ー楽土の章34- 斉藤利三の暗躍
「信長殿、約2カ月ぶりでござる!いやあ、甲州征伐ではもっと活躍したかったのでござるが、駿河から甲斐に抜けるだけで手がいっぱいいっぱいだったのでござる」
「いやいや、家康くん。南から圧力をかけるだけでも、こちらとしては大助かりでしたよ。おかげで信濃をスイスイとこちらは抜くことができましたし。駿河の経営のほうはどうです?順調です?」
「武田家の旧臣が駿河方面に来ているために、そちらの管理がやや面倒といったとこでござるな。でも、良いのでござるか?いくら、甲斐から流れてくる武田家に忠義厚いモノたちを徳川家で保護する目的があるとしても、河尻秀隆殿は少々やりすぎな感じがいなめないでござるよ?」
「良いんじゃないですか?その他の領民に対しては手ひどいことをしないようにと河尻くんには通達していますので。減税、関所の撤廃などなど、やるべきことはやらせていますし。武田家の旧臣が恨みつらみを言おうが、領民に嫌われれば、立つ瀬はないでしょう」
何事もなければそれで良いでござるが、もし、その旧臣たちが民を扇動し、一揆でも起こせば面倒ごとに発展するのではござらぬか?と家康は危惧するのだが、いらぬことを言って、信長殿の機嫌を損ねるのもアレでござるなあと、何も言わずにおくのであった。
「さて、積もる話はやまほどありますが、とりあえず、宴会を始めましょうか。さっきから、家康くんの後ろに控える忠次くんや忠勝くんから殺気を感じますからね?」
「はははっ。殺気とはいささかひどい言いぐさなのでございますよ。確かにさっさと酒宴を開いてほしいと想っているのは確かでございます」
「家康さま。おいらはお腹が空いたなのだ。今日、この日の酒宴のために三日三晩、何も食べずにおいたのだ。早く、宴会を初めてほしいのだ!」
「忠次、忠勝!何をさもしいことを言っているのでござるううう!お前たちは、主君である俺を貶めるつもりなのかでござるううう!」
家康が後ろに控える酒井忠次と本多忠勝を叱責する。
「まあまあ。家康くん。そんなに怒る必要はないでしょうに。さて、徳川家の皆さん。宴会場に案内するのでついてきてくださいね?」
1582年5月20日。信長は徳川家の主要な面々と、武田家滅亡に功をあげた穴山信君を安土城に招き、1週間以上に続く酒宴を開催したのであった。
だが、そのにぎやかな席の裏で、信長に対して快く想わないモノがいた。
「ぐぬぬぬ。今頃、信長の奴めは甲州征伐に浮かれている頃でござるな!あの男に天誅を喰らわせねばいけないのでござる!」
「しかし、織田家は今や、天下に号令をかけれるほどの勢力になろうとしているのでしゅ。今更、四国攻めに対して、異を唱えれば、いくら光秀さまの直臣である、ぼくちんたちでもお咎めを言い渡されるのは必須なのでしゅ」
信長に対して、心よく想わないモノ。それは斉藤利三であった。彼は元は斉藤龍興の家臣であり、信長がその斎藤家を滅ぼしたあと、信長の家臣となっていた。その彼の愚痴を聞いていたのが明智秀満である。彼の出自は定かではなく、光秀の甥であり、光秀が出世していく中、重用されるようになったとも言われている。
斉藤利三は光秀が1570年頃、織田家に仕えるようになってから、光秀の腹心として、光秀が彼を直臣としたのである。利三は光秀をよく支えた。光秀の丹波攻略はその利三が居なかったら、完遂までにあと3年以上はかかっていたかもしれない。
そんな光秀にとって重要な男である利三にとって、信長による四国攻めは許し難いものであった。
その理由は、光秀が長宗我部元親の息子と斉藤利三の娘との縁談を進めていたからだ。すでに利三の娘は四国に送られており、もし、信長の四国攻めが実現すれば、利三の娘が磔にされるのは火を視るよりも明らかだったのだ。
そんな事情を信長は全くもって知らなかった。光秀自身からは信長は元親との婚姻を進めているとの話は聞いていたが、話がそこまで進んでいたということを知らなかったという意味だ。
だからこそ、信長は光秀さえ、畿内の総大将に据えておけば大丈夫だと思い込んでいたのだ。
斉藤利三は信長に対して、娘の命と引き換えに痛い眼を見せてやろうと想っていた。だが、そのためには自分の主君である光秀を巻き込まなければ、兵を動かせない。
しかし、ここで、利三にとって、幸運なことが起きる。
「光秀さまはどこにお隠れになったのでしゅかね?ここ1週間ばかり、光秀さまの姿を視ないのでしゅ」
「いつもの腹痛で、厠に飛び込んでいったあと、それ以降、ぱったり見なくなったでござるな?神隠しにでもあったのでござるかな?」
この時点では1582年5月28日であった。光秀隊は京の都の北にある亀山城に兵を集めていた。それは中国地方の羽柴秀吉から救援要請が信長に出され、それで、光秀にお声がかかったというわけである。
だが、その1週間ほど前から彼らの上司である光秀が姿を消してしまったのである。彼ら2人は自分たちに内緒で光秀さまが何かの策のために単独行動でもしているのだろうとしか想っていなかった。
しかし、さすがに1週間ともなると、何か起きたのでは?と想う兵たちも出てくる。だが、利三にとっては、その眼には好機として映ったのだ。
「ふふっふふっはははっ!これは好機なのでござる!光秀さまが居ないとなれば、必然として、自分が光秀隊の隊長となるのでござる!」
「な、何をいっているのでしゅ?利三殿。そんなことを許されないのでしゅよ?」
「まあ、聞くのでござる、秀満殿。実は光秀さまは信長さまより密命を受けていたのでござる。徳川家は大きくなりすぎた。だから、安土城に招き入れ、そこから、どこかへと誘導し、家康さまを暗殺してしまおうと。その密命により、光秀さまは策を施すために今、単独行動をしているのでござる」
もちろん、利三が今考えたばかりのでっち上げである。
「そんな密命が光秀さまに下ったなんて初耳でしゅよ?ぼくちんは何も聞かされていないのでしゅよ?」
「それもそのはず。そんなことをいくら、光秀さまの甥の秀満殿と言えども安易に言えるわけがないのでござる。光秀さまは真に信頼できる、拙者のみに打ち明けてくれたのでござる」
「うーーーん。にわかには信じられないのでしゅが、徳川家が大きくなりすぎたのは事実でしゅ。信長さまが家康さまを暗殺しようとしているのには説得力があるのでしゅ」
「そう。説得力があるからこそ大事なのでござる。光秀さまは数日後には我が隊に戻ってくるはずでござる。その前に拙者と秀満殿のふたりで、信長さまと家康さまの動向を抑えておく必要があるのでござる!」
「家康さまの動向を調べておくのはわかるでしゅけど、信長さまの動向まで調べるのでしゅか?それは何故でしゅか?」
「そんなの少し考えればわかることでござる。信長さまの眼の前で家康さまを斬れば、いくら密命を承っている光秀さまと言えども、信長さまが光秀さまを斬るのは必定となるからでござる。家康さまが信長さまと離れて単独行動している時に、囲んで殺す。これが最上の策となるのでござる」
「は、はあ。わかりましたのでしゅ。では、斥候を京の都へと送っておくのでしゅ。信長さまは安土城での酒宴が終わったあと、家康さまを連れて、京の都で豪商たちと茶会を開いているとの話なのでしゅ」
「秀満殿。斥候の件、任せたのでござる。拙者は光秀殿の消息を掴んでおくのでござる。3日後までには家康さまの暗殺を実行したいところでござる」
秀満は利三の指令により、渋々であるが、京の都での信長の動向を調べるために斥候を送る。そして、次の日、5月29日には、信長が京の都にある本能寺で寝泊まりをしつつ、帝の使いたちや、京・堺の豪商たちと連日、茶会、歌会を興じている情報を入手する。もちろん、その茶会などには家康一行も混じっており、家康たちもまた、本能寺で寝泊まりをしていた。
ちなみに話はそれるが、本能寺は日蓮宗派の寺であり、信長が開催した安土宗論で、信長と日蓮宗が険悪な仲になっているわけではないことが、これで証明されている。そもそもとして、日蓮宗側が後の世に唱える安土宗論八百長が実際に起きていたら、本能寺側が信長の滞在を許すわけがないのだ。
利三は秀満が持ち返ってきた情報を受け取り、ほくそ笑む。
「なるほど、なるほどなのでござる。信長さまは家康さまと一緒に本能寺で寝泊まりしているのでござるか。これは好機なのでござる。実際に家康さまを急襲する際には信長さまを巻き込まぬように謀らなければならないでござるなあ?」
「ほ、本当にやるのでしゅ?そもそもとして、光秀さまが行方不明なのでしゅよ?いったい、どうやって光秀隊を動かすのでしゅ?」
「なあに、そこは心配しなくても良いのでござる。幸い、光秀さまの鎧兜は、光秀さまの屋敷に残されているのでござる。光秀さまと背丈が同じくらいで、さらに光秀さまの顔に近しい男がほれ、拙者の目の前にいるのでござる」
利三の言いに秀満がギョッとする。
「そ、それは、いくらなんでもダメだと想うのでしゅよ!?家康暗殺という密命が信長さまから出されたとしていても、それでは、ぼくちんが嫌疑をかけられてしまうのでしゅ!」
「大丈夫でござる。光秀さまの行方なら、すでに拙者が掴んでいるのでござる。ただ、家康暗殺の決行日までに光秀さまが帰ってこれないだけなのでござる。あとで、その辺りはどうにでも言い繕うことができるゆえに、秀満殿がどうこうされることはないのでござるよ?」
もちろん、これは利三の真っ赤な嘘であった。だが、秀満にはそれを論破するための材料も持ち合わせていない。秀満は光秀の替え玉として、光秀隊を動かすことになるのであった。