ー昇竜の章 1- 上洛 出立
1568年6月、岐阜城内にて
信長は女どもに自身の甲冑を身につけさせていた。女どもの表情は誇らしげでもあり、どこか寂しげでもあった。
「殿、ついに戦ですか。またしばらく会えなくなってしまいますね」
「はははっ、お濃。そんなに寂しそうな顔をしないでください」
そうは言ってみるが、お濃の憂い顔は一向に治らない。信長はやれやれと思い言う。
「お濃の好きなもの、お土産で買ってきますので、楽しみにしていてくださいね?」
「そうではありません。戦なのです。殿の御身になにかあるかと思うと、お濃は食事も喉が通りません」
これは困った。こんなに身を案じてくれるのは、嬉しい限りではあるが、いささか心配し過ぎだ。
「大丈夫ですよ。いつもワシは帰ってきてるでしょうに。今回も、ちゃんと帰ってきます」
信長は言い聞かせるように言う。
「濃さん。大丈夫ですよ。信長さまには私がついて行きますから。危なくなったら私が身代わりになります」
そう言うのは、妾の吉乃である。今回の出陣は上洛が目的であり、成功すれば、京に長居することになる。その間、信長の夜伽の相手となるのは、正室ではなにかあっては困るということで妾の出番なのである。
「吉乃。お濃はあなたがうらやましくて、たまりません。ああ、いっそ、正室の身分を捨てれればよいものを」
濃はうらみがましく、吉乃をキッと睨みつける。吉乃は数居る奥方衆の中でも信長の一番のお気に入りである。濃が羨望するのも無理はない。
「そんなことを言わないでください、濃さん。あなたの身に何かあれば、殿が今度は眠れなくなってしまいます」
「そうですよ、お濃。めったなことを口に出さないでください。快く、ワシを戦に送ってください」
吉乃と信長はタッグを組み、お濃を慰める。功を奏してか、お濃の顔には元気が取り戻されていく。
「わかりました。信長さま。京から帰ってきたら、いの一番でお濃に会いに来てください。約束ですよ」
そして、信長はゆびきりをさせられる。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、針3本のおます。ゆびきった」
「やれやれ、針3本も飲まされては堪りません。ちゃんと約束は守るので、元気に待っていてくださいね」
お濃はうんうんと頷く。ちょうど、甲冑の支度も終わったようだ。お濃が火打石を取り出し、カチカチと音を立てる。それを合図に信長は言う。
「では、行って来ます」
「いってらっしゃい、殿」
しばしの別れが訪れるのであった。
鎧武者姿の佐久間信盛は、信長の部屋の前で待機していた。部屋をでてきた信長に開口一番
「よう、殿。ちゃんと、いってきますは言えたのか?」
「はい、もちろんですとも。そういうのぶもりもりは小春さんには何か言われたんですか?」
「上等な反物を頼まれた。たく、旅行にいくわけじゃないのにな、こっちは」
はははっと信長が笑う。
「小春さんらしくていいじゃないですか。こっちは無事にもどらないと、針3本のまされますよ」
「うわ、それは大変だな。しっかり殿を守ってやらないといけなくなっちまった」
「何を言ってるんですか。のぶもりもり、きみは1万を率いての進軍ですよ。しっかり功を競い合ってきなさい」
「うん、まあそうなんだけど、俺に1万も采配できるのかなあ」
「自信をもってください。これまで1年間、学んできたことを発揮するだけのことです」
稲葉山城を落としてからここ1年、信長は武将たちに様々なことを学ばせてきた。兵の宿舎である長屋建設から始まり、商人の誘致方法、そして万を数える軍の采配方法。それだけには飽き足らず、和歌、礼節、茶の湯など、思い返せば、時間が余ると言う日は全くなかった。それほど充実した日々を送ってきたのである。
信長と信盛が広場に向かって屋敷内を歩いて行くと、柴田勝家がのしのしと歩いてきて、2人に合流する。
「ガハハッ。ついにこの日がやってきましたな。我輩、待ち遠しかったでもうすよ」
「勝家殿は元気だなあ。1万も率いることに心配とかないの?」
信盛はまだ自信がないのか、勝家にそう聞く。
「ガハハッ。多少は緊張はしているでもうす。だが、それ以上に戦が楽しみでもうす」
「ああ、俺にも勝家殿のような豪胆さがほしいわ。俺って繊細だからなあ」
信長がぶふっと吹きだす。
「あなたのどこが繊細なんですか。図々しさの塊のくせによく言いますね」
信盛は、うぐっというくもぐった声を出す。
「そ、そうかもしれないけどさ、さすがに今回の戦は殿が天下に名を知らしめる戦いだ。下手は打てないじゃないか」
「多少、下手を打つくらいがあなたには調度いいのです。名将ぶらずにいつも通り、できることをするだけでいいじゃないですか」
「ガハハッ。信盛殿、殿の言う通りでもうす。いつも通りの実力を発揮すればいいのでござる」
「ううん、そうなの。ううん。よし、わかった。いつもどおり、いつもどおり」
信長は少々、心配である。まあ、でも実際に戦が始まれば、どこ吹く風のごとく、いつもののぶもりもりになるでしょう、とも思う。
岐阜城のふもとの広場には5千の兵が集まっている。信長直属の兵たちだ。そして、岐阜の町を取り囲むように3万以上の兵が待機している。これらすべてが上洛のために動員される兵である。8年前、今川義元が尾張に向けた兵、約3万より多い。あの時は、今川に震えあがったが、今は、天下を震え上がらせるのは信長の番であった。
ざわつく広場の兵たちの前に、信長たち諸将が集う。
「みなさん、お待たせしました」
織田信長、佐久間信盛、柴田勝家、河尻秀隆、前田利家、佐々成政、丹羽長秀。そして、別動隊の木下秀吉、明智光秀。その他、その主将たちを補佐する数多の将たちも集っている。
信長は右手で握りこぶしをつくり、天に向かって、そのこぶしを掲げて演説する。
「みなさん、大変、ながらくお待たせしました。準備がすべて整い、今日、ついに上洛へと戦を始めます」
信長は高らかに宣言する。
「足利義昭さまを奉戴し、京まで一気に駆け上がってください」
準備に手をこまねいた間に京の状況は様変わりしていた。
「途上には、南近江の六角家、京には将軍・足利義栄を操る三好参人衆がいます」
将軍・足利義栄はすでに誕生していた。
「ワシたちの目の前に群がる敵兵は全て、倒しつくします。そう、4万の大軍勢をもって、足利義昭さまのために整地します」
だが、そんなことはまるでなかったかのように踏みにじれと信長は号令する。
「偽りの将軍・足利義栄を追放し、真の後継者、足利義昭さまを将軍に就けるため、ワシたちは京へいきます」
信長はひと際、大きい声で言い放つ。
「ワシたちは正義の軍です。分捕りや人捕りを犯すものは身内と言えども死罪とします。厳命します」
分捕りとは略奪のことであり、人捕りとは、人身売買用に敵地の村や町の人をさらうことである。それら一切の行為を信長は禁じた。
「それでは、全軍出立!一直線に京へ向かってください!」
「えいえいおおお、えいえいおおお!」
兵士や将たちの中から呼応するように鬨の声をあげる。その声が町周辺に待機していた3万の兵たちにも届き、その3万の兵たちも同じく、鬨の声を上げる。岐阜の町全体がまるで呼吸をするかのごとく、どよめきに包まれる。
そのどよめく町の鼓動を感じながら、この男はひとり舞い上がる
「まろの軍じゃ。まろのために今、上洛へと向かっているのでおじゃる」
足利義昭本人である。彼は産まれて初めて見る大軍勢に心から酔いしれている。足利義昭ではなくても、この4万もの軍が自分のために働いてくれると思えば、だれでも感動を覚えるであろう。
「義昭さま、出立の時間です、さあ行きましょう」
細川藤孝が義昭に声をかける。義昭とは対照的に、この男の心は冷ややかだ。今はこの織田の4万の軍は、義昭さまのために動いている。だが、上洛が果たされた後も、この4万の軍は義昭さまのために動いてくれるのか。そんな疑念が晴れることはない。
「藤孝!まろもこの軍の指揮をしたいのでおじゃる。信長殿に取り入ってくれでおじゃる」
義昭は冷めやらぬ興奮の中、細川藤孝に無理難題を押し付ける。
「義昭さまは軍を率いたことはないはず。いきなり、そのようなことを言われては、信長殿は困惑されるでしょう」
「ええい、では、藤孝。貴様の名で兵を借りるのじゃ。そうすれば名目上は貴様の配下となるのじゃ。それをまろが指揮するのでおじゃる」
まったく、このお方は、幼子のように駄々をこねる。
「私の名を出したところで無理なものは無理でございましょう。諦めてください」
義昭はぐぬぬと唸る。今すぐにでも信長の下へと駆け参じ、何か言い出すのではないかと言う雰囲気だ。そこにタイミング悪く、信長がやってくる。
「上様。こちらにいましたか。駕籠の準備ができています。上様はどうぞそちらにて、行軍についてきてください」
「いやなのじゃ!まろにも馬を用意せよ。馬上にて采を振りたいのでおじゃる。信長殿、まろにも兵を分けてくれなのじゃ」
細川藤孝が困り顔を信長のほうに向けてくる。
「の、信長殿、すみませぬ。どうにも義昭さまが」
やれやれと信長は思う。さてどうしたものでしょうか。義昭に兵を渡せば、功ほしさに戦に関係ない村々を襲い、分捕りをするに違いない。しかも喜々としてだ。
別に分捕りを行うものは義昭に限ったことではない。戦国時代の常識としては、分捕りするほうが常識的なのだ。今回、死罪に値するとして分捕りを禁止させたが、やるものはやるだろう。身内だけでも頭が痛いのだ。それを将軍候補という身分のものがやれば、軍紀はどうなるか。言わずもがなである。
下手なことを言って、へそを曲げられても困る。それならいっそ
「上様。それでは、ワシの直属の軍をともに采配いたしましょう。上様は軍の指揮を執るのは初めてのはず。勝手わからぬまま兵を動かすよりは、ともに馬上にて勉強をいたしましょう」
「ううむ、仕方ないのでおじゃるな。本当なら、1軍を任せてほしいのじゃが、こちらも初めてなのじゃ。今回は信長殿とともに采を振らせてもらうのでおじゃる」
細川藤孝は胸をなでおろす。そして信長に向かって頭を下げて礼を言う。
結局、義昭は乗ったこともない馬に乗れるはずもなく、御輿を準備することになったのだった。