ー上洛の章11- 細川藤孝(ほそかわふじたか)
1567年9月。まだ夏の残暑の影響が及ぶ岐阜城内において、明智光秀は客を案内していた。
「ふひっ。細川藤孝さま。よくぞ、岐阜に来てくれました。ささっ、こちらにて殿がお待ちしています」
細川藤孝と呼ばれた、その男は足利義昭の側近中の側近であった。歌を読めば万物が震えだし、その礼節は並び立つものなきと言われた。著作も多く、【大胸筋が応える内政のしくみ】、【上腕筋で支える上司との付き合い方】などは、発行から5年以上経つ今でも、ベストセラーである。
「此度のお招き感謝する。して、信長殿はどこにおられるかな」
「ふひっ。殿は、今しがた、午前の調練を終えたところでござる。少々おまちくだされ」
明智光秀に案内されながら、廊下を歩く細川藤孝が、そこから見える広場に目をやると
「おらっしゃあああ!これで先生の2連勝です。まだやりますか?」
「ひどいッス。負けそうになると、ふんどし下げようとするのやめてくださいッス」
30歳前後の男ふたりが相撲をとっている。
「貧相なものを腰につけているから悪いのです。見られて恥ずかしいなら相撲なんかとってはいけません」
「それとこれとは話が違うッス!これでも子宝には恵まれてるッス!」
「おやおや。それはそれは。松殿とは今でもお熱いのですか?」
「当然ッス!そういう殿は、何人、妾作ったら満足するッスか」
殿と聞き、細川藤孝がじと目で、殿とよばれた、ふんどし一丁の男を見る。
「あそこでいい歳して子供の喧嘩をしているのがもしかして」
「ふひっ、信長さまでございます。かの人は常人では計り知れぬお方。ゆめゆめ、侮らぬようにお願いします」
ふむ。あのうつけ姿は世の中の人々を騙すためのものか。それならば、こちらも油断できまい。そう思う細川藤孝であるが
「信長さま、泣きのもう1番ッスよ。今度こそ、勝たせていただくッス!」
「まーた、もろだしを喰らいたいのですか。あれは禁じ手ゆえ、日に2度も出したくないのですよ」
「汚いッス。またやる気ッスか。正々堂々と戦うっすよ!」
「いくら修練といえども、戦場にいるつもりでやるものです。あなたはまだまだ青いのですよ」
ばっちいいいんと2人はぶつかり合う。そして、前田利家が下手投げを信長に食らわそうとした瞬間、信長は蝶のように舞い、蜂のように刺す。神業のごとくの動きで、信長は前田利家のふんどしを緩める。
ふんどしを緩められた利家は手でそれを抑える。その隙をつき、信長が利家の足を払い、地面へと押し倒す。
「ふっふっふ。どうしました、利家くん。その程度ですか」
はっはっはと信長は高笑いする。利家は、しくしくとその場で泣き崩れるのであった。細川藤孝は思い直した。世を騙す姿かとおもったが、ただの馬鹿だ、こいつ。認識を悪い意味で改めよう。
細川藤孝は屋敷の奥のとある部屋へ通され、そこで、お茶とお茶うけのせんべえを渡され、しばし信長の登場を待つことになった。だされたせんべえをポリポリと、光秀とともにかじりつつ、談笑する。
「いやあ、使いに出した光秀殿が、よもや織田家に仕官するとは思わなかったですな」
「ふひっ。朝倉家での処遇に信長さまが涙し、僕を拾ってくださいましたでござる」
ふむふむ、信長と言う男は情に厚い男なのか、記憶しておこう。細川はそう思う。
「いやいや、息災でなにより。血色は良いようだが、さらに少しやせたようにみえるが?」
「ふひっ、織田家の訓練はきびしいゆえ。食べてはいるのでございますが、減る分が多くて」
「すこし、身体をさわってよろしいかな」
「や、やさしくしてほしいでございます」
なにやら不穏な返しをされたが、無視をしよう。細川は、二の腕、わきばら、胸、横腹、ふとももへと指をはわせる。
「むむ、こ、これは」
細川は、ひととおり、光秀の身体をまさぐり、気付く。
「細身かと思えば、その実、しっかりとした筋肉に体中覆われ、まさに細マッチョ。贅沢を言うなら、脂肪もつけてほしいところですな」
細川は筋肉についての知識は、ひのもとの国広しといえでも、自分の右にでるものは、そうそういないと自負している。筋肉にふれただけで、織田家の訓練の質の高さが覗えて来る。さぞかし立派な指導者がいるのであろうと。
「失礼ながら、織田家の訓練を指導しているのはどなたかな?」
「ふひっ。柴田勝家殿を筆頭に各々、武に長ける将たちが指導に当たっているでございます」
「柴田殿と言えば、尾張、岐阜の筋肉番付のふたつを総なめしている方か。なるほど、それなら、あなた方の訓練の質の高さがわかる」
細川はひとり、うんうんと頷く。筋肉には2種類ある。見せかけだけの筋肉と、機能美にすぐれた筋肉だ。織田家のほうは後者だ。それほど織田家の訓練の質は高い。
「伊達に2か国を有し、足利義昭さま奉戴を願い出るだけはあるということか。それを言うだけの資格を有していると」
細川には任務がある。織田家が足利義昭さまを奉戴し、上洛して将軍に押し上げてくれるだけの力量があるかどうかの審査がそのひとつだ。
「それを成すだけの軍事力があるのは覗える。だが、足利義昭さまを尊重する意思はあるのか」
明智光秀は押し黙る。信長自身の問題だ。家臣が口出ししていい問題ではない。その姿勢を見て細川は思う、沈黙は金なりかと。よく統制がとれているものだなとも思う。ついぽろっというものを期待したが、この男からは情報は得られないであろう。
部屋に通されてから10分後に信長本人が先ほど相撲をとっていた若者とほか数名をつれてやってきた。
「やあやあ、お待たせしました。細川殿。ワシが岐阜の主、織田信長です、今後ともよろしくお願いします」
信長は礼をする。その姿をじっとりと細川は見る。品定めをしているのだ。この男は忠臣足りえるのかと。
「相席しますは、こちら、村井貞勝となります。足利義昭さまがご逗留中のお世話をこの者がしますので、何かありましたら、村井のほうに申し出てください」
「うっほん。ご紹介に預かりました、村井貞勝なのじゃ。ご不便なきよう務めさせていただくので、なんでも仰せになってほしいのじゃ」
「では、失礼ながら早速なのだが、義昭さまは、逗留中の寺では娯楽が少ないとおっしゃられている。なにか催しものでもしていただけないかな」
村井貞勝は思う。予想通り、難癖が始まったと。細川のほうも、難癖だとわかって発言している。これは、信長と義昭との力関係をはっきりさせるためのものだ。上のものの指示に下のものが従えるかどうかという試しである。
「うっほん。それは配慮が足りず、申し訳ないのじゃ。急ぎ、相撲大会などを開き、義昭さまを楽しませましょうなのじゃ」
「すまないが、義昭さまは、野蛮な相撲はあまり好まぬ。歌会などのほうがよいのだが」
もちろん、嘘だ。義昭さまは相撲は大好きだ。しかし、田舎大名にすぎぬ織田家の教養などたかが知れていると思い、歌会を選んだのだ。この難癖、どう受ける?
「うっほん、わかったのじゃ、歌会なのじゃな。じゃが、主だった将は午前は兵の調練などがあるので、昼過ぎからの開催になるが、問題はなかろうかなのじゃ」
「ほう。織田家の将たちは、歌に御詳しいのであるか。それは楽しみである。わたしの腕も鳴るというもの」
「ははっ。田舎侍どもばかりゆえ、細川殿みたいにはうまく行かないものなのじゃ。多めに見てほしいのじゃ」
難癖に歌会を選んだものの、あっさりと了承され、少々、肩透かしをくらった細川であった。だが、歌会ができるほどの教養が織田の将たちにあることには、驚きを隠せない。みやこの文化をたしなむだけの余裕があるということである。
「うっほん。ほかになにかご要望がありますかな」
「義昭さまは家臣のものの住まいが少々手狭なのに心を痛めておられる。苦楽をともに過ごしたものたちゆえ、その者たちにも不自由のないよう、願い出ておられる」
「これは失礼したのじゃ。急ぎの件だったとはいえ、不自由、申し訳なく思うのじゃ。早急に屋敷の準備をさせるゆえ、2,3日ほどまってほしいとこなのじゃ」
「あと、なにかあっては大変ゆえ、護衛のものを50名から倍の100名に増やしてほしいとこである。こちらは今日中に手配できるものと期待している」
村井貞勝はパーンパーンと手を叩く。すると廊下に控えていた小姓が戸を開け部屋に入り、村井貞勝のもとへやってくる。貞勝は小姓に耳打ちし、小姓は、はっと短く返事をし、退出していく。
「うっほん。護衛の数を倍にする話は、これで大丈夫なのじゃ。なんなら、夜伽の相手も手配したほうがよろしいか?」
貞勝は細川を挑発する。どんな難癖でも対応してみせようとの姿勢だ。細川もこれ以上の試しは不要と感じ、話を切り上げる。
「いやはや、織田家は至れりつくせりで助かるのだ。朝倉では不自由することが多くてな。つい、欲張ってしまった」
半分は本音だ。朝倉殿は何かと義昭さまを煙たがっていた。それゆえかぞんざいに扱われることもあり、不満もあったものだ。
細川と貞勝との応酬がひと段落し、細川は湯飲みにはいった茶をぐいっと飲み干す。明智光秀はおかわりをやかんからつぎ足す。細川は信長のほうを向き直し、発言する。
「して、信長殿は、義昭さまを奉戴し、上洛後、義昭さまより、なんの職を承りたいとの心もちか」
細川はまっすぐ、媚びた様子もなく信長の目を見る。その目にはしっかりとした意思を示す光が灯っていたのだった。