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ー天上の章 1- 忠義というもの

 1568年8月末日。朝廷より足利義昭あしかがよしあきの元に使者がくる。その内容は、足利義昭あしかがよしあきを第15代足利将軍に任命するという沙汰だ。


「ついに、ついに来たのでおじゃる。まろの時代がきたのでおじゃる。惟政これまさ、そなたらの尽力のおかげなのでおじゃる。この恩には必ず報いてやるのでおじゃる」


 和田惟政わだこれまさは、ははぁと片膝付き、足利義昭あしかがよしあきに頭を下げる。その傍ら、ごほんと咳払いをする男がいる。


「おお、藤孝。そなたもおったのじゃったな。むろん、貴様の忠義も忘れておらぬのじゃ。そう怖い顔をするのでないでおじゃる」


 足利義昭あしかがよしあきは開いた扇子を細川藤孝ほそかわふじたかに向け、シッシッとばかりに細かく上下に振る。


「それより、信長殿はどこでおじゃるか。このめでたい報せを受けたというのに、信長殿は一体どこぞに行っておるのでおじゃるか」


「ふひっ。信長さまは、いつもの朝の調練でございます。そのあとの予定は京の警護を任された柴田勝家しばたかついえさまと打ち合わせのはずだったでございます」


「まろのハレの日なのじゃ。そんな些事にかまけてどうするというのじゃ。将軍の名において命じる。はよう、信長殿を呼んでまいれ!」


「ふひっ、わかりましたでございます。1時間ほど猶予をください。呼んでまいりましょう」


 明智光秀は、席を立ち、屋敷を後にしようとする。しかし、その後ろ姿に声をかけるものがいる。


「ごほん。光秀殿。この細川もいっしょに行くでござる。そのほうが話が円滑に進むでござろう」


「ほっほっほ。藤孝も行ってくれるか。それなら、そなたを気にいっている信長殿も邪険にはできないのでおじゃる。はよう、行ってくるが良いのじゃ」


 和田惟政わだこれまさの文官派も足利義昭あしかがよしあきにつられて、はははと笑いだす。細川藤孝ほそかわふじたかは握りこぶしを作り、血がにじまんかのように力をこめる。そのこぶしに明智光秀がそっと手を添える。


「細川さま、参りましょうぞ。義昭よしあきさまを待たせてはいけないでございます」


「う、うむ。わかったのでござる。明智殿、案内をおねがいいたす」


 明智光秀はその場から、細川藤孝ほそかわふじたかを連れ出すように、屋敷の外に出るのであった。


 光秀と細川藤孝ほそかわふじたかが警護隊の番所に向かう道すがら話をする。


「すまない。光秀殿。あなたの介添えがなければ、今頃、流血騒ぎだったかもしれんでござる」


「ふひっ。いくらハレの日と言えども、そのような事件を起こせば切腹は逃れえぬでございましょう。よく耐えてくださいました」


「なあ、明智殿。私のこの3年間は、一体なんだったのでござろうな。奈良の寺から足利義輝あしかがよしてるさまの弟、義昭よしあきさまを連れ出し、北陸に逃れ、各地の大名のもとを練り歩き」


 細川は言いながら、深いため息をつく。


「やっと信長殿と出会い、信長殿の力添えで、またこの京の都へ返り咲くことができたのでござる。身を粉にし、誠心誠意、義昭よしあきさまに仕えてきたつもりであった」


 細川の顔はどこか寂しげである。


「だがしかし、どこでボタンを掛け違えたのか、和田惟政わだこれまさの茶坊主一派に義昭よしあきさまの隣に立つ権利を奪われ、わたしのような義昭よしあきさまと苦楽をともにした者たちは遠ざけられてしまったでござる」


「ふひっ、心中お察しいたします。足利家において、細川さまに並び立つ功のあるものなどいないでございます。何故、細川さまにつらい仕打ちをなさるのでございましょうな、義昭よしあきさまは」


 細川は力なく笑い、返事をする。


「ははっ。なぜでござろうな。思えば、京に上洛を果たした後、義昭よしあきさまのお傍ではなく、織田家で信長殿とともに政務をこなさせられたのは、前触れだったのやもしれないでござる」


「京に上ったをいいことに、今までの重臣をないがしろにしてはいけないと思うのです」


義昭よしあきさまは変わられてしまった。口うるさい、武断派の私たちを疎ましく思われたのであろう」


いくさがなくなれば、文官に席を追われるは、世の常でございますな。ですが、頭に血を昇らせてはいけないでございます。先ほどは危うく、天下の名将を、この世から欠くことになっていたかもしれません」


「はははっ。天下の名将とはまた大言壮語を。私はしがない幕臣のひとりでござる。しかし、こう義昭よしあきさまに邪険にされたのでは、生きづらくてかなわないでござる」


 細川は、手を大きく宙に広げ、天を仰ぐ。


義昭よしあきさまという、お日様を支えて立つつもりでござったが、それも難しいことでござるな。まだまだ引退という歳ではござらぬが身の振り方でも考えるでござるか」


「細川さま。引退なさるとはどういこうとでございますか。まだまだこれからでしょうに」


 明智光秀は、うろたえつつ、心配そうな表情を作る。


義昭よしあきさまを将軍に就けると言う、私の夢は叶ったでござる。これ以上、何を望めというのでござるか」


 細川は自問自答するように明智光秀に尋ねる。


「ふひっ。他人のための夢が叶ったならば、次は自分のための夢を叶えるのでございます」


 自分のための夢か。そういえば、義輝よしてるさま、義昭よしあきさまの夢を叶えるばかりで、自分のための夢なぞ、考えもしてこなかった。


「男というものは、おぎゃあと産まれてからには、だれにも奪わせることはできない夢というものがあるのでございます」


 私にもそんなものがあるのでござろうか。


「夢に殉じることこそが、男にとっての最高の幸せでござる」


 そうだ、私はあえて、耳をふさいできたのだ。


義昭よしあきさまの夢は叶いました。では、次は、細川さまの夢の番です」


 私の夢か。ああ、なんだったのであろう。


「僕の夢は、信長さまとともに、この乱れた世の中を正すことなのでございます。これはかけがえのない、僕の夢なのでございます」


 私こと、細川は自らの夢を持つ、明智殿が心底うらやましい。


「私も私の夢に殉じていいのでござろうか」


「そうでございます。その夢を踏みにじるものが例え、義昭よしあきさまと言えども、逆らっていいのでございます」


 夢のためなら主君に逆らって良いと言うのか。ああ、明智殿の言葉が心地よい。彼の言う通り、夢に酔いしれる余生も悪くないのかもしれない。


「夢に殉じる覚悟ができましたら、僕に、信長さまに言ってください。細川さまの席を用意してあります」


「覚悟でござるか。私にその覚悟ができるのでござろうか」


 義昭よしあきさまに逆らってでも手に入れたい夢。


「私にも見つかるでしょうか、そんな夢が」


 細川は、足を止め、右手の握りこぶしをやんわりと開く。先ほどまで冷たかった手には熱い血液が流れ込み、熱を帯びる。そして、じっとその手のひらを見る。


「ふひっ。何かが見えるのでございますか」


 細川には見えそうな気がした。その手を柔らかく、両手で包み込んでくるものがいる。明智光秀だ。彼は自分の正面に回り込み、両手でつかんでくれる。


「行きましょう、細川さま。信長さまの元へ」



 明智光秀に連れられ、細川は警護隊の番所へ到着する。


「ふひっ。ごめんするのでございます。信長さまはこちらに来ておりませぬか」


 番所の奥から信長の声がする。彼は柴田勝家しばたかついえと歓談をしていたようだ。


「では、勝家くん、子細任せましたので、引き続き、警護をお願いしますね」


「ガハハッ!我輩の目が黒いうちは、三好の残党なぞ、この京には入れさせぬでもうす」


「頼もしいですね。何かありましたら、すぐさま、連絡をお願いしますね」


 歓談する彼らに割って入るように、明智光秀と細川藤孝ほそかわふじたかが、彼らがいる部屋にお邪魔する。


「ふひっ、信長さま。お邪魔してもうしわけございません。火急の用件があり、参上つかましましたでございます」


「ああ、光秀くん、細川くん、ようこそいらっしゃいました。だれか、お茶を2人に出してください」


「そんなことより、信長殿。ついに義昭よしあきさまに朝廷より使者が参り、将軍認可の沙汰が伝えられたでござる」


 信長はふむと一呼吸つく。


「なんだ、そんなことですか。先生はてっきり、細川くんが織田家に来てくれると言う朗報なのかと思いましたよ」


「ははっ、冗談がすぎるのでござる。義昭よしあきさまの将軍就任より、私のほうが上などということ」


 細川は何かをごまかすかのように、渡された湯飲みになみなみと注がれているお茶をずずいと飲む。


「あらあら。ということは、明智くんの勧誘はうまくいかなかったということでしょうか」


 細川は口に含んだお茶を盛大に吹きだす。


「な、なにを申されているのですか。私は幕臣。義昭よしあきさまの家臣でござるぞ」


「ふひっ。細川さまは、なかなかに頑固ものでございまして、難儀しております」


「ふむ。泣き落としは試してみましたか?調略に関しては、秀吉くんのほうが上ですね。彼には人たらしの才能があります」


「あ、あの、一体、何の話をされているのでござるか。私にもわかるように説明をしてほしいのでござる」


 細川は事態がよく飲みこめず、信長に説明を求める。信長は、席を離れ、3分後にまた戻ってくる。その手には書状の束があった。それを信長は机一杯に広げていう。


義昭よしあきさま、上洛後に冷遇された義昭よしあきさまの家臣たちの連判れんばん状です。細川くんの見知った名前が並んでいると思います」


 細川はその連判れんばん状を手にとり、名前を確認する。見知ったどころか、細川と同じく、足利家の武断派たちの名前がつらつらと並べられていた。連判れんばん状を持つ、細川の手が震えだす。


「の、信長殿。これは一体どういうことだ。ことと次第によっては、このこと、義昭よしあきさまに報告させてもらう!」


 信長はやれやれと言った表情を作る。


「細川殿こそ、どういうおつもりなのですか。先日の義昭さまへの報奨の件は伝えられず、未だ、上洛に対する恩にはむくいてもらえていない。それでも、そんな主君に忠誠を誓おうと言う」


「しかしだ。恩にむくいを求めてあるじに仕えるは、本当の忠ではござらぬ」


 信長はひとつ嘆息をつく。


「きみのその態度が武断派たちを追い詰めたのです。恩に報いるは、主君と家臣を結びつける絶対条件なのです。きみの無給で働く姿は尊いかもしれません。しかし、他の同僚から見たら、きみはただの裏切りものです」


 細川はぐぬぬと唸る。そして、連判れんばん状に連なる名前を恨めしそうに見る。


「犬でもエサを与えぬ家主に仕えることはありません。さらに鞭打つ家主には噛みつこうとします。細川くん。あなたは犬以下です」

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