ー上洛の章 9- 九郎判官
信長がいつにもなく真剣な顔で困っている。
「んん、殿。それはそんなに由々しき問題なのか?」
「はい、大問題です。今まで、貞勝くんと前田玄以くんに任せっきりでしたが、緊急を要する場合には、のぶもりもり。あなたにも内裏に出向いてもらう可能性だってあるのですよ」
「えええ、やだよ、そんなとこ行くの。貞勝殿だけでいいじゃん」
「それでも、きみ、一国一城の主になる身ですか。朝廷との交渉も仕事のうちのひとつなんですからね」
嫌がる信盛をよそに、信長は計画内容の見直しに頭を悩ませるのであった。
「ううんううん。どうしたものでしょうか。なにかいい案持っている人いませんか」
こういった教養問題は、これまでは個人的な問題であった。だが、これからも織田家が大きくなっていく以上、朝廷との折衝役ができる人間は多ければ多いほどいい。
「ふひっ。とりあえず、歌会からでしょうか。あと、細川藤孝さまは古今東西の歌や礼節に詳しいお方。彼に織田家の訓練を願いでてはいかがでしょか」
明智光秀が信長の問いに応える。だがそれだけでは、信長は物足りなさそうだ。
「それだけでは足りませんね。京を中心として、茶の湯も最近流行りだしたと聞いています。というわけで、茶の湯も織田家内で推奨しましょう」
教養の重要さに気付いた今、やらなければならないことが一気に増えた。
「光秀くん。茶の湯に詳しい知り合いはいませんか?」
「ふひっ。茶の湯ですか。昔、堺に居住していたときに、利休というものに会いました。変わり者ゆえ、名は世に知られていませんが、信長さまとは意気投合するかと」
「変わり者ですか、おもしろそうですね。光秀くん、彼と会ってみたいので、面談の調整をお願いしていいですか」
「ふひっ。細川藤孝さま共々、利休殿も面談の調整でございますな。お任せください」
「色よい返事を待っているとお伝えくださいね」
光秀は自分の部下を呼び出し、矢継ぎ早に指令を出していく。彼らは、はっと了承の応えをし、散らばっていく。細川殿と、利休殿の件は彼にまかせておけばよさそうだ。
歌会、礼節、茶の湯の師に関しては目処がついた。礼金もはずむゆえ、無碍に断られることはまずないだろうと信長は考える。あとは、自分自身との相性の問題だけだろう。こればかりは会って話してみないとわからない。
「師への話は、結局のところ、先生自身との性格的な相性もありますから、なんとも言えませんね。あと数人、候補をあげておいたほうがいいかもしれませんね」
「まあ、織田家からは、村井貞勝殿と、前田玄以がいるが、生徒の数が数だ。もっと必要になってくるだろうな」
信盛は顎をさすりながら、他人事のように言う。
「いいこと思いついたッス。師になるひとは、特別覚えがいいひとを10名ほど率先して育てて、その10人含む師匠さんたちで、分担して教室をひらくッスよ」
前田利家がめずらしく内政ごとに関して進言してくる
「ほう、それは良い案ですね。講師がたりないなら、講師の分母を増やせというわけですか。では織田家の主だった武将の方々は率先して学んでもらいましょうか。その方がたが講師となって、兵士たちに教養を教えるということで」
あ、しまったと前田利家は思った。これはもしかして、自分も講師役になるのではと。
「利家くん。あなたにももちろん、講師になってもらいますので、細川殿たちの授業には必ず出てくださいね」
「えええ。俺、新兵の訓練に忙しいッス。暇なんかないッス!」
「利家くうん?暇がないんじゃなくて、暇は作るものなんですよ」
利家は自らの策にハマってしまったことに後悔した。だが、利家は、めげない。
「そ、それなら、家康さんとこも、将来的に教養が必要になるッスから、松平家の方々も交えてやるっすよ!そうすれば講師の数はもっと増えるッス」
突然、名を呼ばれた家康は、えっえっという顔をしている。
「ほう。利家くんにしては、次々と名案が湧きますね。会合に関して積極的なのは感心できます。ですが、松平家を交えるのはいいですが、結局、あなたも講師役やるのは変わらないので、まじめに授業を受けてください」
「ああ、やっぱり駄目ッスか。わかったッス。覚悟するッス」
「ん…。利家。自分も教養関係は苦手だけど、一生懸命、授業を受けて、講師役やるからいっしょにがんばろう」
佐々成政が、およよ、およよとなげいている利家にエールを送る。
「松平家も授業を受けたほうがいいでござるか。うむむ。そうでござるな。いつまでも三河の田舎大名と言われていては駄目でござるし」
松平家康が唸りながらも、うんうんと頷いている。相席している本多正信と相談をし始めたのだった。
「朝廷で思い出しましたけど、あなたたち、九郎判官義経って知っていますか?」
「源頼朝の弟だろ。確か、源平合戦で平氏を滅ぼすくらいの天才武将だろ」
信盛はさすがに知っているわと顔をする。
「そいつが朝廷と、なんの繋がりがあるってんだ?」
「質問で返しますが、では、彼がなぜ、幕府の敵と認定され、実の兄に追われたかわかりますか?」
「義経の天才的軍略の才能に恐れをなしたからじゃねえの?」
「そうではありません。いくら義経が天才的軍略を持っていようが、すでに源頼朝は鎌倉に政府を開き、東国の将達に号令をかけれる立場、ようは将軍に匹敵する地位についています。いくら天才でも、義経から兵を没収するだけで、脅威度は下がります」
「じゃあ、何が原因で源頼朝は、義経を討伐したんだ?」
「答えは判官だからですよ」
「地位が問題だったていうのか?天才的軍略家なんだし、それなりの地位についても問題は、って、ああ、そうか朝廷が関わるってのはそういうことか」
「さすがのぶもりもり。伊達に歳は喰っていませんね」
「歳は関係ねえだろ、歳は。つまりはあれだ。義経は判官の地位を朝廷からもらいやがったのか。そりゃ源頼朝はキレるわな」
「ん…。どういうこと。信盛さま。朝廷から地位を認められるのは名誉じゃないの?」
佐々には、ことの重大さが、いまいちわかってないようだ。偉くなればそれに見合った地位に上がれるのが普通なのだと。
「佐々くんにわかりやすくいうと、当時、朝廷と源頼朝は敵対しています。そして、源頼朝は敵対している朝廷から官位をもらうなと厳命しているのですよ」
「ん…。自分にもわかった。それは義経が悪い」
「敵から官位をもらって喜んでいるのですから、義経は救いようがありません。源頼朝がキレるのは当然なのです」
信長は、湯飲みを手にとり、中の茶をぐいっと飲む。そして、一呼吸置き、再びしゃべり始める。
「先生が何言いたいか、わかってもらえるとおもいますが、足利義昭を将軍に就けますが、先生含め、あなたたちも将軍からなにか報奨をもらうのは禁じます」
続けて信長が言う。
「先生たちは、将軍の部下になるために、足利義昭を将軍にするわけではありません。彼の名を利用するためです。彼からなにかしらの地位などをもらうということは、彼の部下になるということです」
「わかったッス。部下のものたちにも厳命しとくッス」
「それと将軍に何かを与えるのも禁じます。土地などはそのまま、将軍に力をつけさせることになります。もし、なにか必要なものがあるなら、先生が自ら与えますので、家臣のあなたたちは何も与えないように」
「えらく、将軍の行動を縛るんだな。それほど、将軍っていうのはやっかいな存在ってことなのか?」
信盛が疑問する。それを受けて信長が返す。
「将軍の「権威」というものは厄介です。たぶん、手紙ひとつで将軍の味方をする大名ができます。たった手紙ひとつで将軍家に軍事力が産まれるのです」
「うへえ。こりゃ厄介なもん、しょい込むことになるんだな。そのへんどうすんだよ」
「もちろん、わたしたち以外の大名家との物理的な接触だけでなく、手紙も制限します。将軍が出す手紙に関して、検閲を行い、織田家との連判にします」
「徹底してるな。でもそれくらいやらないと、ダメってことか」
「身の内に火薬庫を抱えているようなものですからね。しかし、その火薬庫を制御しないことには、先生のような身分の低い出のものには、天下を治める機会はありません」
「足利義昭が馬鹿殿なら良いって理由がよおくわかるぜ。下手に能力があるやつなら、ここまで将軍の力を抑え込まれてたら、すぐに関係がご破算しちまう」
「再三言いますが、先生がやりたい傀儡政権は、甘い汁を吸うことじゃありません。実質的に幕府を乗っ取ることです」
何度聞いても、信長の発想は狂気じみているように聞こえる。織田家の信頼できるものだけを集めた会合といえども、度が過ぎた発言であるように感じる。何が彼をそこまでさせるのか。家康は信長に尋ねる。
「信長殿は、一体、そこまでの危険を冒してまで、何を目指しているのでござるか。下手をすれば、本当に全国の大名を敵に回すでござるぞ」
「先生が目指しているのは、この腐った時代に終止符を打つことです。これは昔から変わりません。この腐った時代を根本からぶっ壊し、民が笑って幸せに暮らせる世の中をつくるためです」
信長は姿勢を正し、毅然として言う。
「ひのもとの民を幸せにするためのこの考えを愚かというものがいるのならば、ワシがことごとく潰してやります。それが将軍家と言えども同じ道を歩ませます」
信長の意思は固い。民が笑って幸せに暮らせる国。それが信長の根本であり、この乱世を終わらせるシンプルな解でもあったのだ。