ー昇竜の章14- 無い袖は振れぬ
7月も半ばを過ぎ、信長は上洛を果たしてから、早3週間が過ぎようとしていた。日々、政務に追われる面々に、ある1通の書状が届く。
「うっほん。信長さま、比叡山よりの書状なのじゃ。残念ながら、こちらの思惑とは逆の返事だったのじゃ」
信長は村井貞勝より書状を受け取り、それを読み始める。
「ああ、これは残念ですね。せっかくの準備が台無しです。興ざめですね、比叡山には」
「むむ、やはり徹底抗戦の意思を示してきたでござるか。だから、あれほど、あやつらを脅すような真似をするなと言っていたのでござる」
細川藤孝は、さあ困ったぞという表情を作る。この忙しい時期に、比叡山まで相手にするというのか、ああ、頭が痛い。
「いや、細川くん。だから、逆ですよ。服従の意思を示してきたんですよ。これは由々しき事態ですよ。集めた薪が無駄になってしまいました」
「喜ばしいことでござらぬか。なにを残念だとぬかしておるでござるか、あなたたちは」
「残念ですよね、利家くん」
「うッス。残念ッス。せっかく花火玉まで用意したと言うのに残念至極ッス。所詮、比叡山といえども、力あるものにはしっぽを振るんすか。情けないッスね」
利家は、面白くなさげな表情を顔いっぱいに作る。
「あなたたちは夏の花火と、比叡山の焼き討ちを同列に考えていないでござるか?不遜もすぎるでござるぞ」
細川藤孝は、毎度のこのやりとりに食傷気味である。こんな首脳部に振り回されて、兵たちは不満はないのだろうか。今までの信長の軍を見てきた感じ、忠誠心は厚く、さらに士気が高い。それが細川藤孝には不思議でたまらない。
「なんで、信長殿は、こんな感じなのに家臣たちは文句も言わず、ついてくるのでござろうな」
「うっほん。文句を言っても聞きゃしないのじゃ、信長さまは。半年もすれば慣れるから、それまでの辛抱なのじゃ」
細川藤孝は、こんな非日常に慣れたいとは思わない。ああ、いくら上洛に動いてくれるのが信長殿だけだったからといって、人選を誤った気がしてならない。最近は、この男の非常識ぶりに、心底、胃が痛い。
「ほ、細川さま。胃の辺りをおさえていますが、また痛むの、ですか?お薬をもってきます、よ」
秀吉殿が心配そうに自分のことを見てくる。だがしかしだ
「そんなこと言って、また、曲直瀬殿の新薬を飲ませる気でござるよね、あなたたち。もういい加減、その手にはのらないでござる」
「こ、今度の新薬は、成分の半分を優しさで作っていると言って、ました。多分、説明から想像するに、ひどい目にはあわないと思い、ます」
「もう半分は何で出来ているでござるか。それが心配で飲めるわけがあるはずなかろうでござる」
もう騙される気はないぞ。かれこれ、すでに10回はだまされてきた。いい加減、あの曲直瀬をひっ捕らえて、牢に入れたい気分なのだ、こちらは。
「ふひっ、僕も信長さまとの初面会のときは気絶をさせられましたでござる。今となってはいい思い出でござる」
「ははっ。光秀くん。鮒寿司食べて、泡拭いて立ったまま気絶してましたね、そういえば。普段、質素な生活をしているときに、急に美味いもの食べると、人間、おかしくなるアレですよね」
「なんか違う気もするッスけど、大体あってる気もするッス」
前田利家が肯定とも否定ともとれる返事をする。まあ、いつもどおりということだ。
「うっほん。そういえば、六角義賢と三好三人衆との戦いのあと、論功行賞が行われたのじゃが、義昭さまには奮発しすぎだったのじゃ。いくら義昭の家臣含めの報奨じゃが、たいして何もしてないのにじゃ」
細川藤孝がきょとんとした顔をしたあと、あわて顔になる。
「え、聞いておらぬでござるぞ、その話。詳しく教えてござらぬか」
「義昭さまには1週間前に報奨とその他、前祝と称して色々、贈ったのですが、光秀くん、どうなっているんでしょうか」
信長は怪訝な顔をし、義昭担当の明智光秀に尋ねる。
「ふひっ。金500、木綿100反、絹50反、鎧10領、刀5本。確かに義昭さま本人に直接、贈ったでございます」
細川藤孝は目を白黒させている。金500と言えば、並の国なら半年分の予算に匹敵する。
「うっほん。目録どおり、まちがいないようじゃ。ここに受け取りをしたという花押を押された書状もあるのじゃ」
「ど、どういうことでござるか。私はまったく聞かされていないでござる。ははっ。また、みんなで私をからかっているのでござろう?」
「ああ、これは義昭さま、家臣に何も言ってないぱたーんですか。独り占めする気、満々ですね」
「ふひっ。そういえば、受け渡しの際に、義昭さまの重臣たちがひとりもいませんでした。そういうことだったのでございますね」
「た、確かに。1週間前の朝は、めづらしく義昭さまが早起きされ、せっつかされるように私はここへ送り出されたのだったが、まさか、このためだったというのでござるか」
「細川くんのその様子だと、義昭さまから何も連絡もないうえ、此度の上洛に関して、報奨すらもらえてないということですか」
これはさすがの信長もドン引きだ。上洛は成し遂げたのだ。そのことに関して今まで苦楽をともにした重臣たちに、いの一番で報いるのは当然なはずである。義昭には原資がないので、仕方なく、織田家が肩代わりしていたというのに、すべて横取りしているとは、さすがに思いもよらなかった。
「ははっ、ははっ。そうなのでござるか、そうなのでござるか」
細川藤孝の顔からは明らかに生気が抜けており、背中がすすけていた。その姿にたまりかねた利家が、信長に物申す。
「こんなこと言うのはおかしいかもしれないッスけど、信長さま。直接、細川さまに何かあげれないッスか。これじゃあまりにも、細川さまがかわいそうッス」
「んん。先生が直接ですか。細川くんは、義昭さまの重臣も重臣。そのお方に、義昭さまを通さず、何か与えれば、義昭本人の機嫌を損ねるだけでなく、世間の評判も落ちますよねえ」
「い、いいのでござるよ。私は足利の幕府の重臣。この身を、命を幕府のために費やすと決めたのです。報いがなくても、私の忠誠心は変わりません」
「もしかして、細川さま。都から流れて以来、一切、俸禄をもらってないんじゃないッスか?」
「ははっ、ははっ。恥ずかしながら、実はそうなのでござる。最近では喰うにも困るようになってきて、ここでいただくお昼ごはんの一部を家にこっそり持ち帰っていたでござる」
細川藤孝はうつむき加減で、力なく応える。その姿を見、利家はおろおろとし始める。
「そういえば、上洛してから、こっち。忙しくて歌会なども開いてなかったッスからね。細川さまは、その礼金で喰っていたんッスか、今まで」
「その礼金は、この上洛で私兵を雇うのに使ってしまったのでござる。義昭さまは独自の軍を持ってないゆえ、少なからずでも、私が補おうと思ったのでござる」
細川自身は、家臣に分け与えるものがない義昭を主として奉戴した以上、その恩が報いられるのは先のことだと思っていた。だが、現実は違った。義昭は信長からもらったものを、すべて、自分のふところにおさめてしまった。
それを義昭に問い詰めたところでしらばくれられたら、そこまでだ。それどころか、いらぬ嫌疑をかけられ、自分は追放されるかもしれない。相手は今や、将軍一歩手前なのである。やりたい放題だ。細川は頭を抱える。
「ふひっ。信長さま、良い案が、この光秀にあるのでございます」
光秀が信長に進言しようとする。信長は光秀を見やり、ふむと息をつく。
「なんでしょうか、光秀くん。良い案とは」
「ふひっ。義昭さまを通さず、かといって、世間の評判を落とすこともない、うまい方法がございます」
「ほう、それはどんな手ですか。光秀くんのことなので、期待させていただきますよ」
光秀はビン底眼鏡のレンズを右手で、くいっと上げる。そのレンズは一瞬光る。
「予定では、後日、比叡山どもの領土を検地するわけですが、当然、過多とみなして徴収するのは、誰にでもわかっているのでございます」
「うっほん。そうなのじゃ。僧どもが戦を起こさぬために、無駄に蓄財できぬよう、必要不可欠以上の分は取り上げるつもりなのじゃ」
「その取り上げた土地の管理を細川さまに依頼するのでございます。土地の名義は織田家のままで、行政官に細川さまを任命するのです。そうすれば、給料を織田家から出しても、問題はございません」
「なるほど。細川くんを、足利家からの派遣とみなして、給料は細川くんを働かせている織田家が払うわけですか。妙案ですね。それなら、義昭さまを直接、介さなくてもいいし、世間にも面目が立ちます」
細川の顔に失われた生気が宿っていく。彼の目はうるうると涙が流れそうになっている。
「いいのでござるか。私としては願ってもない話でござる。だが、こじれれば、義昭さまから嫌疑をかけられるは信長殿でござる。ええい、やはり、この話なかったことに」
信長は、いやいやする細川藤孝の右手を優しく両手で包み込む。
「落ち着いてください。細川くん。きみには織田家一同、大恩があります。歌会や礼節を先生たちに叩きこんでくれたではないですか。そのおかげで、先生たちは、ここ京の都で政務をつつがなく行えております」
「の、信長殿」
細川の目には涙が溜まっている。その涙はいまやあふれんばかりである。
「その大恩にいまこそ織田家は全力で報いましょう。貞勝くん!早急に、比叡山の検地と関所破壊を行いなさい。信長の名だけではなく、義昭さまの名も使ってください」
「はっ、わかったのじゃ。この不肖、村井貞勝に一切をお任せあれでおじゃるのじゃ」
「信長さま。俺にも何かできることはないッスか。俺も細川さまにはお世話になっているッス」
「利家は一軍を率いて、貞勝くんの検地と関所破壊の手伝いをしてください。もし、比叡山が抵抗するなら、ひっ捕らえなさい」
「わかったッス。捕まえた僧兵は、市中引き回しにするッス。期待してほしいッス!」
「信長殿、のぶなが殿。そして、皆の者。すまぬ、すまぬでござる」
細川藤孝は、信長の両手で包まれた右手にぬくもりを感じる。そのぬくもりは、両の目から涙を流させるには十分な温かさであった。