ー天上の章10- 笹の葉
寿司屋の大将は、ううむと唸る。京の都の宴で、寿司を握るのは光栄なことだ。だが、寿司は鮮度が命だ。魚河岸で握っていることは、揚げたての魚で握れるということだ。京まで魚を運ぶということは、どうしても味が落ちてしまう。それが大将にとっては嫌なことなのだ。
「なあ、大将、頼むぜ、このとおりだ」
佐久間信盛は手を合わせ、大将を拝む。大将の酢飯を握る手は、ついおろそかになる。
「そうは言われましてもねえ」
寿司屋の大将は逡巡する。最高の味を提供できないのがいやで仕方がない。これは職人のわがままである。だが、そのわがままが、この寿司屋の味を天下一にしているのも事実なのだ。
「鮮度が問題なのですよ。京は大坂から近いと言っても距離がある。しかも夏だ。味が落ちる」
がんとして大将は聞き入れない。
「多少、鮮度が落ちたとしても、味の良さは変わらないのだぎゃ。それに将軍相手に握るのは名誉なのだぎゃ。その名誉を捨てるのだぎゃか」
「名誉のために握っているわけではないのですよ。わかってください」
信盛と松井友閑の頼みとあっても首を縦に振ることは、ためらわれる。
「魚の鮮度が問題なのなら、お酢でしめればいいのではないデスカ?」
寿司屋の大将は、ううんと頭を捻る。
「嬢ちゃん。それはどういうことだい。魚をお酢でしめるというのは」
寿司屋の大将の大声に、エレナはびくっとなる。だが気丈に、エレナは応える。
「ワタシの国、ろしあでは、魚の保存のために、お酢で魚の身をしめるのデスヨ。そうすれば保存が効きますし、味もそれほど落ちることはアリマセン」
大将は酢飯を、じっと見つめる。味付けの一環として、酢飯を使ってきたが、魚自体にお酢を使うと言うことはしてこなかった。鮒寿司などは、発酵食品であり、麹などを使って、長期保存できるようにしてきた歴史がある。だが、お酢という発想はなかった。
「お酢でやんすか。確かに保存を効くようにすれば、鮮度は保たれるわけだが、味のほうはどうなることやら」
お酢は独特の香りがする。それが寿司自体の風味を損ねるようであっては元の木阿弥である。
試しにとお酢を準備し、魚の切り身を軽く潜らせる。そして、お酢をきり、酢飯を握り、その切り身を載せて出す。信盛はそれを手につかみ、口に運ぶ。
「んん。んん、んん?」
寿司の美味さは変わらない。だが、お酢の匂いが鼻につく。
「若干、お酢の匂いが勝つなあ。だが、魚くささが抜けて、これはこれでありだぜ」
大将も口に寿司を運び、もぐもぐと噛む。確かに味はお酢に付け込むことにより、魚くささが消え食しやすい。しかしだ、お酢の匂いが気になる。
「このお酢の匂いを和らげる方法はないでやんすかねえ」
大将たちは頭を捻らせる。すると、信盛の家臣が床に置いていた風呂敷がほどけて、中身が散乱する。
「おいおい、気をつけてくれよ。しっかり包んでおいてくれよ」
信盛の家臣は、慌てて、荷物をまとめ、しっかりと風呂敷をしめる。その姿を見ていた大将は、はっとする。
「ちょっとすいません。いい案が思いついたので、出てきます」
大将は店の外に出かけていく。5分後、あるものを手に持ち、帰ってくる。
「大将、それは?」
「笹の葉でやんす。魚の匂い消しに、魚の下に敷いているでやんす」
笹の葉は、いろいろな場面で使われている。例えば、菓子のちまきを包んだりして、匂い消しや消毒にも使われる。そのほか、握り飯を包むのにも使用したりもする。
大将は、魚の切り身をお酢に潜らせ、酢飯を握り、ネタを載せる。そして、出来上がった寿司を笹の葉で包む。それを10分ほど放置した。
10分後、笹の葉を開き、皆の前に出す。それぞれは、その笹まきの寿司を手に取り、口に運ぶ。
「お酢の匂いが消えていマスネ。これは不思議な葉っぱなのデス」
エレナは口いっぱいに寿司をほおばり、満足げな顔である。信盛も、寿司に喰いつきながら、ご満悦である。
「大将。これはいい寿司だ。あんたも喰ってみなよ」
大将は促されるままに笹まきの寿司を口に運ぶ。お酢くささは見事に消えており、寿司の風味を損なうことはない。いや、それ以上だ。笹のほのかな清涼感が寿司の魚くささを完全に消している。
「これはいけるでやんすな。皆さん、ありがとうでやんす」
この笹まきを使えば、ほかにも色々な寿司が作れそうだ。笹の葉を使えば保存が効く。例えば、鯖など、足のはやい青魚をお酢でしめ、笹の葉で巻き、重しを乗せて水分を飛ばせばどうだろうか。仮にこれを、おし寿司と名付けよう。
大将の頭の中には、目まぐるしく、新たな寿司の品目が浮かんでくる。
「なあ、大将。改めて聞くが、京の宴には来てくれるか?」
信盛が再度、大将に要請をする。大将は、ううんと唸り、ぱんと太ももを叩く。
「わかりやした。寿司に関して、様々な助言をいただいたんだ。これで断ったあれば、店の名が泣くってもんだ」
「おお、京に来てくれるだぎゃか。これはめでたいことでだぎゃ」
松井友閑は、宴の目玉が決まり、ほっと安堵する。まあ、嫌だと言っても、この男の場合、縄で締め上げてでも連れて行ったであろう。穏便に事が運び、よかったとも思う。
「さあ、皆さん。喰っておくんやす。新作の寿司のお披露目でやんす。試食を兼ねて、色々、握りますので、どうぞどうぞ」
「まあ、そうは言っても、大将。しっかり金はとるんでっしゃろ」
大将は、がははと笑う。
「今井殿。わかっているじゃないですか。ただほど高いものはないでやんす。金ですめばもうけものでやんすよ」
その後、皆は、寿司に舌鼓を打ち、楽しく談笑しながら、昼飯にあずかるのであった。
「ああ、喰った喰った。もう腹いっぱいだぜ」
「ワタシもなのデス。着物の帯がきついのデス」
んん、どれどれとばかりに信盛がエレナの腹をさする。
「おお、本当だ。腹が出てるぞ、エレナ」
「信盛サマは失礼なのデス。女性のお腹が出ているとか、ジェントルマンなら言わないのデス」
エレナはぷんぷんと怒り出す。悪い悪いと信盛は平謝りである。松井友閑は、その信盛の姿を見て、はああとため息をつく。
「信盛さま。仲がいいのはよろしいのだぎゃ、遊女相手にいささか、気を入れすぎではござらぬのだぎゃ。仕事をおろそかにされては困るのだぎゃ」
「仕事はしてるさ。なあ」
信盛は、お供のほうに向き、同意を求める。お供たちもやれやれと言った顔つきである。
「本当だぎゃか?部下に全部、仕事を押し付けているのではないのかだぎゃか」
信盛は、うっという顔だ。松井友閑は、またもや、はああと嘆息をする。
「まあ、部下に指示を与えて仕事を覚えさすのも悪いことではないのだぎゃ。でも、信盛さまでなくてはならない仕事もあるのだぎゃ。きっと、今頃、宿にはたまり溜まった書類が山積みなのだぎゃ」
「うへええ。そろそろ仕事にもどるかなあ」
「そうするといいのだぎゃ。宴までもう、日にちがないのだぎゃ。しっかりと働いてもらうのだぎゃ」
信盛一行は、宿に向かって歩き出す。松井友閑は、今井宗久と共に歩いて行く。ここ、堺でやることはまだまだあるのだ。ゆうちょに遊んでいる暇などない。
宿に戻った信盛は、部屋に山積みの書類の束を見て、辟易とする。その書類の束から、ひとつかみ、手にとり、中身を吟味する。
「なになに。三好三人衆の残党を見つけたと。んで、これは、淀川の海賊たちへの掃討作戦か。ふむ」
部屋に共に通されたエレナであったが、手持ちぶたさで、どうしたものかと考える。
「エレナ。字は読めるか?」
「ハ、ハイ。一通りは読めます。暇なときは、書物を読ませていただいていますノデ」
エレナは客がつかない日や、休憩時間などに娼婦館に置いてある書物などに、よく目を通していた。客の中には親切にも、字を教えてくれるひともいて、それゆえ、なんとなくだが読めるようにはなっていた。
エレナが好きな書物は、万葉集であった。ほそかわふじたきゃ?なる人物が編纂したものであり、それはかな文字で書かれていた。漢字はよくわからないが、かな文字は覚えやすく、それに、ほそかわふじたきゃが編纂したものは、庶民にも読みやすいようにと配慮がされている。
上は帝、下は庶民が詠んだとされる、その万葉集は、この国の文化と教育の高さを象徴するものであり、読んでいて楽しい。
「いくつか書物をもってきているから、それでも読んでいるか?」
「え、いいんデスカ。汚してしまったら大変デス」
「なあに、写本の写本だし、少々、汚したところで問題ねえよ。どれどれ、どこに置いたかな」
信盛は部屋に置いてある手荷物を物色する。そして、何冊か見繕い、それをエレナに渡す。
「信盛サマは勤勉なのデスネ。政務のかたわら、書物を読まれるなど」
「まあ、この歳になっても勉学には励まなきゃならんしな。織田家には優秀なやつらが多いし、油断してたら、あっという間に抜かれちまう」
そんなものなのかとエレナは思う。渡された書物を手にとり、どれを読もうか吟味していると、ふと、信盛の手荷物のほうに目がいく。書物が一冊ころがっていたのだった。
「これは何ですか」
信盛は、慌てる。
「い、いや、それはだめだ!」
だめと言われたら余計に見たくなる。エレナはその本を手にとり、ぺらぺらとめくる。
「あ、あの、信盛サマ、こ、この本は」
「い、いや、そ、それはだなあ」
その本には、男女のまぐわいをこと細かに書かれた本である。それは絵付きであり、中には獣のまぐわいのようなものまでが載っている。
【本当は気持ちいい夜伽 夏号by松永久秀】。本のタイトルにはそう書いてあった。
エレナは顔から火が出そうである。だが、本から目を離せない。自分が知らない体位など、こと細やかに説明が載っており、あろうことか、女性への愛のささやき方講座までもが記されている。
「信盛サマはエッチなのデス」