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ー天上の章 2- 細川藤孝、泣く

 信長は細川藤孝ほそかわふじたか義昭よしあきへの忠義を辛辣に批判する。


「きみのそれは忠義ではありません。ただの執着です。他人の夢にすがるゆえに抜け出せなくなってしまった、ただの亡霊です」


「信長殿。どうかそれ以上は、それ以上は」


 細川藤孝ほそかわふじたかは何かにかはわからぬが懇願する。


足利義輝あしかがよしてるさまを支え、次いで義昭よしあきさまを支えてきた、その功績は誰もが認めるところでしょう。ですが」


 信長は容赦なく、細川藤孝ほそかわふじたかに詰め寄っていく。


「きみがその大恩に報いが要らぬと言い出せば、他のものはどうなるか考えたことはあるのですか?いや、ないでしょう。それゆえのこの連判れんばん状なのですからね」


「わ、私は。私こそが義昭よしあきさまを腐らせていた根本だというのか」


 細川藤孝ほそかわふじたかは両の手を机につき、はあはあと荒い呼吸をする。


殿との


 その場にいた、柴田勝家しばたかついえがたまりかねて何かを言おうとするが、信長がそれを手を突き出し静止させる。


「細川くん。きみには自分では抑えられない夢を持っていますか。誰にも踏みにじりさせたくない夢が」


義昭よしあきさまを将軍に就けるという夢が」


「だまらっしゃい!それは他人の夢です。自分の夢を持っているか聞いているのです」


 信長は物言わせぬ顔つきで細川藤孝ほそかわふじたかに迫る。細川はその勢いに圧せられ、膝をつき、床に四つん這いになる。そして


「わかっておるのでござる。頭ではわかっておるのでござる。私が義昭よしあきさまを甘やかしてダメにしたことくらい、わかっておるのでござる」


 細川は涙を流し始める。それは悔し涙なのか、後悔の涙なのか。


「私には産まれてから、幕臣の道しかなかったでござる。今は亡き義輝よしてるさまの後を継ぐ、義昭よしあきさまの夢を叶えることしかなかったのでござる」


 細川は泣き顔のまま、すがるように信長を見る。


「私はどうすればよかったのですか。どうしろというのですか。何もないのでござる。私には何もないのでござる」


「細川くん」


 信長は、すがるように手を前後する細川を抱きしめる。抱きしめられた細川は、あっと声を漏らす。


「きみに何もないというのは間違いです。もし、今すぐに自分の夢を見つけられないのなら、先生が夢を与えましょう。その夢を見ながら、きみはきみの夢を見つけてください」


 細川は、言葉にならない、あとうという音を口から漏らす。


「織田信長がこの世に存在する理由のひとつは、ひとびとの夢を叶えさせることなのです。細川くん。きみが夢を見ることができる世の中を作ることを信長は約束します」


 細川は、あああと声を上げる。今まさに生まれてきたとばかりに声を上げる。生きていいんだと夢を見ていいんだと言われた気が細川にはしたのであった。


 信長に抱きしめられた細川は、あえぐ。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、信長にしがみつく。信長はよしよしと、細川を優しく包み込み、泣かせるままにする。



 ひとしきり、細川は泣いたあと、勝家かついえがそっと手ぬぐいを彼に渡す。彼はそれを手にとり、涙を拭きとる。


「恥ずかしいところを見せてしまったのでござる。この件は御内密にしてほしいでござる」


 気恥ずかしそうに手ぬぐいで顔を隠し、部屋にいる皆に懇願する。


「いやあ。女性はよく泣かしますが、男性に泣かれるのもまた格別ですね」


「そういういじわるを言うのは、よしてほしいでござるよ。いい歳をして情けないでござる」


 細川は気が晴れたのか、ははっと笑う。


「情けないということはないのですよ。細川くん。泣けるということは、感情をもっているということです。感情を持たぬものなど、ひと以下なのですよ」


「男子たるもの、人前で泣くものではないと思ってきたのでござる。でも、それではいけないのでござるな」


「泣きたいときは泣きなさい。嬉しいときは喜びなさい。怒っているときは怒りなさい。悲しいときは、悲しみなさい。細川くんは自分を犠牲にしすぎなのです」


 細川は姿勢を直し、信長の目をまっすぐと見る。


「私、細川藤孝ほそかわふじたかは、他人の夢に殉じてきたでござる。それは一人の男として恥なのでござる」


 信長は、うんうんと頷く。


「私は、私の夢を持とうと思うのでござる。ちっぽけでもいいから自分に正直になるための夢がほしいのでござる」


「それでいいのですよ。細川くんは血が通った人間なのです。自分の夢に殉じてください」


 襖の向こうから音がする。誰かやってきたのであろうか。


「ひ、秀吉。ただいま、参上しま、した。火急の件と聞き、ここに」


「ああ、秀吉くん。入ってきてください」


 秀吉は襖をすっと明け、中に入ってくる。するとそこに細川藤孝ほそかわふじたかを始め、信長、光秀、勝家かついえの姿を見る。警護の詰め所に、なぜ細川と光秀がいるのか不思議な顔をするのであった。


「な、なにかあったのですか。細川さまと光秀殿は義昭よしあきさま付きのはず、ですが」


「ふひっ。細川さまが義昭よしあきさまに邪険にされて、いたたまれなくなって、信長さまに会いにきたのでございます」


「み、光秀殿。そのような言い方!まあ、本当のことでござるが、もう少し、陰を含んだ言い方はできないでござるか」


「ふひっ。失敬したでございます。ですが、いい機会でございませんか」


「え、え。細川さまの件についてが火急の件だったの、ですか?」


 秀吉はいまいち要領を得ない。


「あ、も、もしかして、光秀殿。ついに、細川さまを調略されたの、ですか!」


「ふひっ。僕だけの手柄なら誇れるのですが、最後のひと押しは信長さまでございます。僕もまだまだでございます」


「光秀くんは、体裁をよくしようというプライドが邪魔をしているのでしょう。相手を泣かせるのも手のひとつですよ」


「え、え。細川さまを泣かせたのですか!一体、何が起きたの、ですか」


「そ、それにはあまり触れてほしくないでござる。ああ、この細川。ここで泣いたことを後々にも言われるのでござるな」


 細川は手にもつ手ぬぐいをもじもじしながら、未だこぼれおつ、涙を拭く。


「秀吉くんを呼んだのは、細川くんを口説き落とすための最終手段としてだったのですが、無駄足になってしまいましたね。細川くんの気持ちは固まったようです」


「い、いえ。そんなことはありま、せん。さすが信長さまと光秀殿です。わたしの出番など、恐れ多くて」


「ひとたらしのきみが何を言っているのです。義昭よしあきの武断派の説得工作のほぼすべてをやっておきながら、謙遜してはいけませんよ」


「な、なんと。あの数の連判れんばん状を取り付けたのは、秀吉殿でござったのか」


 細川は驚きを隠せない。政務に追われる中、そんなことまでしていたとは。信長殿は有能な家臣をもっているのだと、改めて実感させられる。


「話を戻しますが、秀吉くんには夢がありますか?」


「は、はい!わたしは一国一城の主になりたい、です。そして、信長さまの手足となり、この乱世を終わらせ、ます。みんなが笑って暮らせる世を作りたい、です」


 秀吉は迷いなく、そして力強く宣言する。


「ふひっ。僕も、一日も早く、こんな世の中を正したいのでございます。威張りちらすだけの役にたたない者たちを引きずりおろし、真に平和な世を作りたいのでございます」


「がははっ。我輩も尽力いたすぞ。さっさと終わらせて、余生は大工として城のひとつやふたつ、築きあげたいでもうす」


 それぞれがそれぞれの夢を語る。それを聞き、細川は感心する。


「ああ、信長殿に付き従うものは、皆、それぞれの夢を持っているのでござるな。うらやましい限りでござるな」


「細川くんにも叶えたい夢があるでしょう。たとえそれが、ひとから見てもちっぽけなものと言えども、誇れる夢があればいいのですよ」


 細川は思う。平和な世の中になったら何をしようかと。そしておもむろに口を開け


「では、私は、平和になりましたら、陛下を交えての連歌会を行いたいでございますな。身分の上も下もなく、誰もが集い、平和を尊ぶ、歌を歌うのでござる。そして、それを編纂へんさんするのでござる」


 ははっと信長は笑う。


「いいじゃないですか。その夢、この信長が叶えられるよう、乱世を終わらせましょう。細川くん、それまで先生に力を貸していただけますか?」


「こんな私でよければ、存分に使ってください。信長殿。これより、わが身、わが心は信長殿のものでござる。いかようにもお使いくだされ」


 信長はふむと一息つき、思案にくれる。


「細川くんには、これまでと変わらず、義昭よしあきの忠臣として振る舞ってもらいましょうか」


「そんなことでいいのでござるか。もっとこう、なんというか、織田家のためになるようにというでござるか」


「細川くんには間者になってもらいます。しばらくすれば、先生は一度、岐阜に戻ることになります」


「な、なんと。この大切な時期に京を離れると言うのでござるか!」


義昭よしあきは大切な手札です。ですが、岐阜は先年、手に入れたばかりでまだまだやるべきことが多いのです。一度、本国に戻りやらなければならないことが山積みなのです」


 細川はむむうと唸る。


「その間、光秀くんと浅井長政殿に義昭よしあきの身辺警護を任せることになりますが、それだけでは、足りないでしょう。そこで、細川くんには私兵を率いて、ことにあたってください」


 信長は真摯に細川の目を見つめる。


義昭よしあきは将軍にはなりましたが、京の周りにはまだ復権を狙う、三好三人衆の残党や、逃げた六角義賢ろっかくよしたかも居ます。いまだ敵は多いのです。彼はわかっていないようですが」


「ですが、いっそ、義昭よしあきさまに何かあったほうが、信長殿には都合がいいのではないでござるか」


 信長は、ははっと笑う。


「ここで義昭よしあきという手札を失っては、困るのですよ。織田家が京に駐留する大義がなくなってしまいます。それでは、何のためにあんなものをここまで連れてきたか、意味がなくなります」


「では、いずれ、義昭よしあきさまを手放す時期がくるまで守れということでござるな」


「さすが、細川くんです。察しが良い。その時がくるまで決して、義昭よしあきを失ってはいけません。そのための準備のため、先生は一度、岐阜に帰ります。義昭よしあきのこと、よろしくお願いしますね」


「ははぁ!わかりましたでござる。この身を犠牲にしてでも、信長殿のため、義昭よしあきを守ってみせましょうぞ」


 細川は自分の夢を得た。新たに得た夢のため、信長のため、彼は躍進していくのであった。

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