ー上洛の章12- 幕府の忠臣
信長は思う。随分、ストレートに言ってきたものだと。
「足利義昭さまを将軍に就けるは、誰にも比肩することができないほどの手柄。それを持って、信長殿は、どんな地位を求めるか」
細川藤孝の目には力がある。決して、足利家を好きにさせぬぞという意思がその目には宿っている。
「義昭さまは、将軍になれるなら、管領はもちろんのこと、どんな役職でも信長殿に許すと言われている。そなたの意思はどうなのであるか」
細川藤孝は思う。管領などを許せば、この信長と言う男、三好三人衆と同じく、将軍足利家を傀儡とするであろうと。だが、傀儡としたければするがよい。信長、きさまはあくまでも義昭さまの家臣。その証拠の管領職よ。
義昭さまの政権で甘い汁を吸わせてやろう。だが、手綱を握るは義昭さまだ。そこを忘れるでないぞ。
信長はふむと息を吐く。傀儡政権は認めよう、だが、義昭の家臣にすぎぬと言いたいのですかと。もちろん、ワシの考えは違う。細川藤孝と根本的に考えの到達点が違うのだ。
「管領、ならびに幕府の要職のお誘い、ありがとうございます。ですが、ワシどもは政権の職がほしくて、義昭さまにお仕えするのではありません」
「では、何を目的で義昭さまを奉戴し、上洛すると申すか」
「いえいえ。織田家は正当なる将軍家の後継者、義昭さまを後押ししたいだけ。身分にあわぬ管領職などもったいなく思います」
細川藤孝は、ううむと唸る。なにか得体の知れぬことを考えているのではないかと疑念が湧く。
「貴殿はなにもいらぬと言うのか。褒美は思いのままぞ。言ってみるがいい」
物欲や権力への欲がないものなどいない。きっと何か欲しいものがあるはずだ。細川藤孝は常人の物差しで信長を推しはかろうとする。
「そこまでおっしゃると言うならば、ワシもほしいものがあるでござる」
「ほう、それはなんだ、言ってみろ」
細川藤孝は内心ほっとする。将軍職へ後押ししてもらえる相手に、何も与えないとなっては、逆に義昭さまの名折れとなってしまうからだ。
「京へ上れましたら、途上の近江ならびに周辺国の土地を切り取り放題としてください」
「そんなことでいいのか?将軍下の要職など、名誉は思いのままなのに」
細川藤孝は正直、肩透かしをくらった気分だ。京の周りの周辺国は比叡山に、本願寺、それに自治都市の堺だ。将軍の命があろうが大人しく話など聞くはずもない。そんな地の統治権がほしいというのか。
「信長殿は実に欲のない方だ。このような高潔な方が義昭さまの後ろ盾になってくれるとは有り難い」
「いえいえ。将軍家には義輝さまの時代より尽くしてきました。その実弟、義昭さまを奉戴でき、こちらもうれしく思います」
細川の目には、信長が二心を抱いているようには見えなかった。純粋に将軍家に対して忠臣であろうとしているのだと思った。
「信長殿の忠臣ぶり、とくとわかった。義昭さまに特とこのこと報告させてもらう。良ければ近いうちに、義昭さまとの面会を企画したいのだが」
「すみませんが、こちらとしては、未だ多忙の身。正月の祝いの席ではダメでしょうか」
今はまだ9月。正月となれば、相当、先のことになる。ううむと、また細川は唸る。
「岐阜での内政が忙しく、これが済まねば上洛にも差支えが出ます。なにとぞご理解を」
「致し方なしか。では、正月の催しを楽しみにしている。あと、歌会も忘れずに。歌会は個人的にも歓迎である」
歌会と聞き、信長は思いだしたかのように言う。
「ああ、歌会ですよ、歌会。細川殿、折り入って話があります」
「ん。どうかしましたか?」
「織田家のものは田舎者ゆえ、歌や礼節に疎い部分があります。細川殿が良ければですが、ワシたちにご指導願いませんか?」
「おお、そのようなことでござるか。私などのものが教えを授けるなど、恐れ多く思いますが」
「いえいえ、和歌や礼節に深く理解がある、細川殿なら願ってもないこと。礼金もはずむゆえどうか、歌と礼節の師匠になっていただけませんか?」
師匠と言われては、細川もむずがゆい。それに礼金も貰える。義昭さまは、やんごとなきお方だが流浪の身。給金など出ようはずもなく、いささかふところも寂しいものであった。
「う、うむ。そこまで言われては断るのも礼を欠くというもの。わたくしめなどで良ければ、織田家の方々を指導しようではないか」
「では、3日に1度の割合で行わせてください。歌会と礼節の授業を交互にということで」
「3日に1度でござるか!それはなんとも過密でござるな。何故であるか」
「いえいえ、上洛前に一通りの歌と礼節ができねば、義昭さまに恥をかかせてしまいます。そのようなことのないよう、家臣を教育しておきたいのですよ」
細川はもっともだと思った。義昭さまを将軍につければ、管領職を求めぬ織田家といえども、政権内での地位と重要性は増す。朝廷との取り計らいも頼むことになるであろう。そのときに礼を失することがあれば、将軍家の名に泥がつく。
「そうですな。わかりました。ただし、そういうことなら厳しくさせていただくゆえ、ご容赦を」
「快諾してもらえ、ありがたく思います。礼金はこれくらいでいかがでしょうか」
どこからか取り出したか、信長はそろばんをパチパチとはじく。細川はその額に驚くがなるべく顔にでないようにする。信長はこの額では不服なのかと思い、珠をひとつ上にはじく。その結果に細川はさすがに目を剥く。
「ふむ、少ないですかな。ではこれで」
信長はもう一つ、そろばんの珠を上にはじく。細川は自分の顔が青ざめていくのがわかる。
「の、信長殿。これはさすがに」
「おや、まだ少ないですか」
「い、いや、逆でござる。これではもらい過ぎでござる」
「細川殿にはそれほどの価値があるということです。どうぞお納めください」
細川はとてつもない礼金の額に、信長の期待の高さに驚きを隠せない。義昭さまの側近中の側近といえども、今は流浪と変わらぬ身。なにゆえ、これほど厚遇してくれるのか。
「なにか裏がありそうでこわく思うでござる」
「それほどの価値が細川殿にあるがゆえです。他意はありませんよ」
「ははっ、まるで私を口説き落としているのかと思いますな。こわいこわい」
「あながち間違ってはいませんね。どうです?細川殿も織田家へ来られては」
信長は冗談交じりに細川に言ってみる。本心では、細川ほどの才のあるものは喉から手がでるほどほしい。
「すまぬな。こう見えても、私は忠義に厚い男ゆえ。義昭さまの側を離れるわけにはいかないのである」
「ははっ。振られてしまいましたか、これは残念。ですが、いつでも織田家の門戸は開いておりますゆえ、困ったことがあれば尋ねてください」
「そうならないよう祈るばかりである。義昭さまには、このひのもとの国を治めてもらわなければならぬゆえにな」
細川が織田家を頼るということは、足利家になにかしら不備が生じるということと同義だ。なるべくなら、そんなこと、起きないほうが良い。信長と細川はその後もたわいのない談笑を続けるのであった。
「信長殿としゃべっているとつい口が軽くなってしまうのだ。そなたの言い知れぬ魅力ゆえでござるかな」
「いえいえ。ワシはただ、思っていることを正直に話しているまでのこと。それより、細川殿の書籍には随分助けられているのですよ」
「ほう、私の拙作ですか。あのようなもの、読んでもらえるだけでも、お恥ずかしい限り」
「あれらを拙作と言われては、世の中の著書すべてが駄作ということになりましょう。謙遜が過ぎますかな」
「いやいや。口に糊をするために書いたものばかり。しかし、著者としましては、それほど持ち上げてもらえると、嬉しいですな」
細川はやや誇らしげである。そんな信長は意地悪をするかのように、あることを言う。
「細川殿の著作のなかでも、気にいっているのが【相撲の神秘 筋肉と伝統芸】ですかね。この一冊は力士を目指すものには教本と言っていいでしょう」
細川はバツの悪そうな顔をする。
「ははっ、信長殿は意地が悪いでござるな。さきほどの仕返しですかな」
信長はふふっと笑う。
「これほどの力作を書いていながら、あなたの主君が相撲嫌いなわけがないですからね」
「ははっ。意地が悪いのは、私のほうでござったな。すまぬすまぬ。さきほどのは、そなたたちを試したまでのこと。無理難題をふっかけるのはよくあることではないか」
「そのような意地の悪さは、京育ちゆえでしょうか」
「ははははっ、これまた1本とられもうした。確かに、意地の悪い応答は、京特有のもの。重ねてすまなく思うのである。お詫びに何かひとつ頼まれごとをしようではないか」
信長はふむと息を吐く。頼まれごとですか。
「では、正月の催しでは、相撲大会も行いますので、その折には、ぜひ、義昭さまと細川殿、2人そろって参加してもらいましょうか」
細川は目を白黒させる。
「なに。相撲大会に私はともかくとして、義昭さまも一緒に参加せよというのか。ううむ。貴殿らに接待相撲をさせるのは心苦しいのであるが」
「いやいや。相撲は神聖な競技です。手加減などするはずがありません」
きっぱりと信長は言い放つ。その言葉に細川はまたしても目を白黒させる。
「お、お主。恐れ多くも義昭さまであるぞ。そのお方をぶん投げようというのでござるか?」
「相撲に身分の上下はありません。ただあるのは実力の上下だけです。そう細川殿の著作にはあるでしょうが」
細川は思う。ははっ、これはまいった。本気で信長殿は、義昭さまを相撲でぶん投げるつもりなのかと。
「確かに、そう書いたな。うん。しかし、相撲の結果次第で、義昭さまがへそを曲げたらどうするのだ」
「それなら、そのような主君を持ったと思って諦めましょう」
なるほど、相撲で、義昭さまの器量のほどを試そうというのか。お咎めを言い出せば、器量が狭いと宣伝するようなもの。だがしかし、上下の分け隔てなく、相撲をとれば、義昭さまの株が上がると言う寸法か。
「ふむ、悪くはない手であるな。よかろう。義昭さまには、寛大な心で接してもらえるよう、こちらで配慮を行っておくことにする」
「ありがとうございます。さすが、世を治める方は度量が違います」
「そう持ち上げるではない。しかし、怪我をさせるようなことは勘弁してくれたまえよ。大事な身であるからな」
「保障しかねまする。相撲は遊びではありませんからね」
信長は、ふっふっふと笑う。とんでもない約束をしてしまったのかもしれないと思う、細川藤孝であったが、時すでに遅しだった。正月までの残り数カ月、義昭さまを鍛え上げよう。そう思うのであった。