ー昇竜の章 5- 松永久秀
商人を利用する。その発想が内政畑にいたせいか抜け落ちていた。実際に町をつくり育てているのは官僚ではない。そこに住む民であり商人たちだ。下手な将よりも商人たちのほうがずっと、町づくりに詳しいのは当然だ。
「信長さまには感服いたしました。それではめぼしいものたちを候補に挙げておきます」
信長は才あるものを登用する。それは兵だけでなく、相撲取りからでも重用する。それが今回は商人からというわけだ。成熟しきった市場を嫌い、新たな商売の場所を求めて冒険をしたがるものもいるかもしれない。
「では、尾張の商人から募集をかけてみます」
「はい、頼みます。きっと色々なひとが募集にのると思いますので、門戸は開いておいてくださいね」
前田玄以が陣幕から出て行き、午前の政務の時間は終わる。午後からは軍の再編集ならびに視察だ。4万もの軍勢である。目を光らせるにも多すぎる数である。今のところ、士気は高く保たれてはいるが、不満がでているところもあるかもしれない。そういった部分を調べる意味をこめての視察である。
不満の種がさっそく何かを言い始める。
「まろは退屈なのでおじゃる。信長殿、いつまで、ここ近江に滞在するつもりなのじゃ。京は目の前であろうに」
「前代未聞の大軍が京に向かうのです。ここで焦れば、ワシたちは旭将軍の二の舞になるでしょう」
旭将軍。それは源平時代の木曽義仲である。源義経より先に京へたどり着いたものの、部下たちを制御する能力に欠け、そのものたちによる略奪を許してしまった。その事件により、木曽義仲の名は地に堕ち、逆賊として討ち取られたのである。
「それは大変なのでおじゃる。まろたちは正義の軍なのでおじゃろう。信長殿、つつがなくお願いするのじゃ」
「はい。そういうわけで、足利義昭さまを焦らすようで悪いのですが、もう少し辛抱してください」
信長がここ、近江の地で待っているものは2つある。ひとつは、京を遠い昔から支配してきた帝と朝廷からの応答である。帝は将軍を任命できる、このひのもと随一の権威の持主である。帝が首を縦に振らない限り、京へ軍を持って立ち入ることは難しい。
正直言って、六角義賢との戦いで、織田家4万の軍の精強さは証明された。三好三人衆、なにものするぞ。蹴散らすことは簡単だと思っている。ただし、三好三人衆単体が相手であった場合の話だ。
もし、近畿、北陸地方の大名たちが、織田の隆盛を認めず、包囲網を敷いたらどうなるだろうか。若狭の武田、越前の朝倉、丹波の波多野、南伊勢の北畠など、態度を決めかねているものたちは、依然と多い。
信長は待っているのだ。周辺国の態度が決まるのを。敵となるならば、潰すまで。味方になろうというなら、引き込むまでだ。その見極めをここで行いたいのである。帝からの返事は数日中にくるであろう。それまでの間にどうなるだろうか。
観音寺城落城から5日後、書状が届く。
「ほう、若狭の武田と、丹波の波多野から書状がきましたか、さて結果のほどはいかに」
信長は書状を開いて、その内容を吟味する。そして、大きく2、3度頷き、伝令のものを呼ぶ。
「若狭の武田と、丹波の波多野に書状を送ります。友好のよしみを通じると」
陣幕内の諸将は、おおっと声を上げる。織田家を後押しする味方が増えたのであった。喜ばしい報せであった。ただ、朝倉、北畠から返事はなかった。やれやれ、守護、守護代大名のお人たちだ。守護代の家老の出の家には頭は下げられないといったところであろうか。まあ、今はいいでしょう。信長はそう思う。
信長と諸将たちが、これからについて、打ち合わせ、やんややんやとやっているところに、別の伝令がやってくる。
「大変でございます。とんでもない客がやってきました」
「はて。とんでもない客とはどなたでしょうか」
「松永久秀。本人が、信長さまに面会を申し出ております。どうされますか」
信長は身体に稲妻が落ちるほどの衝撃を受けた。今からまさに戦おうという相手の片割れが、のこのこと信長の本陣までやってきたというのだ。
「え、どういうことなんでしょうか」
さすがの信長も、この松永久秀の行動には驚きを隠せない。わざわざ、陣中にきてまでの宣戦布告でもするつもりなのかとさえ思ってしまう。
「手土産をもってきているから、通せとの申し出です。斬ってしまいましょうか」
伝令が物騒なことを言いだす。それほど不可解なのだ。松永久秀の行動が。
「会って、話をきいてみましょうか」
「おい、殿。俺は松永久秀に会うのは反対だ。何かよからぬことを考えているに違いねえ。これは罠だ!」
佐久間信盛が信長に進言する。
「確かに、先生にも何を考えているか、さっぱりわかりません。ですが、並の定規では測れぬ男と思っております。先生と同じ類の人間なのかもしれません」
「殿は測れないと言っても、根は善人だ。だが、松永久秀は将軍殺しの大悪人だ。根本が違う!」
佐久間信盛は強く否定の言葉を吐く。危険な男だと、警告をする。だが、信長はきっぱりと言う。
「先生が感じていた予感とはこのことだと思います。松永久秀をここに。皆さん、手を出さないように」
再度、信盛は殿!と言う。その言葉を聞き流し伝令に、松永を連れてくるように促す。
5分後、問題の男が陣幕に連れられてくる。その手には風呂敷で包んだ箱のようなものを携えている。
「ふはは。松永久秀でござる。信長さま、それにその家臣一同の皆さま、お見知りおきを」
慇懃無礼に松永は自己紹介を始める。
「知っておるかたも多くござろうが、わしゃが足利義輝殺害犯の松永でござる」
「それに主君の三好長慶を滅ぼし、最近では奈良の大仏に放火でしたかね?」
信長は、この男に対して、油断を見せないように注意しつつ、発言する。
「ふはは。知っておられたか。悪い噂というものは広まるのが早くて困るでござる」
困った風には見えない。むしろ、その行為に対して悪びれない態度である。
「ふむ。世の中の思いつく、三大悪を為しながらも、悪びれないその態度。いいですね」
「ふはは。こんなわしゃを褒めてくださるか。さすがは信長さまでござるな。わしゃと一緒で常識では測れぬ男でござる」
お前と一緒にするなという視線を信盛は、怒りの表情で飛ばす。しかし、その顔を見ても、松永はどこ吹く風と、信長と会話を続ける。
「信長さまに手土産がござる。ご覧あれ」
松永は手にもっていた、風呂敷に包まれたものを机の上に置き、風呂敷を広げる。中には桐の箱があり、なんぞやと織田の諸将たちは目をこらす。桐の箱の蓋をずらし、その中にあるものは
「九十九髭茄子。天下の大名物でござる」
九十九髭茄子とは茶入であり、古くは足利義満が所有し、代々、足利家に伝わってきた。それが転々と持主を変え、今、松永の手にある。国を買えるとも言われている名物中の名物である。
「これで、あなたの考えを推し量れ。そういうことですか、松永久秀殿」
松永は目を閉じ、こくりとひとつだけ頷く。ふうとひとつ、信長は嘆息する。これは参りましたねと。これはこの場に呼んではいけなかったかもしれませんと、自分の判断に疑念をわかす。答えは至ってシンプルなのだ。だがシンプルすぎていけない。
「この信長に降伏するというわけですか。それで、助命嘆願のための、九十九髭茄子ですか」
「ふはは。さすが信長さま。あっさりと見破られてしまいましたな」
「おい、殿。こんなの認めるんじゃねえぞ。腹の内に毒蛇を飼うようなもんだ。絶対にダメだ、こいつは」
信盛が黙ってられるかとばかりに言葉を発する。それを右手で静止し、黙らせる。
「さあ、信長さま。どうされる。わしゃの首級を斬り、三条河原に晒すか、それとも行き場のない窮鳥を囲んでいただけるのか」
信長は考える。この短いやりとりの中で、松永が何を考えているのか。松永は何をもってして、織田家に利するのかと。
「こいつはきっと、三好三人衆に追われてんだ。そうじゃなきゃ、大名物抱えて、近江までくるわけがねえ」
その信盛の言葉が、信長の疑問を氷解させた。信長は口元に手を当て、はははと声を出して笑いだす。
「なるほど、なるほど。松永久秀。あなた、ここで死ぬか、京にもどって死ぬかの二つの内、ひとつというわけですか」
今まで尊大な態度を取っていた松永の顔色が明らかに変わる。その瞬間を信長は見過ごさない。
「のぶもりもり、あなたの発言は正しい」
「わかってくれたのか、こいつはダメだってことが」
「その部分ではありません。松永は、三好三人衆と敵対しているのですよ。そして、私たちが今、京を攻めれば、逃げ場所のない、この男の末路は死だけです」
松永はごくりと唾を飲み込む。
「しかし同時に、織田家にはチャンスなのです。この松永を生かし、近畿平定の要にしろと、この男は言ってきているのです。助命嘆願ではありません。この男は提案してきたのですよ。死のふちにありながらね」
「ふ、ふははっ。これは驚いたでござる。そこまでわかるとは、いささか、信長さまをなめていたでござる」
信長は興味深そうに松永の目をじっと見る。その姿を見て、信盛はある覚悟をした。ああ、ダメだ。こうなったら、殿は誰の言うことも聞かないと。そんな諦めへの覚悟である。
「松永くん。あなたは面白い。興味深いという意味での面白いです」
「お褒めに預かり恐縮でござる」
陣幕内は、腹の内に巣くおうとした毒蛇が天敵の孔雀に睨まれている恰好に変わっていた。松永は冷や汗が止まらない。しくじった。信長と言う男を測れていたと思っていたが、勘違いだった。ここで俺の命は終わってしまうのか。そう思う松永久秀であった。