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ー昇竜の章10ー 凱旋

 ついに京へ上洛する。万感の思いで信長はこの地に足を踏み入れた。足利義輝あしかがよしてるが存命のころ、一度、わずかな共のみで京へ来たことはある。あのときは、斉藤義龍さいとうよしたつと鉢合わせしましたね。信長は当時のことを思い出し、くすくすと笑う。


「なんだか、信長さまが嬉しそうで、俺まで嬉しくなってくるッス」


「ほっほっほ、まろも嬉しいのじゃぞ。こうしてまた、京の都に帰ってこれたでおじゃる」


 新調した御輿に乗せられた、足利義昭あしかがよしあきも大層ご満悦である。


 信長の3万の軍は、先頭を柴田勝家しばたかついえが馬に乗ってゆっくりと進み、そのすぐ後ろに並ぶように、前田利家まえだとしいえと、佐々(さっさ)成政がこれまた、馬にまたがり進んでいる。前田利家まえだとしいえは行き交う人々に手を振り、民衆もまた、手を振り返す。


 その利家としいえ佐々(さっさ)の少し後ろを行く信長は独白する。


「応仁の乱で街は焼かれ、その爪跡を残したままですが、まあ、それは良いでしょう。やっと、この地に辿り着きましたね」


 その言葉が、御輿に乗った足利義昭あしかがよしあきにも聞こえたのかわからないが、彼は応える。


「まろは信長殿を信じておったのじゃ。それがようやく実を結んだのじゃ。今日と言う日は、きっと生涯忘れることはできないのでおじゃる」


「上様、まだ、京に到着しただけですよ。ワシたちはこれからです。ここから始まるのです」


「そうじゃったな。まろはまだ将軍ではなかったのでおじゃる。ここから始まるのでおじゃるな」


 義昭よしあきは手放しで、これからの明るい未来を夢見て喜んでいる様子だった。その御輿の横、細川藤孝ほそかわふじたかが信長と義昭よしあきに声をかける。


義昭よしあきさま、それに信長殿。私もうれしいでござるぞ。北陸に流れたときは二度と、京の地を踏めぬものかと思っていたでござる」


「これ、藤孝。まろのハレの日に泣くものがおるか。涙を拭くがよいぞ」


 細川藤孝ほそかわふじたかは、京に戻ってこれた嬉しさの余りか、むせび泣いている。義昭はふところから手ぬぐいを取り出し、細川に渡す。それを受け取った細川は、涙をぬぐい、鼻もついでにかむ。


「お、おい。汚いでおじゃるな。なんで鼻までかんでおるのじゃ。あああ、絹の手ぬぐいがああ」


「さすが絹でござるな。鼻へのふぃっと感が抜群でござった。義昭よしあきさまはお優しい」


 その鼻のかんだ絹の手ぬぐいをあろうことか、義昭よしあきにそのまま返そうとする細川であった。


「そのまま、返そうとするとは、また肝の太いやつでおじゃるな。ええい、返さぬでよい、下賜するから持っておくのじゃ」


「それはそれはありがたいでござる。絹の手ぬぐいなど、私には褒美なのでござる」


 そういうと、鼻をかんだ絹のてぬぐいをふところにしまう細川である。その姿をばっちいものでも見るかのように義昭よしあきは視線を送る。


「そういえば、義昭よしあきさまから何かもらったのは、これが初めてでござるな。これは大切にしなければいけないでござるな」


「そうであったかのう。まあ、まろが将軍になれば、尽くしてくれた藤孝には、全国、好きなところに領地を分け与えるのじゃ」


「はははっ。そうは言われても、将軍家が持っている土地なんぞ、今ではどこにもないでござろう。ご無理をしなくてもいいのでござるよ」


 義昭よしあきがそうであったと少ししゅんとなる。足利義輝あしかがよしてるの時代からとうに将軍家が直接治める土地など、どこにもなかった。先祖代々の土地は比叡山を代表する寺院にかすめ取られたり、時の傀儡かいらい政権に蹂躙されたりとしてきた。


「まろが将軍になれば、まず、比叡山の僧たちにとられた旧領を取り返してくれようなのじゃ」


「大昔から、比叡山には苦しめさせられてきましたでござるからな。しかし、あいつらが言うことを聞くものでござろうか。言うことを聞かぬは賀茂の水と、双六、比叡の僧と言われておるでござるしな」


「全国の大名に声をかけ、あやつらをしばいてやるでおじゃる。今に見ていろでおじゃる」


 足利義昭あしかがよしあき細川藤孝ほそかわふじたかは二人で話を盛り上げている。巻き込まれては面倒とばかりに信長はスルーしている。


 前田利家(まえだとしいえ)が、歩を緩め、信長に接近する。そして小声で信長に耳打ちする


義昭よしあきさま、なんか言ってるッスけど、なんなんッスか?」


 信長はふふっと笑う。


「夢を見たい年頃なんでしょう。夢ならばゆっくり見させてあげなさい」


「信長さまに全部やってもらっておきながら、態度だけはでかいから、俺、あんまり好きになれないッス、このひと」


 利家としいえは表情には出さないものの、明らかに不快感を義昭よしあきに抱いている。昨日今日のことではないのだろう。もしかしたら、初めて顔を合わせたときからも知れない。


「まあ、軍人肌のひとが、役人肌のひととは合わないってやつなのでしょうかね」


「それとはまた違うッス。なんだか見下されてる感じがするんッスよね」


「ふむ。やんごとなき方が発する、気みたいなものでしょうか」


「そう、それッス。寺で偉そうにしてる腐れ坊主みたな感じッス。あの教養のないものを見下す目ッス」


 随分、義昭よしあきは嫌われたものだなと、信長は思う。利家としいえは、信長と親しい仲であるためか、言いたい事をずけずけ言ってくれる。それが、信長にとってはありがたいと思える彼の一面でもある。


 利家としいえは、その根からの明るさで、だれとでも仲良くできる特性がある。


「あなたみたいな人でも、義昭よしあきさまは嫌なんですね。意外ですよ」


「んん。何というか、夢を語るのはいいんッスよ。でも、何一つ、自分の力で成し遂げたことがないじゃないッスか、このひと」


「ほんと、嫌っているんですね。あなたがそうなら、他の人はもっとかもしれませんね。注意しておかないといけません」


「声や態度には出さないものの、みんな、同じように思ってるッスよ。特に河尻かわじりさまとかは、顔も見たくなさそうなタイプっすもん」


 小声でひそひそ話をしているが、義昭よしあきに聞かれては困るような内容の話を2人はしている。


「ん、信長殿、まろの顔に何かついているでおじゃるか?」


 義昭よしあきはのんきに、手鏡をふところから取り出し、自分の顔を見る。お歯黒に染めた歯をニカッとし、髪が乱れてないかとチェックを怠らない。


「それにしても、ハエが飛び交っておるでおじゃるな。朱雀大路の周りもぼろぼろなのでおじゃる」


 行列はいつの間にか、朱雀門跡を通り、みかどがおわす御所まで、あと少しとなっていた。行軍は御所を通り過ぎた後、ルートを替え、折り返すように、また伏見へと鴨川沿いを南下する予定だ。


「ほっほっほ。民衆がまろに手を振っておるのじゃ。良きにはからえ、まろはすこぶる良い気分なのじゃ」


 気分よく京の町を闊歩する、義昭よしあきをよそに、伝令が信長の元へやってくる。


「ん、のぶもりもりからの伝言ですか、どれどれ」


 佐久間信盛さくまのぶもりは、退き佐久間よろしく、隊列の中央からやや後方にて行軍を支えていた。その信盛のぶもりからの一報である。その報せを受けて、信長の表情は、ハレの日とは似つかわしい、鬼の形相となっていく。


利家としいえ。少し、先生はのぶもりもりのとこへ行く用事ができました。上様、少し離れます」


 信長はそういうと、乗っている馬を反転させ、はっとばかりに駆けていく。


「の、信長殿はどうしたでおじゃるか。血相を変えて走っていきおったが」


「たぶん、祭り気分に浮かれた馬鹿がいるんじゃないッスかね」



 そのしばらく後に、盛大に返り血を浴びた信長が、後方の佐久間信盛さくまのぶもりと合流する。血に染まった信長は修羅のようにも見える。


「本当に首をはねるとは思わなんだわ。しかも自らやるとはなあ」


「ちゃんと指令をだしてたんですか?しっかりしてくださいよ。のぶもりもり」


「ああ、本当すまねえ。目を光らせていたつもりなんだが、抑えが効いてなかったようだ」


 信盛のぶもりの槍の穂先には、女性に乱暴狼藉をしようとしたものの慣れの果て、首級くびだけがくくりつけられていた。いまだ、血のしたたるそれは、軍を恐怖せしらめている。


「まあ、済んだことはいいです。のぶもりもりは罰として、それを掲げたまま、行軍ですからね」


「意外と重いんだよなあ。ひとの頭って。まあ、悪いのは目を離した俺のせいだし、しょうがないか。おーい、お前ら、こうなりたくなかったら、よからぬことを考えるんじゃねえぞ」


 三間半槍(約6.5メートル)の穂先にくくりつけられた首級くびは、民衆の目からも、兵士たちの目からもよく見える位置にある。その様は、民衆には軍の規律の厳しさをうかがい知れるもので、喜ばれるものだった。しかし、兵からは恐怖の対象でしかない。


「しかし、これ、もしかして、この後もまた、なにかしでかす奴がいたら、穂先の首級くびの数が増えていくの?」


「そりゃ、きみへの罰も含めているので、がんがん結びますよ。それでもしっかり支えていてくださいね」


「うへえ。首級くびひとつならともかく、3個もぶら下がったら、さすがにきびしいわ」


 信長は返り血でそまった顔と鎧を、手ぬぐいで丁寧に拭きだす。その返り血の量は、何度もなんども刀でぶっ叩いた証拠だろう。その苛烈さと言ったら尋常ではない。信盛のぶもりはくわばらくわばらと思い、重くなった槍をしっかりと支える。


「もしもさあ。俺が同じことしてたら、首級くびはねられてた?」


「もちろんですよ。罪には罰を公平に与えることこそが、政治の要ですからね。例外はありませんよ」


「俺、根が真面目でよかったよ。軍紀違反はいけないよね。うんうん」


 槍の穂先の首級くびの持主には悪いが、まったく同情できない。こいつに対して、弁明でもしようものなら、俺の首級くびもいっしょに穂先にくくりつけられてること間違いなしだ。


 血がうまくとれないのか、信長は兵に桶一杯の水を用意させる。信長はその桶を手にとると、頭からかぶる。季節は7月。むせかえるような血の匂いが信長から離れていく。続けて、一杯、二杯と桶の水を浴びていく。


「ふう、やっと頭も冷えてきました。のぶもりもり。引き続き、兵の監視を怠らないようにしてくださいね」


「お、おう。わかったぜ。殿とののほうも落ち着いてくれよな」


 信長はそう言うと、馬の腹に足で合図を送り、手綱を握り、また先頭へと戻っていく。嵐のような去り方である。信盛のぶもりは、後ろに続く兵たちの方を振り向き、大声で叫ぶ。


「おおい、おまえら、こうなりたくなかったら、変なこと考えるんじゃねえぞ。これ以上、俺の仕事を増やすんじゃねえ」

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