ー天上の章12- 副将軍
エレナはなかなか泣きやまない。顔を涙でくしゃくしゃにし、必死に信盛にしがみつく。ただ、信盛は、よしよしとエレナを抱きしめる。
「エレナは幸せなのデス。このまま、死んでしまってもいいのデス」
「それは困るぞ、エレナ。お前には生きてもらわなければ、俺が悲しくなる」
「エレナがおばあちゃんになっても、信盛サマは愛してくれマスカ?」
「ああ、いっしょにしわくちゃな、じじいとおばあちゃんになろう」
「信盛サマ。約束ですよ。エレナを一人にしないでください」
「ははっ。そのために子供を作るんだろ。エレナが寂しくないようにたくさん、子供を作ろうな」
信盛は今年で42歳である。対して、エレナは18だ。親子と言ってもわからないほどの年齢差が、エレナとはある。きっと、エレナとは死に別れとなるだろう。それに信盛は武将だ。この先、戦で命を落とすかもしれない。
「信盛サマ。エレナのことを好きと言ってクダサイ」
「エレナ。好きだ。俺はエレナのことが好きだ」
エレナは、そっと目を閉じる。唇を突き出し、信盛の反応を待つ。
信盛は優しく、その唇に接吻をする。はらはらとはらはらと、エレナは涙を流す。それは悲しみの涙ではなく、幸せな涙であった。
「落ち着いたか、エレナ」
「信盛サマは、すけこましなのデス。18の女の子をかどかわす、悪人なのデス」
エレナは、泣きやんだが、信盛にしがみつくのはやめない。信盛の胸に顔をうずめたまま、言葉をつなぐ。
「信盛サマの奥方サマは、どういう方なのですか」
「んん。小春のことか。小春はいい女だ。だらしない俺を叱責はするが、俺を支えてくれている」
「信盛サマは小春サマのことを愛しているのデスネ」
「ああ、小春は、俺にとって大事な女だ。いつも、俺を立派な武士であるよう、気をつかわせている」
「ワタシ、小春サマとうまくやっていけるデショウカ」
「ああ、心配するな。どっちも俺の大切な嫁だ。仲良くできるよう、俺が尽力する」
「もし、ワタシと小春サマが喧嘩したら、信盛サマはどちらの味方になってくれマスカ?」
「ううん?ああ、ええと、そのお」
信盛は困った顔になる。エレナは、信盛の顔を見ずとも、その困り顔が想像できて、おかしくなってしまう。
「冗談デス。ワタシは信盛サマが困ってしまうようなことはいたしまセン」
1部始終を観察していた、信盛の家臣は、やれやれと思いながら、机にたまった書類整理を開始するのであった。
信盛が堺に着いてから、早6日が経とうとしていた。明日からは、いよいよ、将軍・足利義昭の戴冠式ならび、宴が始まる。主な荷は運び終え、いよいよ、信盛達一向も京に向け、進発しようとしていた。
「信盛さま、いってらっしゃいだぎゃ」
「松井、お前は、こないのか?」
松井友閑は、堺でまだ仕事があると居残りを申し出ていた。
「なあに、宴は1日2日で終わるわけではないのだぎゃ。信盛さまは先に楽しんでくれるといいのだぎゃ」
「なんか悪いな、いろいろと手を焼かせちまって。お前が宴にきたら、何かおごってやらなきゃいけないな」
「それなら、京のうまい清酒が飲みたいのだぎゃ。それもとびきりいいやつを頼むのだぎゃ」
尾張、岐阜地方では、濁り酒が一般的だが、ここ畿内では清酒がもてはやされている。濁り酒は美味いのだが、清酒はまた別格の美味さである。好みは人それぞれといったところか。
「それじゃ、宴の最中にでも見繕っておくぜ。じゃあ、行ってくるわ」
信盛一行は、松井友閑に手を振り、京への旅路を行く。信盛の傍らには、ろしあ女のエレナが付き添うように歩いている。そんな2人を松井友閑は眺めながら
「一緒に京へ上った日にゃ、信盛さまの奥方さまに何を言われるか、わかったものじゃないのだぎゃ。君子、危うきに近寄らずなのだぎゃ」
松井友閑は、一人、呟く。さてと
「まあ、仕事が残っているのも本当なのだぎゃ。信長さまへの2万貫。きっちり納めてもらうのだぎゃ」
足利義昭の将軍への戴冠式は、つつがなく行われている。高位の貴族であろうものが、直垂を着て、ひざまづく義昭の頭に烏帽子を被せる。烏帽子を被らされた義昭は正座のまま、深々と頭を下げる。
高位の貴族は詔を告げる。
「源氏の血を引きし、足利家の義昭に征夷大将軍の位を帝に代わり、その方に授ける。帝に忠誠を尽くすことを誓いたまえ」
「足利義昭は、帝に忠誠を誓うでおじゃる」
義昭は頭を上げ、まっすぐと前を見る。その姿や、よしとばかりに高位の貴族は奥に下がっていく。
以上の儀式をもって、将軍・足利義昭が誕生した。帝といえども、今やこの国最高の権威としか存在は許されず、実質的に、将軍がこの国の政治を牛耳ることとなる。権威だけとしての天皇は、現代のはるか昔から確立されていたのだ。
義昭は晴れやかな顔をしている。
「ほっほっほ。惟政よ。まろの姿をしっかりと見ていてくれたでおじゃるか?」
「ははあ!義昭さまこそ、この国を治めるにふさわしいお方と、私の目には映っておりました」
和田惟政一派は、およよおよよとばかりに涙を流す。しかし、足利家の武断派たちはさめたおもつきである。その武断派の代表である細川藤孝が、義昭に言祝ぎを送る。
「義昭さま。念願、叶いおめでとうございます。これからは、そのご身分にふさわしい立ち振る舞いをお願いいたします」
「わかっておるのじゃ。そなたは、このめでたき日にも口うるさいのでおじゃるな。まろが将軍になった以上、この国から戦はなくなるのでおじゃる」
果たしてそうであろうか。この実行力もない、いや、実行力を封じられた将軍に、この世を平和に導くことができようか。いや、そのようなことはできない。細川藤孝の心はすでに、義昭のもとから離れている。思うことはただ哀れなお方だといったところだ。
「惟政。平服をもってくるのでおじゃる。直垂は肩がこるのじゃ。それに暑い。戴冠式のためとはいえ、なぜ、こんな暑苦しい恰好をせねばならぬでおじゃるか」
「ですが、この後は宴が行われます。将軍さまが簡素な恰好をしていましては、しめしがつきますまい」
「ええい。惟政、そなたも藤孝のように口うるさく言うつもりかなのじゃ。まろは天下の征夷大将軍であるぞ。平服になろうとも、その威厳に陰りができるものでないでおじゃる」
ははあと、和田惟政は頭を深々と下げる。義昭は今や、武士の頂点である。義昭が気に入らぬと言えば、足利家の家臣の座など、吹き飛ぶであろう。
「ほっほっほ。わかれば良いのじゃ。はよう、平服を持ってくるのじゃ。あと、茶も持ってくるのじゃ。暑くてたまらんのじゃ」
和田惟政、茶坊主たちは急ぎ、廊下を走っていく。
数分後には、平服と茶を持ち、茶坊主たちが帰ってくる。義昭は平服に着替えさせられながら、茶をひとくち飲む。
「あっつ。熱いのじゃ!だれじゃ、この茶をいれたのは」
茶坊主のひとりは顔を真っ青にする。そのものを義昭が睨みつけ
「きさまは阿呆なのでおじゃるか。この暑い日に熱い茶を持ってくるとは、何を考えておるのじゃ。つかえないやつめ。暇を与える。しばらく、まろの前から消えるが良いのでおじゃる!」
叱責された茶坊主は顔色を青から白へと変えていく。
「ええい。茶はもういい。水じゃ水をもってくるでおじゃる」
かの茶坊主は、義昭の怒りを買ってしまった。かのものの出世は、もう期待できるものでないだろう。義昭と他の茶坊主たちはその場から去っていく。残されたその男は、がっくりと肩を落として、その場になすすべもなく佇んでいる。細川藤孝率いる、武断派たちもその場から移動を開始する。
叱責を受けた男に声をかけるものは誰もいなかった。義昭に侍りつく道を選んだのは、その男なのだ。細川藤孝の知ったことではない。自分の人生は、自分で責を取らねばならない。よしんば、声をかけるとして、細川に何が言えるというのか。冷たいようだが、細川にできることはない。
将軍の戴冠式を行っていた貴族の屋敷の外には、織田家の諸将たちが並んで待っていた。織田家の者は身分が低く、高位の貴族の館に入ることはできない。そのため、外で待たされていた。8月の炎天下の中、静かに戴冠式を終わるのを待っていたのだった。
「おっほっほ。織田家の皆々。ご苦労なのでおじゃる。待たせて、すまぬのお。将軍さまのおなりなのじゃ」
織田家の諸将たちは、片膝付き、頭を下げる。
「上様、将軍への正式な就任、おめでとうございます」
信長がそう告げる。義昭はご満悦な顔で言う。
「おお、信長殿。そなたの尽力は忘れておらぬぞ。ほれ、頭を上げたもれ。その忠心ぶりを褒めて差し上げようなのでおじゃる」
だが、信長は頭を下げたままだ。視線を義昭と同じ高さにすることはない。
「ほっほっほ。まろと信長殿の仲ではないかでおじゃる。そんなにかしこまれては、まろが困るのでおじゃる」
そう言われた信長は、重い頭を上げる。義昭は、うむと息をつき
「将軍、足利義昭は、このたびの上洛に多大なる貢献をした、織田信長に副将軍の座を与えるのでおじゃる」
そう、高々と義昭は、皆の前で宣言したのだった。