ー昇竜の章 4- 観音寺城の戦い 終焉
前田利家、佐々成政、佐久間信盛の邪魔となる、観音寺城を守る曲輪や弓櫓は、ことごとく破壊されていった。1000以上あったそれらは、すっかり半分を破壊つくされていた。城方の抵抗はすっかり止み、もはや、信長の慈悲を待つだけの身となっていた。
「城から投降の兵が相次いでいます。どうしますか」
伝令が信長にそう告げる。信長はふむと息をひとつ吐き、伝令に応える。
「そうですね。逆らう意思のないものには危害を加える必要はありません。主だった将と、六角義賢の行方を調べてください」
はっと短く、伝令は応え、陣幕を出ていく。各方面の部隊に信長の指令を伝えに行くのだ。
「さて、兵たちが投降を始めたのに、未だに、六角からは何も応答がありません。どうしたのでしょうかね」
信長は独白する。それを聞いてか聞かぬか、この男が発言する。
「うっほっほ。まろに逆らう愚かさを知るといいのでおじゃる。皆殺しにしたいとこなのでおじゃる」
一方的な戦いは、人間の嗜虐性を刺激する。足利義昭もまた、その人間として逆らいがたい本能に心をゆだねてしまうのか。
「しかし、信長殿はお優しいのじゃ。一度、逆らったものを許すとはな。敵兵たちは信長殿の慈悲の心に感謝するのでおじゃる」
「下手に逃げ場をなくされた兵は、暴走しますからね。しめあげ過ぎてはだめなのですよ。足利義昭さまも上に立つお方、慈悲の心は常に持ち合わせてください」
「わかっておるのじゃ。天下万民のため、まろも慈悲深くなるのでおじゃる」
信長はまったくもって期待できない言葉を聞く。今でこそ、足利義昭を傍らに置き、制御しているものの、ひとりにさせてみれば、そんなことはできないと思える。やれやれと思いながらそんな義昭の相手をしていると、陣幕にある男が入ってくる。
「信長さま、息災ですな。此度の戦は順調なようですぞ」
「ああ、浅井長政殿。おいでになられましたか。先は、近江の一部と言えど、4万もの大軍を通してくれたこと、感謝いたします」
「はははっ。いくら味方といえども、4万の大軍が通って、領民は驚いておったぞ。さすがは信長殿の軍勢は統制がとれておるため、それほど心配はしていなかったがな」
味方の領土で略奪を行う、愚かな兵も中にはいるのである。そういうのは末端も末端の兵だ。だが統制が取れてないなら、その大名の名に傷がつく。
「分捕りは、首級をはねると厳命していますので、そうそう、起こらないとは思いたいのですが」
「4万もの人数ですぞ。京にはいって、浮かれるものもでるやもしれんぞ。ほとほと注意することですぞ」
「まろも監視するでおじゃるから、なにかあれば、信長殿に言うでおじゃるよ」
「おお、義昭さま、挨拶が遅れて申し訳ないぞ。わたしは、北近江の大名、浅井長政ぞ。これからよしなにお願いするぞ」
「おっほん。よきに計らえなのじゃ。浅井長政殿の働きには期待するでおじゃる」
浅井長政が上洛の軍に呼ばれたのには、理由がある。
「義昭さま。浅井長政殿には、京での義昭さまの身辺警護の役をしてもらいます。近江から京は近いゆえ、何かと頼りになるかと思います」
「そうでおじゃるか。期待させてもらうのでおじゃる」
「はっ。この不肖、浅井長政。しっかりと仕事をさせてもらうぞ。つきましては信長殿。義昭さまをお守りする料金でござるが」
浅井長政はどこからか取り出した、そろばんの珠をはじく。信長はその値を見てぎょっとする。そしておもむろにそろばんの珠をいじる。
「ふむふむ。そうくるでござるか。では、これでどうですかぞ」
長政もまた珠をいじる。
「ふむ。そこが妥協点ですかね。わかりました。その値で取引しましょう」
浅井長政がニカッと笑う。商談成立だ。けっこうふんだくれたのか、満足そうな笑顔を長政がふりまく。
「なんじゃ、お主ら。まろの警護に金が関わるというのでおじゃるか」
「ははっ。義昭さま。ひとりふたりの警護ではござらんぞ。1千2千の軍隊での話ゆえ、無料では引き受けられぬぞ」
「それほどの軍隊が必要というのでおじゃるか。京はまるで魑魅魍魎の住処のようなのじゃ」
「義昭さまの兄、足利義輝さまが討ち取られたような京なのです。敵兵を追っ払ったからといって、警戒はしておかないといけませんからね」
順調にいけば、南近江周辺だけではなく、京の町も、織田家の傘下になる。だが、領土が増えると言うことはその分、そこに配置しなければならない兵が増えるというわけだ。よって、相対的に、京への警護が減る。浅井家の少なからずの警護の兵は、身辺穏やかならずならば、ありがたいのである。
「まろに力があれば、そなたらの手を煩わすこともないのでおじゃるのに。身辺警護の件、よろしく頼むのじゃ」
「はははっ。任せてくれぞ。しっかりと守ってしんぜようぞ」
浅井長政は力強く、義昭に応答する。
戦場に似つかわしくなく、浅井長政を含め、陣幕にて談笑をしていると、伝令がやってきた。
「六角義賢含め、重臣のいくらかは逃亡した模様。本丸には誰もいません」
「やれやれ。逃がしてしまいましたか。相手の抵抗が和らいだからには、その可能性がありましたが、こちらも警戒が薄かったですね」
「逃げたなら逃げたで別にいいではないか。何をそんなに心配しているのだぞ」
「ここより南は甲賀、伊賀。森深き場所で、さらには忍者の本場の地。捕らえることは容易ではないのですよ」
「城と兵を失くした大名に何ができようぞ。お義兄さんは少々、神経質でござらぬか」
「ふう。あなたの豪胆さをワシにもわけてほしいですね。過剰な心配なのでしょうかね」
信長の心配は、六角義賢が甲賀を頼って逃亡したのではないかということだ。織田家にとって、近江は不慣れな土地ゆえ、忍者どもに暗躍されれば、厄介なことになる。だが、六角義賢と甲賀に縁があるかどうかは、信長には預かり知らぬ身。それゆえ、考えすぎかもしれないとも思える。
「南近江の各支城に伝令を送ってください。あなたたちの大名、六角義賢は逃亡したと。それでも戦う意思があるなら、根切にすると。1両日中の返答を待っていますとも伝えてください」
はっと伝令は応え、その場を去る。これで、南近江での戦闘はほぼ終わりだろう。大名が逃げ出した今、わざわざ、命を顧みず戦う兵もおるまい。信長は、陣幕内の椅子にどかっと座る。
「ここでの戦いは2週間程度で済みましたか。さて、京は何日かかるのでしょうか」
柴田勝家が信長に進言する。
「南近江に5千を残し、あとは京へ一刻も早く駆け上がりましょうぞ。三好三人衆なぞ、何するものぞ。我輩が蹴散らしてくれましょうぞ」
勝家の威勢はありがたい。だが、京から三好三人衆を追い出したところで、周辺を掃除しなければ、兵もまた下げれない。周辺のものたちを怖気つけさせるための、4万での行軍だ。しばらく、南近江にとどまり、三好三人衆以外で恭順の意を示すものを待つのも手かもしれない。
「急がばまわれといいます。傷兵の手当てと周辺の砦の制圧に軍の再編成。それで5日間ほど費やしましょうか」
「時間をかけ過ぎだと思うでもうす。ここで勢いをともわないのは損でございましょう」
「勝家。先生には予感があります。ここで一旦止まることによる優位性を感じるのです」
「予感でございますか、そう言われては、我輩にはこれ以上、強く言うことはできませんな」
勝家にしては珍しく不満気である。確証のない予感まかせなのだ、誰だって不満は出る。だが勝家は忠臣中の忠臣。その者が言うのだ。他はいかほどのものか。
それから5日間。予定外の政務に織田軍は追われることになる。南近江の地を手にしての各地への新支配体制への移行準備がまずあった。
「ここでの仕事は京にはいってからの予定でござらぬかったか。信長さまも人使いがあらいでござる」
そういうのは内政畑の前田玄以である。急きょ、南近江に呼ばれ、政務に就く。
新支配体制における人気取りにはどの国、どの時代にも変わらぬものがある。それは減税である。戦というのは金がかかる。敗退した国はもれなく重税にあえいできた民たちが存在する。そこに救いの手を差し伸べるのだ。新政権は減税を行うだけで人気が出る。元手もかからず簡単な方策だ。
「では、徳政令に、1年間の年貢の減免ですかね。あとは兵役の解除でしょうか」
「はい、わかりました。それでお願いします」
前田玄以の提出した書類に、信長は矢継ぎ早に天下布武印の印鑑を押していく。
「玄以くん。近江の地の改善はどれほどかかりそうでしょうか」
「早くて2年。長くて4、5年と言ったところでしょうか。岐阜と並行作業になるため、どうしてもこちらには手が回りません。それに京を手に入れたら、京も優先しなければなりませんからね」
信長はふむと嘆息する。近江は琵琶湖から大きな川が京と大坂を抜けている。水運は莫大な富を産む。その莫大な富を産むはずの淀川には300もの関所が関税をふんだくっている。
「京を手中に収めたら、淀川の清掃が必要ですね。これでは、せっかくの利点が泣きます」
大坂の地は所狭しと川が流れている。そしてその川の終着地点には、天下の台所、堺が存在する。
「京、岐阜、近江、そして堺。これらの地は、信長の理想を実現するための大切な地となります。どこの地も遅れることなく改善をおこなってください」
前田玄以は無茶な要求を言ってくれるものだと思った。急激に膨れ上がる織田家の領土に対して、人材が追いつかない。
「おっしゃることはわかるのですが、人材が足りません。織田家の将だけではとても手がまわらないのですが」
信長はやれやれと言う顔をする。何年、内政でメシを喰ってきているのかという表情だ。玄以はカチンとくる。
「なにか、信長さまには良い案があるのですか?」
「織田家の各町には内政の職人がごろごろしているじゃありませんか」
「ほう、それは知りませんでした。一体、どこにいるというのですかな」
信長は扇子を広げ、おかしそうな顔をして、前田玄以にあることを耳打ちする。応えを聞いた前田玄以は、はっとした顔つきになる。確かに、その存在をすっかり忘れていた。
「商人たちをつかうのですね」




