ー上洛の章16- 上洛への決意
鶏のから揚げに皆、舌鼓を打つ。天麩羅とはちがい、ころもは薄く、卵を溶いたもの中に鶏肉をくぐらせ、米粉をまぶせて油でじっくり揚げている。溶き卵と米粉と鶏肉のハーモニーもさることながら、油にも一工夫がされている。
戦国時代から江戸時代にかけての油と言えば菜種油が主流となったが、ほかにも色々なものから油は作られていた。特にごま油は香りもよくコクがでる。だが生産量が少ない。そこで、菜種油に少量のごま油を混ぜ、さっぱりしつつも香り豊かでコクもあるという魔法のから揚げ用の油が作られたのだ。
「はふはふ。これは食が進みますな。白いメシにも酒にあいますぞ」
細川藤孝は、いまや、鶏のから揚げの虜である。
「まろにも、もっと喰わせるのじゃ。藤孝、きさま、わしを誰だと心得るでおじゃるか!」
「いやでござる。ほしければ自分で取ってくるでござる」
主君の足利義昭に、よこせと再三言われているが、こればかりは同意しかねる。
「まあまあ、上様。屋台に行きますれば、まだまだありますから。光秀くん。追加でもってきてもらえますか?」
「ふひっ、おまかせあれ」
織田信長は足利義昭をなだめながら、光秀に財布からいくらか金を渡す。
言い忘れていたが、最近の織田家の祝賀会などは規模の大きさから、場内の料理人だけではさばききれないので、町の料理屋や屋台の店主に出張ってきてもらっている。年末年始は特に飲み会や祝賀会などで、武将たちや兵は飲み食いする機会が多く、書き入れ時とばかりに料理屋は店を開いているのである。
料理屋はともかくとして、屋台などの小売店は即金のほうが喜ばれるため、信長たちは小金をふところに忍ばせている。
「ふひっ。では買ってきます。なにか、ほかにご要望のものがありましたら、今のうちに」
「そ、そういえば、新酒の屋台があるそうですが、試してみま、せんか?」
秀吉が信長たちに進言する。
「全国の日本酒をとりそろえているとか何かですか?」
信長が疑問を呈する。そうではないと秀吉は応える
「か、果実酒というものらしい、です。梅酒みたいに果実を酒に付け込んで味を出すみたいなものらしく、それの新作が今年の目玉らしい、です」
「ほう、果実酒ですか、それは面白そうですね。では、秀吉くんには、その果実酒をいくらか持ってきてもらいましょうか」
信長はそう言うと、財布から100文(=1万円)ほど取り出し、秀吉に渡す。
「あ、ありがとうございます。では、さっそくいってき、ますね」
お金を渡された秀吉も明智光秀同様、屋台の方に消えていく。
10分後、2人は席にもどってきて、戦利品を机に並べる。果実酒は信長の予想と反して色とりどりのものがあり、つい、どれから試そうか目移りしてしまう。
「じゃあ、ワシはリンゴ酒から試してみましょうか」
信長は鶏のから揚げをほおばりつつ、リンゴ酒で口を洗い流す。リンゴの甘酸っぱい果実の味が、やや油で重かった口と胃を洗浄する。
「これはいいですねえ。日本酒が苦手なひとにも、この甘酸っぱさと香りは飲みやすさに一役買っていいですね」
日本酒が苦手なひとのなかには、匂いがダメというひとが多い。リンゴ酒は匂いがよく、普段のまないようなひとの口にも合いそうだと信長が思う。今度、奥方連中に飲ませてみましょうか。
「では、まろはゆず酒を試してみるのじゃ」
足利義昭は、軟骨のから揚げを口にほおばり、むしゃむしゃと噛む。そして肉汁が口の中にいっぱいになった頃合いを見計らって、ゆず酒を流し込む。
「おほ。柑橘系ならではの香りが鼻をぬけていくのでおじゃる。油の匂いと混ざり合い、鼻腔がくすぐられるのでおじゃる」
軟骨のから揚げを再度、少し口に入れ、それを噛み、ゆず酒で流し込む。それを何度も繰り返している辺り、相当、気にいってるのがわかる。
「きんかん、みかん酒などもあるのでござるな。柑橘系が多いのは、時期的な問題であろうか」
細川藤孝はもっともっと多くの種類を飲んでみたそうである。
「は、春になれば、いちごがとれますので、いちご酒や、あと、さくらんぼ酒なんかも出回りそうではあり、ます」
「いちごにさくらんぼでござるか。春が待ち遠しいでござるな」
「そうなると、春には試飲会と称して、また宴席を設けなければなりませんね」
信長が酒を飲む機会を得たりとばかりに、言を放つ。
「ほっほっほ。では、まろもその試飲会にお呼ばれされようではごじゃらぬか」
足利義昭も乗り気である。
「ああ、京が恋しいと思っておったのじゃが、岐阜は食べる物が豊富で第2の故郷になりそうなのでおじゃる」
「はははっ。岐阜にずっとおられては、天下の一大事でありましょう。上様は将軍になられるお方です」
「そうは言ってもの、信長殿。京の料理はどれも味が薄くて、舌にのこらんのじゃ。鶏のから揚げのようにこってりとした味わいのものなどなかったのでおじゃる」
「それなら、上洛する際には、織田家の屋台もいっしょに行軍させなければいけませんな。ワシは尾張生まれですので、味が濃いものではないと食べた気になりませんね」
「そうじゃろ、そうじゃろ、信長殿。まろは岐阜にきてから、田舎くさいと言っては失礼なのじゃが、こうしっかりと味のしみついたものに馴染んでしまうとじゃな。京の味には戻れないでおじゃる」
「では、上洛したら、一番最初にやることは、京味の改革でございますな」
はははっと、足利義昭と織田信長は笑いあう。後日、この会話が実現することになるとはだれが予想しただろうか。現代に伝わる京料理は、信長が尾張から持ち込んだ味と融合したとも言われているのである。
細川藤孝がうっほんと、わざとらしい咳払いをする。
「京の話もでましたので、ついでに伺いたいのでござるが、信長殿は一体、いつ頃、上洛へと向かってくださるのか」
「これ、藤孝。せっかくの祝賀会なのに、そんな話などやめぬか」
義昭は、細川を静止しようとする。だが、そんな静止も振りほどくかのように細川は続ける。
「三好三人衆は着々と足利義栄を将軍へ就けようとしておる。しかし、当のこちらは何もしておらぬのではないか」
細川の咎める口調が段々と強くなっていく。
「朝倉殿と同様、私たちをここで飼い殺そうという魂胆ではなかろうな」
「藤孝、やめるでおじゃる。お主、少々、飲みすぎなのではないか」
言われてみれば、若干、飲みすぎている感を覚える。普段では、このような口上、細川にはできようはずもない。
「信長殿、すまぬでおじゃる。せっかくの宴席が台無しでおじゃる」
義昭は細川の態度にほとほと困った様子である。普段は忠臣ぶりがすごく、まろを差し置いて、このような言、するはずもないのでおじゃる。きっと、飲みすぎてるのでおじゃる。風にでも当たらせにいこうか。
「今年の春が終わり、夏に入ってからでしょうかね」
信長が独りつぶやくように言う。細川と義昭は、ついぞ聞き逃してしまい、再度、言うように信長に促す。
「今年の春が終わり、夏に入るころに準備が終わります」
今度は、はっきりと皆に聞こえるような声の大きさで信長は言う。
「の、信長殿。とうとう、決心してくれたのでおじゃるな!」
義昭は声をわなわなと震えさせて、信長に確認をとる。だが、細川はあえて否定の言を飛ばす。
「信長殿。決心してくれたのは有りがたいが、夏と言うのは遅すぎはしないのか。足利義栄の件もある。やつが将軍になってからでは遅いのだぞ」
「踏みつぶします」
信長がぼそっと呟く。
「い、いまなんと言ったのだ、信長殿」
「信長の道を邪魔するものは全て、踏みつぶします」
細川は心配そうに信長の顔を覗き込む。その彼は相当、酔っているのか、顔が真っ赤である。
「みいつひでえ。鼓をもてえ」
光秀はどこからか取り出した鼓を左肩の上にそえ、構えて、ぽおん、ぽおんと叩き始める。鼓の音に合わせて信長が舞う。
「にんげえん。五十年」
「よおおお」
ぽん!と力強く鼓を叩く。
「下天の内をくらぶればあ、夢幻の如くなりい」
信長の舞を見て、義昭と細川はごくりと唾を飲み込む。
「一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかああああああ」
信長の大声に、祝賀会の会場に居た者たちがびくりとして、静まり返る。
「信盛いいい。勝家ええええ」
ははあっと信盛と、勝家が地面に片膝をつき、次の言葉を待つ。
「兵1万づつ与えるゆえ、六角家を蹂躙する準備をしておけええええ」
はっと、短く返事をした2人は頭を下げる。
「前田利家、佐々成政、河尻秀隆あああ」
会場にいた、利家、佐々、河尻は驚き、遠くから信長に向かって返事をする。
「なんでございましょう、殿おお」
「それぞれ兵2千を与える。此度の戦は手柄争いをするがよい。1番手柄には褒美を取らす」
河尻は信長の親衛隊である。普段は、信長の周りを警護する役目であり、1番槍を競うような手柄争いには、最近、出番がなかった。
「ははぁっ!かならずや、若造どもに恥じぬ手柄を立ててみせましょうぞ」
河尻は鼻息荒くし、息巻く。
「河尻さまに負けてられないッス!若者の力を見せてやるッスよ!」
「ん…。一番手柄は自分のもの。だれにも譲らない」
利家と佐々も負けてられないとばかりに声を張り上げる。
祝賀会の会場の熱量がどんどんと上がっていく。細川藤孝と足利義昭は、その熱に圧迫感すら感じ始めている。
「ふひっ。細川さまとあろうお方が、少々、圧せられておいででございますか」
明智光秀が細川を嗤うかのように挑発する。ぐぬぬと細川は唸る。細川とは対照的に義昭は大層うれしそうである。
「ふははっ、まろのために、皆、やってくれるのでおじゃるか。まろはうれしい限りでおじゃる!」
義昭は、まるで信長の軍が、自分のものであるかのようにはしゃぐ。
「ほれ、よく見るのじゃ、藤孝。まろは信長殿を使い、将軍となるため京に上るのじゃ。うはは」
義昭は、信長の肩を抱き、ともに祝杯だとばかりに、湯飲みに注がれた酒を飲む。今宵の義昭は頂上にのぼるような高揚感に包まれていた。
明智光秀は誰にも聞こえぬ声で呟く
「ふひっ。滑稽すぎて、あわれでござる」