ー桶狭間の章 6- 文官と武官
村井貞勝は続けていう
「うっほん。岡部元信と言えば、まさに忠臣の鑑との噂。降伏勧告には首を縦にはふらないじゃろう」
河尻秀隆は、役人風情がなにをという態度を取りながら
「ならば、貴殿に何か策がござるか?」
貞勝は再び、メガネの蔓をさわり、こう続けた
「そこでですじゃ。ほれ、そこの今川義元の首級。それを交渉条件につかうのじゃ」
河尻は、怒りにより、顔面が赤く染まっていくのを感じていた
「き、貴様!敵に首級をやすやす返せと言うか!」
貞勝は、どこ吹く風とばかりに
「岡部はただ仇を討つために動いておるのじゃ。言わば死兵。戦勝で士気があがっている我が軍といえども苦戦は必須じゃわい。それを義元の首級ひとつで無駄な消耗戦がおさえられるのじゃ。安いもんじゃわい」
貞勝の言っていることは確かに論が通っている。だがしかし、奇跡にまですがりつき、もぎ取った今川義元の首級。頭でわかっていても感情がそれを許さない。河尻は吼える
「貴様のような役人風情に、この首級の重さ、わかってなるものか!」
殿!と河尻は言い
「我に1千の兵をお与えください。岡部の首級、取って見せましょうぞ!」
貞勝も、河尻の言に熱くなったのか、言葉に怒気をはらみ
「うっほん!なりませぬのじゃ。殿。義元の首級をそれがしに預けたまえ。岡部との交渉、成し遂げてみせますじゃ!」
文官と武官では、互いに馬鹿にしあってる部分があり、一度、論争に火がつけば止まらなくなるのは日常茶飯事であった。河尻は貞勝の内政力は認めている。だが、槍働きにおいては、はるかに自分が上だと自負している。その槍働きを無に帰すような今回の進言。当然、許せるはずがなかったのである。
信長は鞭を右手にもって振りかざし、強く机を打った。清州城内の広場に、乾いた鋭い音がなり響く。はっと河尻と貞勝両名は、我に返り、片膝を地面につき、頭を下げた。信長はゆっくりと口を開き
「先生、いつも言ってるでしょう?喧嘩はいいけど、熱くなりすぎるなと」
両名は先ほどの熱が一気に冷め、冷や汗が湧いてでてくるのを感じずにはいられなかった
「もう少しで宗三左文字の試し切りをしたくなるとこでした」
一番熱くなってるのはその殿じゃないのかと、佐々は思ったが口を慎んだ。
信長は深呼吸を3度行い、気が鎮まるのを待った。ふっと短く息を吐き
「貞勝くん。義元の首級を持って、鳴海城の岡部と交渉に入りなさい。岡部が退去したら、そこに熱田で待機している信盛隊1千を移動させなさい」
と、殿!と河尻は喰いかかる
「河尻くん。義元の首級の代わりに、猿がいいものを取ってきてくれました」
河尻が、はっと目を凝らした先に見えるは一本の太刀である。
「宗三左文字。義元の愛刀です。これを首級の代わりとし、ワシの愛刀とします。首級にこだわるより、こちらのほうがよっぽどお洒落と言ったもんです」
ははあっと河尻は頭を下げた。
「貞勝くん、急ぎ、鳴海城におもむいてください。失敗は許しませんよ?」
はっと貞勝は答え、立ち上がり、手ぬぐいで冷や汗を拭きながら、部下を呼び出し、鳴海城へ向かって行った。
信長も本音を言えば、首級が惜しい。されど、鳴海城にかまけてられるほど、うちには余裕なんてない。さっさと、この戦にケリをつけ、領国経営にもどらなくてはならない。
尾張はまだ、総勢4千しか兵を出せぬ、軍事的には弱小国である。いくら、一人ひとりの兵が精強であろうが、倍する数には勝てなくなってしまう。それほど数の優位というものは、そのまま戦力差になってしまう。
「今川義元の首級など、安いということなのでしょう。天は、この信長にそう教えてくれてるものだとして、今回は納得しましょうか」
もやもやする気持ちを無理やり納めさせる信長であった。
村井貞勝が、鳴海城の岡部と交渉を開始した3日後、無事、交渉は成功し、岡部は亡き主の首級を受け取り、鳴海城から退去したのであった。その日の午後には、佐久間信盛が手勢1千を引き連れ、鳴海城に入ったのである。
しかし、この鳴海城より南1kmに位置する大高城で事件は起きた。
「え…。俺、聞かされてないでござる…」
もうひとり、尾張内で居残ってた武将がいた。松平元康、のちの徳川家康である。
彼はもともと、三河国を治めていた、大名、松平家の本家筋であった。だが不幸が重なり、松平家は今川義元に従属することになり、大名家としては一度ほろびている。ただ、運がいいことに、才気を義元に認められ、幼いころより英才教育を受けることができ、さらには嫁まで与えてもらっていたのである。
しかし、所詮、従属国の若殿だけあって、主国の一大事においては捨て置かれたのである。
「ま、まずいでござる…。このままでは孤立無援で城を枕に討ち死にでござる…」
一方、織田家では
「えっと…。なんで松平は大高城に居残ってるわけなんでしょう…。先生、怒らないんで、心当たりのあるひと、挙手!」
敵勢が尾張国に居残っている以上、臨戦態勢を解くわけにもいかず、織田家側も困っていたのである。
「ん…。勝家さまが?」
佐々は、勝家が清州城に居ないことをいいことに罪をかぶせようとした
「あーーー、先生たち、居ないときに何かやらかしたんでしょうか。ちょっと那古野城から召喚しましょうか?」
ちょっと、信長さま、怒ってる。佐々はそう思ったが、被害を受けたくないので口を慎んだ
「殿、待たれよ。勝家の首級に価値はなさそうだと存じます」
河尻は、真面目な顔つきで言い放つ。そうですよねと信長は受け
「んー、困りましたね。松平なら勝手に三河に帰ると思い込んでて、まさかの居残りですからね」
単に今川に置いて行かれたとは、さすがの信長も露とも思っていなかったのである。
「もう一度、聞きます。先生、怒らないんで、心当たりのあるひと、挙手!」
大高城内は、いまやてんやわんやである
「忠次、半蔵。すぐに三河に帰る準備をするでござる!このまま、ここに居たら死んじゃうでござる!」
名を呼ばれた、酒井忠次、服部半蔵は、部下たちに城を発つ準備を急がせた。忠次は元康に
「殿。このまま、敵に背中をむけて撤退すれば全滅は必死。ここは、日が落ちるまで待ち、暗闇に乗ずるが上策かと」
ここ大高城入城の際は、闇夜を利用しやってきたのだ。再び、同じことをするだけである。たしかに忠次の進言どおり、夜動けば、無事に逃げれる可能性はずっと高い。元康はいくらか落ち着きを取り戻し
「では、そのように事を運ぶでござる。皆の者、今はまだ、決して逃げ出してはいけないでござる。そして、外には中の慌てている様子を見せてはいけないでござる」
元康は、大高城の門を固く閉じさせ、夜に向け、静かに出立の準備をさせたのである。
織田家の物見は、大高城の動静を注意深く見守っていた。門は固く閉じられ、時折、喧騒は聞こえども、大きな動きは見受けられず、清州には、いまだ松平に動きなしとしか報告できずにいた。そして日が落ち、闇が訪れる。
何事もないかのように日は、また昇り、朝となった。刻一刻とすぎ、ふと物見たちに疑念が生じた。昨日まで時折聞こえていた喧騒が、今日は全く聞こえないのである。そして決め手となったのは、炊事の煙すら昼になっても城から上がってこないのである。
してやられた!松平は夜のうちに撤退せしめ、大高城は、もぬけの殻であった。この報せはいち早く、信長の元に送られたが
「元康くんはおそろしいですね。あまり敵には回したくありません」
もし同数同士で、野戦にて10回戦えば、その半数も勝てるかどうか怪しい。信長が誇る精鋭をもってしてもだ。
さりとて、敵はすべて、尾張の領土から撤退し、ようやく束の間かもしれないが、平穏が訪れたのである。
松平元康撤退後、早くも1週間が過ぎた。諸城を守る、主だった将を清州城に集め、祝勝会を開くこととなった。その席には当然、佐久間信盛も呼ばれており、久しぶりの主役たちの邂逅の場となった。