ヘンピ島の春
春を迎えたヘンピ島の朝。釣り竿を抱えたジエルとシルバーが、揃って海沿いの道を歩いている。
舞っている桜の花びらの1枚がジエルの鼻先に落ち、息で吹き飛ばしたジエルを見てシルバーは微笑んだ。ジエルは桜の木を見上げる。
「かわいい木、大きな花みたい」
「桜というんだ、春に花を咲かすんだよ」
教えてくれたシルバーに対して、ジエルは拗ねたような顔を向ける。
「この木が春に花を咲かす事ぐらい知っているよ、ボクが何も知らないと思っていない?」
「初めて見たような感想だったから知らないと思ってしまったよ」
ジエルの故郷であるスライム島にも桜の木はあって、スライムの姿の時のジエルは何度も見た事があるが、人型になってからは初めて見る桜の花だ。ジエルは魔王に憑依される前の、知性の低い頃の記憶はおぼろげだが、ぼんやりとは思い出せた。
桜の花びらの舞う中で、たくさんのスライムに囲まれているイメージがジエルの頭に浮かぶ。ジエルは幸せな気分になったが、桜の花びらが真っ赤に変わると勇者が大勢のスライムを殺している血みどろのイメージに変わった。
同時に激しい怒りがジエルの中で沸き上がる。故郷のスライム達を皆殺しにした勇者への憎悪は、ジエルの中に深く刻まれていた。
「すまない、ジエルの逆鱗に触れてしまったみたいだ」
シルバーの声でジエルの感情は引き戻された。ジエルは自分が怒りの表情になっていた事に気が付く。
「シルバーに怒ったわけではない。ちょっとムカつく事を思い出しただけ、気にしないで」
ジエルはシルバーに気にするなと言ったが、勇者への恨みから険しい顔のままだ。シルバーは不愉快な事を思い出している様子のジエルの横顔を見る。
「この島から少し北に行ったところに、桜の木がたくさん生えている無人島があるんだ」
「へぇー、それは綺麗そう」
「行ってみないか、ジエル」
微笑みながら聞いてきたシルバーを見て、ジエルが微笑みながら頷くと、シルバーは嬉しそうに頬を染めた。船旅をするには海賊が邪魔だとジエルは思う。
「そのためには海賊を1匹残らず殺さないと。ボク、頑張るよ」
おどけたように拳を突き出したジエルを、シルバーは心配そうな顔で見た。シルバーの表情にジエルは気が付く。
「心配しなくても大丈夫だって。ボクは強いから、シルバーが危険な目に遭わないように守ってあげられるからさ」
「その台詞はできれば私がジエルに言いたかったな……海賊がいなくなったら一緒にその島まで花見をしに行こう」
全ての海賊を倒し終える頃には春が終わり、今年の桜の花は散っていそうだという事をシルバーは口にしなかった。
2人がいつも一緒に釣りをしている場所に到着し、釣り糸を垂らそうとした時に、1人の島民が慌てた様子で2人の元へ駆け寄ってくる。
「大変ですシルバーさん! 今すぐ戻って下さい!」
島民の表情からただ事ではないとシルバーは感じる。
「何事ですか?」
島民は全力で走ってきたのか息切れをしているが、呼吸を整える時間さえ惜しいという様子だ。
「海賊が攻めてきやがったんです! それも10隻以上の船で!」
海賊の襲来を教えられたシルバーは顔を強張らせると、意を決したように無言で頷く。
「わかった、今すぐ屋敷へ戻る。ジエルも私と一緒に来てくれ」
ジエルはシルバーの後に続いて島長の屋敷まで走った。平穏な釣りの時間を邪魔された事でジエルは海賊に対して怒りを感じる。
『海賊どもめ、ボクが殺しにいくまで無人島で震えて待っていれば良いものを。この島に足を踏み入れた海賊は皆殺しにしてやるんだから』
ワイプの中の魔王は海賊との戦闘における注意点を確認させる。
『両手銃を持っているかもしれないから注意しなさい。今のあなたでは両手銃の弾丸を頭に受けると兜を貫通して、下手したら中枢を包む殻も砕かれて、中枢を破壊されて死ぬわよ』
『わかってる、銃が出てきたら全力でかわすよ』
シルバーとジエルが島長の屋敷の前に到着すると、武器を持った数人の男が屋敷の玄関を守っていた。屋敷の中から緊張した様子のブルーが顔を出す。
「兄上、どうしよう! 海賊が攻めてきてしまった!」
「落ち着け、父上はどうしている?」
シルバーの力強い声にブルーは冷静さを少し取り戻す。
「父上は村の男達を集めて海賊を迎撃するために港へ向かった。兄上は屋敷に残っていて欲しいと父上は言っていた」
「皆が海賊と戦うのに私だけ何もしないわけにはいかない! 私も港へと向かう!」
武器を持って港へ駆け出しそうな態度を見せたシルバーを、薙刀を持っている使用人女性が呼び止める。
「待って下さい、シルバーさんまで屋敷からいなくなると、更なる非常事態が起きた時に誰が指揮をとるのですか? 旦那様の指示に従うべきです」
ブルーもそうするべきだという顔をした。シルバーは拳を握り締めると渋々納得する。
「……わかった、私はここに残ろう。海賊は港へ襲いかかって来ているという事か?」
島民達はその通りだと返事をする。船を接岸しやすい港の方が攻め込みやすいのだろうとシルバーは考えた。
ブルーはシルバーが納得してくれたのが分かると、次はジエルに目を向ける。
「ジエルさんも屋敷に残って兄上を守って欲しいと、父上とアーサーさんが言っていた」
「ボクもここにいろと? 嫌だよ、ボクは海賊と戦うよ」
港へ向かおうとしたジエルの手を、シルバーが掴む。
「ジエルもここに残ってくれ、父上の指示を乱したら余計な混乱を生みかねない」
ジエルは不愉快そうな目でシルバーを見る。シルバーはジエルと手を繋いでいる事を自覚すると頬を染めるが、手は離さない。
「わかってくれるまで離さない」
「ボクがその気になったら、きみの手ぐらい簡単に振りほどけるんだよ」
「その時はジエルの体にしがみ付く。今、ジエルに港に行ってもらうわけにはいかない」
ジエルはシルバーを睨みつけると強引に手を振りほどく。周りにいる島民達は動揺したが、ジエルは港に向かって走り出さない。
「……鎧を着てくる、万がイチがあるかもしれないから」
屋敷の中へと入っていったジエルを、シルバーは見送った。
ジエルに貸されている客間の一室にて、ジエルは青い全身鎧を身に着ける作業を続けている。ジエルは面倒そうに鎧のパーツを持ちながら念話で愚痴る。
『能力を使えれば、いちいち着なくて済むのに』
『鎧を着終わったらどうするつもり? 屋敷を抜け出して港へ行く気はないのかしら?』
『行かない、屋敷に戻ってシルバーを守る』
『人間なんかの言う事を聞くつもりなの? 海賊退治に強引に参加すれば生命力を吸収する事ができるというのに』
ジエルは兜を持ち上げる。
『生命力は欲しいけど、勝手に行ったらシルバーが困るから行かない』
大人しく島長の指示に従うジエルに、魔王は溜め息を吐く。
『すっかり島長の小僧に夢中になっちゃって、あなたは魔族なのよ? まさかシルバーに抱かれたいと思っているわけ? この変態』
『抱かれ? 港に行こうとしていたらシルバーに抱きしめられていただろうけど?』
青い全身鎧を身に着け、腰に巻いたベルトに2本の短剣を差したジエルが屋敷の表に出ると、シルバーが島民からの報告を聞いている所だった。
「海賊の数は500程か……」
攻めてきている海賊の数の多さに顔を青ざめたシルバーを見て、伝令役の島民は慰めるように説明を続ける。
「アーサーさんが先頭に立って戦い、島長が皆の指揮をとっている事で戦いは俺達の優勢です! このまま勝てますよ、心配いりません! 俺達の島は絶対に守ってみせます!」
シルバーより年上の伝令役の島民が、敬語でシルバーを元気づけようとしている姿を見て、シルバーはぎこちない微笑みを島民に向けてあげる。
「そうだな、皆を信じよう」
屋敷の前にいるシルバーと島民達が、港で戦っている仲間を信じようと決意した時、1人の島民が駆け寄ってきた。
ブルーは短い悲鳴をあげる、その島民が血だらけだったからだ。血まみれの島民は遠くに見えたシルバー達に向かって叫ぶ。
「大変です! 島の裏手からも少数の海賊が攻めてきていて……!」
そこまで言って、駆け寄って来ていた島民は倒れた。
屋敷の前の島民達は謎の音の直後に島民が倒れたと思ったが、火薬が爆発する音から島民は銃に撃たれたのだとジエルには分かった。
銃で撃たれて倒れた島民は体から血を流して動かない。5丁の両手銃を持った5人の海賊が近付いて来ていた。ジエルは困惑しているシルバー達を怒鳴る。
「銃だ! 隠れろ!」
伝令として来ていた島民は、港での戦闘で銃を知っていたのか一足早く屋敷の中に駆け込み、他の島民達も続いて島長の屋敷の中へと入っていく。ブルーが屋敷の中に入り、シルバーも入ろうとした時に、海賊の1人がシルバーに銃口を向けた事にジエルは気が付く。
海賊の銃が放たれ、シルバーを庇ったジエルの胸に銃弾が命中して倒れた。ジエルの鎧の胸部分から血が溢れ出ているのを見たシルバーが叫ぶ。
「ジエル!?」
銃弾は鎧の背中を貫通せず、背後のシルバーが無事である事が分かると、ジエルは安心してシルバーを屋敷の入口近くへと突き飛ばし、自分は海賊の銃口を避けるために屋敷の門の影に飛び込んだ。
「シルバーを中へ!」
ジエルに促された島民達はシルバーを屋敷の中へと引きずり込む。シルバーと島民達は、胸から血が流れているのに平然としているジエルを見て困惑していた。魔王はジエルを怒鳴る。
『何やっているのよ馬鹿! 胸から血が流れていて元気な人間がどこにいるのよ、魔族だとバレてしまうじゃない!』
『ごめんなさい……体が勝手に動いてしまったんだ』
ジエルの鎧の胸部分から流れる血に、シルバーの目は釘付けになっている。
「ジエル、胸から血が!?」
魔王はジエルの能力を発動して偽の血管を塞いで出血量を減らす。
「……見た目ほど大した傷ではないよ、ほら、もう血は少ししか流れていないでしょ?」
「確かに流れる血は少しになっているが……怪我をしたのならジエルも中に入るんだ! 早く!」
シルバーはジエルも屋敷の中へ入るよう誘うが、ジエルは首を横に振ると、屋敷の近くにいる5人の海賊を睨む。銃を放った海賊は不思議そうな顔をする。
「おっかしーなー、当たったはずで、血も流れたのに生きているぞー? わかった、血のりなんだ! 気付くとはさすがは俺、頭イイ!」
白髪の老人の海賊はふざけた態度の海賊に厳しい目を向ける。
「勝手に撃つな、今のが島長の一族だったらどうするつもりだったんだ。2人は屋敷の裏へ回って、連中が逃げないように見張っておけ。逃げようとする奴を殺す事だけを考えて余計な事はするな、その隙に逃げられたら元も子もないからな」
白髪の海賊に言われた通り、2人の海賊は屋敷の裏へと走っていった。海賊の動きを窓から見ていた島民達は、屋敷が囲まれたと知って動揺する。
先ほど銃を放った海賊は反省する態度を見せない。
「今のは島長の子供のシルバーというイケ好かないガキですよ。でも殺しても大丈夫です、島長にはブルーという娘もいますから。どうせ人質に取るなら楽しめる女の方が良いでしょう? 俺、ブルーを玩具にしたいとずっと思っていたんですよ」
海賊の1人がその提案に賛成する。
「さっきの紺色の髪の可愛い女の子か? そりゃあ良い、賛成だ! 偉い奴の娘を好きに出来るって、海賊って最高だぜ!」
白髪の老人の海賊は、汚らしい顔で笑い合う両隣の海賊を見て溜め息を吐く。
「俺も堕ちたものだ……島長の一族を人質に取ってアーサーの動きを封じられるのなら、島長の娘に何をしようと構わないがな」
「さすがです船長! 話がわかるぅー!」
海賊船長の許可を得た海賊2人は下品は笑い声をあげた。屋敷の窓から外の様子をうかがっている島民が、1人の海賊の声に聞き覚えがある事に気が付く。
「おい! お前まさか、少し前に船を盗んで島から姿を消した奴か!?」
島民の声に海賊は汚らしい笑い声をあげる。
「そうだよー、気付いてくれましたかー!? 俺は次男坊というだけで船と漁場を兄貴に奪われた被害者だよー! こうして故郷に復讐しにきましたー!」
島民達は激怒する。
「ふざけるな! 誰が被害者だ、お前が真面目に働いていなかったから独立できなかっただけだろうが!」
「お前が海賊どもをここまで案内したんだな!? クズだクズだとは思っていたが、ここまでクズだとは思わなかったぜ!」
シルバーの顔も怒りに満ちている。
「船を盗み、海賊になって人々を苦しめただけではなく、私の妹にまで危害を加えようとするとは。絶対に許さんぞヘンピ島の汚点め」
元島民の海賊は銃を手にわなわなと震える。
「うるせー! 俺は悪くない! 世間が悪いんだ! 俺は被害者なんだー!」
半狂乱になった元島民の海賊の放った銃弾により、門の一部が弾けた。銃の威力を見た元島民の海賊は自慢げにほくそ笑む。
「どうだ見たか銃の威力は! これさえあれば俺は無敵だ! 銃を手に、俺は自由な海賊生活を楽しむんだ!」
銃は単発式であり、弾丸を内部に入れるための頑丈なフタが付いている。弾丸には火薬が接合されており、刺激を与える事で火薬が爆発して銃弾が発射される仕組みだ。
元島民の海賊が銃のフタを開けて空の薬莢を捨てて、新しい弾丸を入れようとした時に、1本の短剣が元島民の海賊の腹に向かって飛んできた。ジエルが隙を突いて投げたのだ。
銃声が響くと砕けた短剣が地面に転がる。ジエルは自分が投げた短剣が、海賊船長に銃で撃ち落とされたのだと知って驚く。
『投げた短剣を銃で撃ち落とした!? そんな事ができるの!?』
海賊の1人が銃口を向けたのに気付いたジエルが身を屈めると、銃声と同時にジエルの頭上の門の一部が弾ける。海賊船長は素早い手つきで僅か2秒程で次の弾丸を銃に込め終えた。
人間離れした反応と手つきから、魔王は海賊船長が普通の人間ではない事に気が付く。
『あの白髪のジジイ、超常者よ!』
遅れながら助けられた事に気が付いた元島民の海賊は汚い笑い声をあげる。
「ひゃははははっ! ありがとうございます船長!」
白髪の海賊船長は作り笑いさえしない。海賊船長もまた、ジエルが超常者である事に気が付いたのだ。海賊船長は海賊2人に指示を出す。
「あの青い鎧はおそらく超常者だ、気を引き締めろ。俺は門の正面から青い鎧を狙う。お前らも俺の両隣から青い鎧を狙え。3方向からならば、遮蔽物のない角度から撃てるはずだ」
「わかりました船長! あの青い鎧をぶっ殺してやる!」
「早いとこブルーを人質にして、アーサーへの対抗札にして、俺の欲望も晴らさせてもらうぜぇー!」
海の汚物という表現では下劣さを表現しきれない海賊の発言に、ジエルは苛立って残る1本の短剣に手を伸ばすが、魔王が呼び止める。
『また短剣を投げるつもり? 止めておきなさい。またジジイに撃ち落とされて 、その隙を別の海賊に撃たれるわよ。あなたは両手銃の弾丸を頭に受けると致命傷になるはず、迂闊な行動はしないで』
『じゃあどう攻めれば良いの?』
『超常者への対抗策の1つである銃を、超常者が持ってしまっているのが厄介だわ。門は分厚い木製だから銃弾は貫通しないけど、信頼はできない。私としては、いったん屋敷の門から離れて体勢を立て直したいけど、大人しく言う事を聞いてくれるのかしら?』
『嫌だ、ボクがここを離れたら海賊達がシルバー達のいる家の中に入ってしまう。裏に海賊が回り込んでいるからシルバー達は逃げられない。ボクがこの門から動かずに、海賊を迎え撃つしかないんだ』
ジエルは自分が屋敷の門から離れると、海賊達が屋敷の中に入り込んでシルバー達に危害を加えると判断していた。ジエルは動かないつもりだと分かった魔王は溜め息を吐く。
『限界まではここで戦う事を許す。私が逃げろと言ったら逃げるのよ、わかった?』
『わかった、それでどう戦う?』
『銃には銃よ、胸を使いなさい』
ジエルは屋敷の窓から様子をうかがっている島民達からは見えない角度で、鎧の胸部分に右手で触れる。触れている部分だけがスライムの軟体となって右手が体内に入っていき、胸の中から片手銃と3個の弾丸を取り出すと、硬質化して鎧の穴を塞いだ。
以前、シルバーを救出するために殺した海賊が持っていた銃を拾って、スライムの特性を生かして文字通り胸の中に埋め込んで隠していたのだ。どの海賊を狙うべきか魔王が指示を出す。
『片手銃では超常者の肌に通用しない可能性がある。雑魚2匹を先に殺しなさい、向こうから射線に入ってくるはずだわ』
ジエルはぎこちない手つきで単発式の片手銃に弾丸を込めると、門の影に隠れてチャンスを待つ。魔王の予想した通りに、海賊の1人が隠れているジエルを撃つために、互いの射線に入ってくる。
「ぎゃあっ!?」
銃声の後、元島民の海賊は銃を落として腹を押さえてうずくまった。ジエルの撃った銃弾が命中したのだ。
「いてぇ、チクショウ……助けて船長ぉ……痛いよぉ……」
海賊船長は銃口を門に向けたまま撃たれた海賊に近付く。海賊船長が手を差し伸ばしてきたのを見て、撃たれた海賊は安心したような顔をする。海賊船長は片手で転がっている両手銃を拾い上げると、うずくまっている海賊に銃口を向ける。
「お前はもう助からん、楽にしてやる」
「待っ……」
銃声が響くと、負傷していた元島民の海賊は地面に転がり動かなくなった。残る配下海賊は引きつった笑みを浮かべる。
「両手銃を片手で撃てるとは、さすがは超常者だぜ」
海賊船長は両手銃の1つを地面に捨てた。配下海賊は疑問に思う。
「その銃、使わないんですか?」
「両手が塞がると弾丸の装填に手間取る事になる。両手銃は両手で持つようには出来ていない」
海賊船長は冗談を言ったつもりだが、配下海賊は愛想笑いさえしない。海賊船長は自ら鼻で笑った。
門の影に隠れているジエルは2発目の弾丸の装填を終えて、次のチャンスを待っていた。海賊がジエルを撃とうとすると互いの射線が合って、シエルも海賊を撃てる状況になる。どちらがより早く相手を撃てるかの勝負だ。
警戒しているジエルの視界に人影が飛び込んできた。ジエルは反射的に銃を向けるが、魔王は飛び込んできた人影が、白髪の老人の海賊船長である事に気が付く。
『雑魚の方ではない!』
ジエルは片手銃を持っている右手に衝撃を感じ、銃声が聞こえたと同時に自分の右手の一部が銃と共に破壊された事を知ると、左手で短剣を抜いて海賊船長に投げつける。
既に下がり始めていた海賊船長は身をよじって短剣をかわし、後方にジャンプしてジエルと距離を取ると、避けた動作の直後に装填を終えていた弾丸をジエル目がけて放つ。
弾丸が発射される直前、ジエルはとっさに両腕で頭をガードした。ジエルの頭に向かって放たれた銃弾は、頭を庇った腕に当たって血が噴き出る。ジエルは銃弾が頭に命中すると自分は死ぬのだと強く恐怖した。
ジエルの能力は魔王にしか発動できず、ジエルは能力をどのように使いたいかという意思を、念話すら省いて直接魔王に伝える事ができる。
撃たれた直後、ジエルは増量変形により腕を伸ばして海賊船長を殴り飛ばしたいという意思を魔王に送るが、魔王は能力を発動してくれない。
『どうして能力を発動してくれないの!』
ジエルは銃口から逃れたい恐怖で屋敷の側面へと逃げ込んだ。警戒した海賊は追撃はして来ない。
『落ち着きなさい。ここで能力を使うと島民に魔族だとバレて、アーサーに殺されてしまうという事は分かっているでしょう? あなたは動揺していて能力は制限された状況で、相手は一撃であなたを殺せる両手銃を持った超常者と雑魚の2人。残る武器は片手銃の弾丸1個だけで銃本体は無し』
魔王はある判断を下す。
『ここが限界、このまま屋敷の裏へ回って逃げなさい。裏には銃を持った海賊が2人いるでしょうけど、超常者でなければ切り抜けられるはずよ。そして海岸で船を調達して島から離れる。魔族だとバレていなければ、アーサーはわざわざ追っては来ないでしょうから』
逃げるという判断を魔王は下したが、ジエルはへたれ込んだまま動かない。
『ぼさぼさしていないで早く逃げなさい。このままだと海賊に頭を撃たれて殺される』
『……嫌だ、ここでボクが逃げたら、シルバー達が海賊に酷い目に遭わされてしまう』
逃げようとしないジエルに、ワイプの中の魔王は厳しい目を向ける。
『人間と魔族は絶対に分かり合えないと教えたはず。そしてあなたは無意識のうちにその事を理解している。だからこそ門の前からここまで逃げたのでしょう? 命がけで門を守っても、人間には受け入れられないと分かっていたから』
『違う! つい怖くなって逃げてきちゃっただけ!』
『いいえ違わない、あなたの行動は正解。このまま屋敷の裏へ回って逃げるのが最善の行動なのよ。今、あなたは正解の選択肢を掴みかけている。このまま正解を選びなさい』
ジエルは壊されたままの右手と腕から流れる血を見て、銃弾の恐怖を思い出す。今ここで逃げれば、あの恐怖から逃れられると考える。魔王はこのまま逃げるのが正しい行動だと後押ししてくれている。ジエルの心が逃げたいという感情に傾く。
「逃げてくれ! ジエル!」
声がした方をジエルが見ると、屋敷の窓からシルバーが顔を出していた。ジエルの欠損した右手と腕の怪我を見て、シルバーは悔しそうな顔をする。
「後は私達で何とかするからジエルは逃げてくれ! 裏にも海賊がいるけどジエルなら逃げられるはずだ!」
逃げろと促すシルバーに、ジエルは反論をする。
「何を言っているの!? 弱いシルバーが海賊と戦えるわけないよ!」
「シルバーさん危ない! 顔を出さないで!」
慌てた島民はシルバーを部屋の奥へと引っ張り込もうとするが、シルバーは窓辺にしがみ付いて動こうとしない。
「確かに私はジエルより弱い! でも私だって戦いたいんだ!」
シルバーの言葉を魔王は無表情で聞く。
『シルバーもこう言ってくれている。あなたが逃げるのを望んでいるのよ。シルバーのためを思うなら、今すぐここから逃げなさい』
『……シルバーと初めて会った島で、シルバーはいつ海賊に襲われるか分からない状況で、ボクが船に戻って来るのを待っていてくれた。それなのに、ボクにシルバーを見捨てて逃げろと言うの?』
『まだ状況が見えていないの? 能力を制限された今のあなたでは銃を持った超常者には勝てない。逃げるしかないのよ』
ジエルは破損している自分の右手を見る。ジエルの能力を使いたいという意思が魔王に伝わる。
『能力を使えれば、勝機があるはずだ』
『何を馬鹿な事を言っているのよ。能力を使えば魔族だとバレて、アーサーに殺されるという事を忘れてしまったの?』
近くの窓から島民が顔を出してジエルの様子を見ていた。
『忘れていない。ボクではアーサーには確実に勝てなくて、殺されてしまうという事も分かっている』
『ならとっとと逃げなさいよ! このままだと死ぬのよ!?』
『ここで逃げたらボクは死んだのと同じだ! ボクは絶対に逃げない!』
ジエルは立ち上がる。
『関節を硬質化で固めたかったら、そうすれば良い。海賊に撃たれやすくなって、死ぬだけだ』
ジエルとシルバーの耳に、屋敷の庭に敷かれた砂利が誰かに踏まれる音が聞こえてきた。シルバーは海賊の足音だと判断する。
「海賊がやって来た! 早く逃げるんだジエル!」
ジエルに逃げろと頼むシルバーの言葉が途切れる。ジエルの右手の欠損している部分が見る見るうちに生えてきて、鎧の右手部分も修復され元通りになるという不思議な光景に、目を奪われたのだ。
ジエルは元通りになった右手を見て嬉しそうに笑顔になるが、ワイプの中の魔王は呆れたような顔をしている。
『自殺願望のある馬鹿に憑依してしまったなんて、私もツイていないわ』
『ありがとう、魔王様』
魔王は霊体となってジエルの外へ出る。
『霊体を見る事ができる人間がいるかもしれないけど、この状況で出し惜しみをするのは無駄でしょう』
屋敷の正面へ浮かんで飛んでいった魔王は、配下海賊と海賊船長が辺りを警戒しながら、ジエルの元へ向かってきているのを見た。海賊2人の様子から、魔王は自分の姿は見えていないのだと判断する。
『雑魚を先頭にして向かって来ている、利用できそう』
魔王は悪いイタズラを思いついたような笑みを浮かべた。
配下海賊と海賊船長の2人は両手銃を構えて、ジエルの逃げ込んだ屋敷の側面へ向かって歩いている。
「船長、このまま家の側面に回り込んだら、中にいる島長一族に逃げられてしまいませんか?」
「側面と正面の中間の、敷地の角の地点から先へは進まない。角の地点からならば、側面と正面の両方の動きに対応できる。まずは青い鎧の超常者を殺す。島長の一族を人質に取ろうにも、奴が生きたままではやり辛いからな」
「俺ら2人だけでですか? 裏に回した2人も呼び寄せましょうよ」
「その隙に島長の一族に裏から逃げられたら本末転倒だろうが。俺がお前を守ってやるから、このまま敷地の角の地点へ向かって進め」
配下海賊は自分が先頭である事に不安を感じていたが、命令に逆らうと海賊船長に何をされるか分かったものではないので渋々従う。
配下海賊がもうすぐ敷地の角の地点に辿り着こうとした時、突然青い剣を持っている青い全身鎧が飛び込んできた。鎧が地面に着地するより前に、海賊船長の放った銃弾が鎧の頭の部分に命中する。
銃弾が当たった青い兜が弾け飛ぶのを海賊船長は見たが、弾け飛び過ぎである事に気が付く。驚いた配下海賊も、地面に倒れ込んだ青い鎧に銃弾を撃ち込んだ。
『並の人間ならば鎧が地面に落ちた時の動作で、空の鎧である事に気付けたかもしれない。でもあなたは超常者で反応が良いから、地面に落ちる前に撃ってしまった。前を歩かせている雑魚海賊がジエルに攻撃され殺される前に、ジエルを撃ち殺さなければと思って、偽のジエルを撃ってしまった』
島長の屋敷の屋根の一部が、強い圧力が加わった事で壊れる。
『あなたは超常者だから僅かな時間で次の弾丸を装填する事ができるけど、短時間でも時間自体は掛かってしまう。次にジエルの姿を見たあなたは何故? と一瞬思って、短時間に更に短時間が加わる。僅かな時間の違いだけど、超常者同士の戦いでは僅かな時間が命取りになる』
海賊船長は何かが屋敷の屋根を飛び越えて、自分の頭上にやって来た事に気が付く。飛んで来たそれを見た時に、海賊船長の思考は一瞬固まる。両腕が鞭のように伸びている人間の姿に、一瞬疑問を持ってしまった。
海賊船長はそれが敵だと判断して、次の弾丸を銃に込める動作を始める。
しかしもう遅かった。ジエルの片手の触手は屋敷の屋根を掴んで飛び上がるために使ったが、もう片方の触手は自由なままで、既に刃の付いた触手刀になっていた。鎧を脱ぎ宙を舞っているジエルの背中を、揺らめく青い髪を、海賊船長は不覚にも美しいと感じる。
触手刀は海賊船長の首筋を切り裂き、鮮血が飛び散った。