなっていき、水の匂いが漂ってきた。
「水の匂いだ、絶対水があるよ」
『そのようね。綺麗な水だったら嬉しいのだけれど』
冷たい水が近いと思い元気良く触手刀で枝を切って進むジエル。スライムは体にある程度水分を溜めておけるが、だからといって暑さに動じないわけではない。
冷たい水で体を冷やせると思ったジエルは油断していて、ジエルと五感を共有している魔王も油断していた。
――その時であった。
茂みの中から獣が突如として現れジエルに鋭い牙を向けてきた。
「ひいいいっ!?」
突然の襲撃にジエルは悲鳴をあげたが、声を出す前に触手刀で獣の胸を貫いていた。獣は白い毛がところどころに混じった狼で、触手の貫通している胸からは赤い血が溢れ出てきている。
ジエルのスライムの体は心臓が高鳴るように脈動していた。
「びっくりした……」
『これはシラガオオカミよ。水場が近いのなら獣も近くにいるに決まっているか。それにしても油断していたとはいえ直前まで反応できなかった。森の中の獣は気配を消すのが上手だわ。用心して進みましょう』
ジエルは触手刀を意味もなく辺りに振り回しながら森の中を進み始めた。
『ヤケになったら逆に気配を感じにくくなるわよ。それとさっきは魚にやるみたいに狼の胸を背中まで貫いていたけど、できれば首筋を切り裂くか内臓を破壊した時点で刃を戻すようにしなさい。
敵の数が多いと触手を引き抜いている隙に袋叩きにあって殺されるし、いちいち全力で貫通させていたら体力が持たないわよ』
「わかった」
ジエルは触手を振り回すのを止め、カニのように2本の触手刀を構えながら歩き続けた。
「水だぁ!」
綺麗な川を見つけたジエルは嬉しそうに飛び込んだ。
「ふひー、冷たくて良い気分」
『暑かったぶん格別……これだけ綺麗なら飲むのに問題は無いでしょう。水の心配が無くなってひと安心だわ。食料も獣がたくさんいるから問題は無い。この島でしばらく暮らしていけそう』
ジエルは流水にスイカのように浸かっている。蒸し暑い森を歩いていたジエルは冷たい水に浸かれて快適な気分になっていて、魔王もジエルを通して快適さを味わっていた。
またもやジエルと魔王は油断していた。水の流れる音で周囲の音が聞こえにくい。
「……んー?」
ジエルが何かの気配を感じた時の事であった。
――シラガオオカミがジエルの体に噛みついた。
「ひいいっ!?」
サッカーボール程の大きさのジエルは狼に比べると小さく、上下の牙は簡単そうにジエルの全身を挟んでいた。ジエルは自分の体が軋む音を聞いた。
『クソッ、また油断した! 反撃なさい!』
ジエルは半狂乱で2本の触手刀を振り回す。刃が狼の体のどこかに当たり、驚いた狼はジエルを口から離した。距離をとった狼の胸をジエルの触手刀が貫く。触手は背中まで貫通していた。
「噛まれた……死んじゃう……ボク死んじゃうよぉ……」
『大丈夫よ。スライムの中枢は殻に包まれていて、あなたの殻は強化されているから簡単には砕けない。でも何度も噛まれるのは避けて』
スライムであるジエルは痛みを大して感じない。だが牙が中枢の直前の殻に触れた事ですっかり恐怖状態になってしまっていた。ジエルは既に死んでいるシラガオオカミに何度も触手刀を突き刺す。
動揺しているジエルは気付くのに遅れたが魔王はその襲撃に素早く気付けた。
『まだいるわよ!』
いつの間にやら数頭のシラガオオカミがジエルを取り囲んでいた。襲撃が続いている事に気付いたジエルは慌てて狼の死骸から触手刀を抜こうとする。
刃が硬い骨に挟まって引き抜くのが少し遅れた。周りにいる狼たちはその一瞬を見逃さない。
「ぎゃっ!」
狼の牙がまたもやジエルに突き刺さった。噛みつかれたのだ。狼の強いアゴの力で殻が軋む音をジエルは再び聞いた。牙が殻を突き破って中枢を貫く光景をジエルは想像し青ざめる。
「このぉ!」
ジエルは噛みつかれたまま触手刀を2本とも狼の体に突き刺す。触手は2本とも狼を貫通していた。
狼の口から解放されたジエルはひと安心するが、またもや別の狼の口がジエルに襲いかかる。触手刀でその狼も殺そうとするが、触手刀の1本が狼の硬い骨に引っかかって引き抜けない。
パニックになったジエルはもう1本の触手刀で攻撃する事を忘れ、短い足を力いっぱい動かして飛んで狼の牙を回避した。ひと呼吸遅れて引き抜けた触手刀と合わせて2本の触手刀で狼の体を貫く。
『いちいち貫通させるな! 首筋を狙うか内臓を傷つけるだけにしろ!』
他の狼は続けざまに仲間を殺された事に驚いたのか遠巻きにジエルを見ているだけだ。自分が優勢だと感じ取ったジエルは狼に向かってジャンプすると触手刀を振るった。
「首筋を切り裂く!」
風切り音がしたと思うと1頭の狼の首元から鮮血がほとばしった。調子に乗ったジエルは2頭目の狼の首筋を切り裂く。赤い血が噴出される。
鳴き声をあげるわけでもなく残りの狼たちは一斉に逃げだした。ジエルは追撃をして1頭の狼のお腹に触手刀を突き刺す。今度は貫通はさせない。お腹の中で刃をひねると狼は血を吐いて絶命した。
『そうよ。刃をひねれば内臓を傷つけられるの。分かってきたじゃない』
「はぁ……はぁ……助かった……」
ジエルはスライムなのに人型のように体を上下させて息を切らしている。人型の自分に憑依された事の影響なのかと魔王は思った。
『ひとつの攻撃に体力を使いすぎると体が持たないって意味、わかったでしょう? この水場はシラガオオカミの縄張りかもしれない。調度良いからしばらくはここを拠点に活動しましょう』
「何が調度良いの!? あんな怖い奴らがウヨウヨいるのに! ボクここ嫌だよ、また狼が来るかもしれないし、イカダに戻ろうよぉ」
『水があって獣がいて食料と生命力が確保できる。不意討ちをしてくる狼で警戒心の鍛錬ができる。理想的な環境じゃないのよ』
ジエルは触手で頭を抱えた。
「ううう、まおう様の鬼……」
『明るいうちにその辺の木を削って寝床を作るわよ。それと狼の肉を川に浸して血抜きをしておきましょう、そのままでは臭みが強いだろうから』
すっかり陽が暮れた森の中。川から少し離れた所に焚火が燃えていて暗い森の中を照らしていた。
ばらばらに解体された狼の肉が木の枝を串代わりに焼かれている。焼きあがった串焼きをジエルは2本の触手を使って食べている。その仕草は人間の子供を連想させた。陽が暮れる前から狼の肉を食べ始め、仕留めた5頭全部を食べ切ろうとしていた。
ジエルの背後には一部が半円状に削られた倒木がある。魔王はジエルに木を削らせて洞穴状にしたのだ。
「言われた通りに大きな木を倒して削ったけど、これで本当に安心して眠れるの?」
『攻撃される方向を限定できるだけで安心はできないわ。寝ながらにして敵の攻撃を警戒しないと死ぬわよ』
「まおう様の嘘吐き! この作業を終えられれば眠れるって言ったのに!」
『誰に向かって生意気な口を利いているのよ。あのねジエル。普通野生の生物達は常に敵を警戒して生きていて、寝ている時でさえ神経を研ぎ澄ましているの。スライムと小動物と虫しかいなかった環境で生きてきたあなたが平和ボケ過ぎたのよ。
この島での第一目標を決めるわ。野生生物らしい警戒心を身に着け、気配を感じ取れるようになりなさい』
「気配を感じ取るって、できっこないよぉ……そもそも何さ? 気配って……」
『無意識のうちに五感を使って近付いてくる生物を察知する事を、気配を感じ取るというのよ。知性の低い獣でも出来る事を、知性がある生物が出来ない方がおかしいわ。
高い知性を持つ魔王である私も気配を感知できるから、馬鹿なあなたも気配を察知できるようになれるわよ。あなたが眠っていても私の意識は起きていられるから、獣の襲撃があったら起こしてあげる。ありがたく思いなさいよ』
木の枝が折れる音がした。暗闇の中でいくつもの目が光っている。
「ひいっ! シラガオオカミ!」
『生命力と食料の方から来てくれるって幸せ者じゃないジエル』
様々な獣の鳴き声が響く夜の森で、殺し合いの音が一晩中響いていた。
1ヶ月後。焚火の近くにてジエルは眠っている。
倒木を削って作った洞穴には入っていない。全方向から敵の攻撃を許してしまう状況だ。しかもジエルは触手刀どころか触手さえ生やしていない。
焚火の近くの茂みでいくつもの目が光っている。数頭のシラガオオカミが眠っているジエルを見ているのだ。
狼たちは眠っている変な形をした生物が自分の仲間達を殺しまくっている事に憎悪していた。その敵が今、無防備な姿を晒している。復讐するチャンスだと狼たちは考えていた。
ジエルが寝ているうちに狼たちはジエルを囲むようにあちこちの茂みに隠れた。いつでも全方向から一斉にジエルに襲い掛かる事ができる状況を狼たちは作った
リーダー格の狼がジエルに向かって牙を見せた。それを合図として他の狼たちもジエルへの襲撃を開始する。
眠っていて無防備なジエルは――
ジエルの体から瞬く間に2本の触手が生え一瞬で先端に刃が形成された。ジエルは起きるとほぼ同時に敵の姿を視認する。狼が、ジエルが起きた事に気が付いた時にはもう狼の首筋が切り裂かれていた。
ジエルは小さな動作で急所を適格に攻撃していく。死ぬのに十分な傷を与えるに留めて派手に獲物を触手で貫通させる事はもうしなかった。ジエルが2本の触手刀で狼を殺していく様はさながら踊っているようであった。
次々と仲間達が赤い血を首筋と胸から吹き出しながら死んでいく光景を見てリーダー格の狼は退却を決意した。奴は自分達の敵う生物ではない。これからは奴を避けながら生きていくべきだと悟った。
逃げ出すためにジエルに背を向けたリーダー格の狼の後ろ足が切り裂かれ、狼は転倒した。それでも何とか走って逃げようと起き上がったが、お腹に触手刀が突き刺さり、刃をひねられた。狼は短い鳴き声をあげると血を吐いて死んだ。
「どんなもんだい!」
ジエルは得意げに血で赤く染まった触手を掲げた。魔王に起こされる事なく睡眠中の襲撃に反応できたのだ。野生の生物と同じく気配を感じ取れるようになったのだ。
その夜以降、シラガオオカミがジエルを襲撃する事は無くなった。
ジエルは久し振りにゆっくり眠れるようになったが同時に困った状況でもあった。食べ物の方からジエルへやって来てくれないのだ。
狼との夜戦から3日後、昼間の森の中でジエルは獲物を求めるように触手刀を振り回していた。
「何か食べたい」
多くの生物を殺し生命力を強化した結果、ジエルは見かけでは信じられないぐらい大量の食事をできるようになっていて、エネルギーを蓄積できるようになっていた。
蓄積の程度によっては1週間ぐらいは何も食べなくても活動できるのだが娯楽としては別だ。ジエルは美味しい肉の味を求めていた。
『戦闘には大量のエネルギーを使うからできれば毎日獲物を仕留めたい所だわ。この水場に留まってもシラガオオカミはもう襲撃してこないだろうし、別の地域へ行ってみましょうか。この島は広い、他にもたくさんの獣がいるはずよ』
魔王の指示に従いジエルは川の上流に向かって歩き続けた。細い触手を漂わせながら短い足でトコトコと可愛らしく歩く姿からは、狂暴な狼を簡単に殺す生物だとは思えない事だろう。
「獣が出てきてくれないかな、仕留めて食べてやるのに」
ジエルはシャドーボクシングをするように触手を動かす。
『森の中で獣を探すって上手くいかないものだわ。歩いていればそのうち遭遇するでしょう』
獣の発見を待望するジエルだったが、結局その日は獣を見つけられないまま陽が落ちた。
焼く肉はないが焚火は起こしていた。この方が周囲の状況が分かりやすいからだ。焚火の前でジエルはうなだれていた。
「お腹空いた……」
『私も空腹を感じているわ。食い溜めでエネルギーの蓄積はできてもお腹は空くってわけか。でも虫は食べたら駄目だからね!』
言いたい事を先に否定されたジエルは体を沈ませ落ち込んだ。起きていても空いたお腹が煩わしいだけ。早く寝てしまおう。明日にならばたぶん食べ物を見つけられる事だろう。ジエルがそう思った時の事であった。
草を踏んだ生き物の足音が微かに鳴った。狼の夜襲に応戦し続け感覚が敏感になっていたジエルはその足音に気が付く。
1匹のウサギが焚火とジエルを眺めていた。兎は2本の足で立っている。次の瞬間には兎の頭と胴体は離れていた。触手刀で両断されたのだ。
「やった! 小さいけど、お肉!」
『狼に比べると小さく感じるわ。食べる所は少なそうだけど何もないよりはマシか。それを食べて空腹を紛らわしましょう』
ジエルが触手を器用に動かしてウサギを解体していると、またもや足音が聞こえた。ジエルが音のした方を見てみると暗がりの中に不思議な兎が立っていた。
「……槍? あの兎、槍を持っているよ」
どう不思議かというと兎にしては体が大きくて、サッカーボールサイズのジエルより遥かに大きい。人間の腰ほどの高さの身長がある。2本の足で真っ直ぐに立っていて手に槍を握っている。
その兎の背後にはジエルが仕留めたのと同じぐらいの大きさの兎が2匹いた。その兎も二足で立っている。槍を持っているウサギに比べると小さく見える。子ウサギなのだろうとジエルは判断した。
槍を握った兎が体を沈ませたかと思うと、跳躍してジエルに襲いかかってきた。
「わぁっ!?」
ジエルが驚きの声をあげた頃には兎の首から鮮血が噴出していた。槍と共に兎が地面に落ちる。兎の頬が揺れたと思うと動かなくなった。
槍を近くで見ると、ところどころ曲がった木の棒に石の刃という原始的な物だと分かる。
「少し驚いたけど大した事なかった。でも獣って道具を使うイメージではないんだけど」
『これはツキミウサギという二足歩行の兎よ。獣にしては知能が高くて原始的な武器を用いるのが少し厄介だけど1匹あたりの強さは狼に比べたら雑魚よ。大きめの肉の方から飛び込んできてラッキーだったわ。
……あら? さっきまでいた小さい2匹の兎がいないけど、食べる所が少ないだろうから逃がして構わないわ。十分な肉が手に入ったし、さっそく血抜きをした後に食べるわよ』
ジエルは兎肉を木の枝に刺すと焚火で焼き始めた。肉が焼きあがった頃には、ジエルと魔王は逃げた小さな兎の事など忘れていた。
翌日、川に沿ってジエルは歩いていた。具体的な目的地は無いがとりあえず上流に向かって進んでいるのだ。
『ジエル、気付けている?』
「うん、さっきから気配が近付いては離れていく。なんだろう?」
『どうせシラガオオカミあたりが復讐の機会を伺っているのでしょう。夜襲に対応できるのだから大した脅威ではないわ』
「ふふん、気配を察知できるようになった今のボクはもはや敵無しだよ」
謎の気配が少し気になったもののジエルはそのまま何も考えずに川を上流に向かって歩き続けた。
森が開け、草原の広がる地域に辿り着いた。草の茂る土地を川が流れてきている。木はところどころに点在する程度だ。
「広いところに出た。見晴らしが良い。これならお肉を見つけやすいよ」
『木が少ないぶん獲物を見つけやすいけど、それは此方も見つかりやすいって事よ。このまま川に沿って進んでみましょうか。水目当ての獣を見つけられるかもしれないし』
魔王に言われるがままにジエルは草原に流れる川に沿って歩き続けた。
ふと、足音が聞こえた。音のした方を見てみると前夜に見たのと同じく二足で直立している1匹の兎がジエルを見つめていた。ツキミウサギだ。手には昨夜と同じく原始的な槍が握られている。
「やった、またお肉」
ジエルはお肉の方からまたやってきたと喜び、近寄って触手刀で仕留めようと思った。
だが魔王は異変に気付いていた。
『待ちなさいジエル……数がいるわ』
魔王がそう言うと1匹の兎の背後から1匹、また1匹と兎が姿を現した。続々と兎は姿を見せ、最終的には30匹程の槍を持ったツキミウサギが現れた。
小規模で原始的だが武装した集団はもはや軍と呼べた。兎たちはジエルを威嚇しているのか槍同士を叩き合ったり草にぶつけて音を立てている。風はジエルのいる場所から兎たちに向かって吹いていた。
武装した兎の集団を見てもジエルは余裕そうな態度だ。
「少し多いけど大丈夫だよ、1匹あたりの強さは大した事ない」
『威嚇しているみたいだけどアレで此方がビビッて逃げると思っているのかしら? 最近満足に食べられていなかったから皆殺しにして肉をたくさんゲットするわよ』
「今晩は満腹!」
ジエルはカマキリのように触手刀を構えた。目に見えている兎たちを全部お肉に変えてやろうという意気込みだ。
兎たちは槍で草をはらって音を立てながら一斉に向かってきた。
『風切り音!?』
魔王が気が付いた時には1本の槍がジエルに突き刺さっていた。飛んできた方角は背後。他にも何本もの槍がジエルの周りに刺さっていた。
槍はスライムの中枢を包む殻を貫通できてはいない。だが突然の衝撃にジエルは動揺した。
「なに!? なにかぶつかった!?」
『後ろにも兎たちがいるわ!』
最初に見えていた兎たちと真逆の方向に同じように兎の集団がいるのをジエルは見た。背後の兎たちの数は20匹程。正面の集団と同じく槍を握っているが様子が違う。
兎は2列に分かれており、後列の兎たちは何本もの槍を抱えている。前列の兎はジエルの知らない道具を手に持っていた。魔王はその道具が何なのか知っていた。
『アトラトル!? そこまでの知能があったの兎のくせに!』
「あとらとる? なにそれ?」
『テコの原理を利用した投擲道具よ。小さな力でも大きな力に変えて槍を飛ばす事ができるの、また投げてくるわよ!』
後列の兎は抱えている槍の1本を前列に渡す。前列の兎はアトラトルに槍をセットすると一斉にジエルに向かって槍を投擲した。
ジエルは2本の触手刀を動かして飛んでくる槍を全て弾き落そうとする。だが捌き切れずに1本の槍が触手を突き破った。
「触手が!?」
『新しいのを生やすわ! 体に当たりそうな槍だけを弾きなさい! 何発もアレを受けるのは危険だわ!』
傷ついた触手を自ら切断すると断面から新しい触手が生え、先端が刃状になった。
先ほど飛んできた槍が中枢の殻にぶつかった時、ジエルは強い衝撃を感じていた。ひょっとしたら硬い殻にヒビが入ってしまったかもしれない。その攻撃を何発も食らうとどうなるか。ジエルは青ざめた。
ジエルは槍を投げてきている兎たちに向かって触手刀を構えた。
「こい! 全部叩き落してやる!」
『当たりそうな槍だけって言ったじゃないの馬鹿! って、後ろ!』
ジエルの後方から何本もの槍が飛んできて地面に突き刺さった。幸運にもジエルには当たらなかったが、突然の攻撃にジエルは驚愕する。
「また飛んできた!?」
『最初の兎たちも槍を投げてきたのよ! いつの間にかあいつらもアトラトルを持っている!』
最初に姿を見せていた30匹も前列と後列に分けて投擲攻撃の布陣をしていた。後列の兎が槍を何本も抱えて、前列のアトラトルを持つ兎に槍を渡している。ジエルが背後からの強襲に驚いている間に彼らも攻撃の準備を整えたのだ。
そのたくさんの槍とアトラトルはどこから持ってきたのか。ジエルが最初に見つけた時には持っていなかったはずだ。魔王は兎たちの狡猾さに気が付いた。
『油断した! 武器を草に隠していたんだわ! 私達が川に沿ってここまで来ると予測して罠を張っていたのよ! 草原に来るまでに感じていた気配の正体はこいつらだったんだ! 私達を観察していたのよ!』
「罠!? それって……」
スライム島にいた時に、魔王に教えられた通りにエビを獲るための罠を作った事をジエルは思い出した。罠には見事に何匹かのエビが入っていて、そのエビ達はジエルの胃の中に収まった。
前後からたくさんの槍がジエルに向かって飛来してきている。2つの兎の軍が交互に槍を投擲する布陣の構築に兎たちは成功していた。ジエルは頑張って弾こうとするが一部の槍はジエルに突き刺さってしまう。殻ではなく周辺の軟らかい部分に刺さったのだ。
エビのようにはなりたくない。ジエルは兎のいない方向へ走り始めた。
『森へ逃げなさい! 一旦退くわよ!』
魔王はジエルの逃走を認め、森へ逃げるように指示をする。障害物の多い森の中でなら投げ槍の効果が薄れると判断したのだ。
ジエルは兎の軍を迂回して森へ向かって走るが、足が短いため地面の起伏で減速してしまう。兎たちは2列構造を維持したままジエルを追って向きを変えていく。アトラトルによって放たれたたくさんの槍が容赦なくジエルに降り注いでいる。
「このままじゃ逃げきれない! 飛んで逃げる!」
そう判断したジエルは足を曲げて体に力を入れる。ジャンプを繰り返す事で森の中へ退避しようと考えたのだ。ジエルはボールが跳ねたように飛び上がった。
ジエルが1回目の跳躍を終え地面に着地した時、1本の槍がジエルに突き刺さった。殻は貫通しなかったし、兎は狙って当てたのではない。たまたまジエルの着地点に槍が飛んでいっただけだ。
だがジエルはそうは思わなかった。
――狙われた。
「ひいいいいい!」
ジャンプするとまた着地を狙われる。そう考えてしまったジエルは跳躍できなくなった。
『今のは偶然よ! ジャンプを繰り返して森へ逃げなさい!』
魔王は偶然である事に気が付いていたがジエルは狙っての攻撃だと信じてしまっていた。気が付くとジエルは兎たちの罠の中にいたのだ。ジャンプするとまた罠に嵌められる。ジエルはその考えから抜け出せない。
初めて遭遇する連携した集団の攻撃を受けてジエルはパニック状態になっていた。
『ジャンプしろってのが聞こえないの!? 飛べ! 何やっているのこのグズ! あなたの好きなバッタみたいに飛びなさいったら!』
魔王は霊体となってジエルの前に姿を現して怒鳴る。ジエルは短い足を懸命に動かして走る。魔王が何度もジャンプしろと怒ってもジエルは地面を走り続けた。頭が真っ白になっているジエルに魔王の声は届いていない。
ちょっとした段差でも減速してしまうジエルに兎たちは槍の雨を放ち続ける。兎たちは魔王が霊体となっている状態でも動ぜず攻撃を続けている。魔王が見えていないのだ。
何本もの槍がスライムの中枢を包む殻に当たり、その事が更にジエルをパニック状態にさせる。
走っても走っても飛んでくる槍にジエルは恐怖を感じた。恐怖は恐怖の記憶を蘇らせ、スライム島に勇者達が上陸してスライムを皆殺しにした時の感情がジエルの脳裏に浮かび上がった。
――このままだと殺される。もっと速く走らなくては。
短い足では逃げきれないと本能がジエルに訴えかける。大きな石があった場合に逃げ足の速度が落ちてしまう。もっと長い足でなければ駄目だ。
走っている時に体の軸がブレてしまうのも問題だ。触手では体重移動のバランスを制御し切れない。触手に代わるバランスを取るための部位が必要だ。このままでは速く走れない。体の形を変えなえればならない。
――そう、人間のように。
ジエルの体が変形していく。そのための能力は既に備わっていた。触手を生やす時に魔王が使用している増量変形だ。理想とする形は分かる。その形に変えるための方法もある。
『ジエル!? あなた……!?』
ジエルは人型となって走っていた。