ー楽土の章27- 信雄(のぶかつ)という男
家康は信康を失い、同時にその嫁であった五徳も実家の織田家に帰ることとなる。これにより、織田家と徳川家の間に亀裂が入ると想われたのだが、反織田派だった旧今川家臣たちが急速に力を落とすことにより、表立って、織田・徳川の同盟決裂との話に発展することはなかったのだった。
信長は新たな縁組として、家康の息子である秀忠と織田家の誰かをくっつけようと模索していたのだが、それを邪魔する事件が勃発する。
「今回という今回は本気でキレました!信雄くんとは親子の縁を切ります!あいつを二度と、南伊勢にある城から一歩も外に出さないように厳命してください!」
家康と同様に信長もまた、数多くの息子・娘たちが居た。だが、その中でも1番の不出来者が居た。その名は【信雄】である。信雄のすごいところは、あの有名な宣教師、ルイス=フロイスに「ひのもといちの馬鹿」とはっきり言われるレベルで馬鹿なところなのだ。
しかもたちが悪いことに、この男は信長の次男なのである。長男である信忠になにかあれば、次の嫡男候補として一番先に名があがるのはこの男なのだ。だが、こんな信雄でも取柄はある。歌や舞の才能はあるのだ。ただ、戦国時代の将において、必要な素質が全て無い。まったくもって無い。これが彼の不幸であったのだ。
だが、信雄は兄である信忠が父に寵愛されていることに日々、不満を募らせていたのだ。俺だって、兄者と同じことができると思い込んでいた。だからこそ、誰にも相談することなく、城に兵を集め、独断で伊賀に侵攻したのだ。
これが有名な第一次伊賀攻めである。結果はさんさんたるものであり、信雄は自分の直臣たちの多くを失い、命からがら、伊賀から撤退するのであった。
この独断専行に信長は激怒したのだ。信雄に親子の縁を切るとまで言わせた男はこいつだけである。だが、信長もまた甘い男であった。実際には親子の縁を切ることはせず、蟄居謹慎で済ませることになる。
「信長さまっち。信雄さまに寛大な処置、ありがたき幸せっす。俺っちが監視の眼を光らせておくっすから、安心してほしいっす」
「本当に頼みましたよ?一益くん。やれやれ。まさか、一益くんにすら一言も相談していなかったとは想いませんでしたねえ?」
信長は信雄の独断専行の事情を聞くために、安土城に北伊勢の領主である滝川一益を呼び出していたのだった。
「いやあ、俺っちにも寝耳に水のことだったっす。俺っちが気づいた時には、すでに信雄さまが出陣した後だったっすからねえ?」
「まったく。何のために一益くんを近くに置いていると想っているんでしょうか?信雄くんは。別に功をあげたいって言うのなら、先生だって、少しは考えますよ?そのためにも一益くんを近くに配置しているんですから」
信長は、ふうやれやれと吐息する。一益は、まあまあと信長を宥めるのであった。まあ、そんなどうしようもない信雄であったが、一益の弁明により、なんとか体面を保つことになったのだった。
信長は一益に信雄の監視を怠らないようにと厳命したあと、自ら兵をまとめ上げ、大坂の地で戦う信盛隊と合流を果たすのであった。
「おう。殿。なんか最近、心労がかさむような事件ばかり起こって、大変みたいだな?」
「ちょっと?のぶもりもり?いらないことを言うと、のぶもりもりを叱責しますよ?」
信長が機嫌悪そうに信盛に返答するのであった。信盛は、おっとしまった!と想いつつも、言葉を繋げる。
「殿がわざわざ大坂の地に足を踏み入れたってことは、とうとう、有岡城へと攻め込むのか?俺の隊からも兵を出そうか?」
「いえ。それには及びません。有岡城周辺の砦は、のぶもりもりに落としてもらっていましたし、あんな城ひとつ、誰の手を借りずともサクッと落としてきますよ。うっぷん晴らしも兼ねて、ことごとく、なで斬りにしてやります!」
うーーーん。なんか、すっごいうっぷんが溜まってんだなあと想う信盛である。
「まあ、有岡城は殿に任せておくわ。俺は石山本願寺からの救援を断っておくぜ?」
「はい。のぶもりもり、頼みましたよ?のぶもりもりなら失敗することはないと想っていますが、最近、流れが悪いというかなんというかですね?」
「まあ、ニンゲン、生きてりゃ、どうしても何をやってもうまく行かないことってあるもんさ。でも、義昭を筆頭に包囲網を敷かれた時に比べたら、こんなのどうってことないじゃんか?」
「それもそうですね。あと、先生はニンゲンではありません。今や、神です。そこのところは間違いないようにお願いしますね?」
信長の軽口に信盛は、はははっ!と笑ってしまうのであった。
それから、信長率いる1万の兵は有岡城を攻めることとなった。本願寺顕如からの救援も断たれた荒木村重に抗う術は何一つ残されていなかった。しかし、荒木はあるひとつの行動をとった。それが信長をまたしても激怒させることとなる。
「あ、あいつ、まさか、女房、子供を置いて、ひとりだけで逃げるなんて想ってもいませんでしたね!」
そう。荒木は全てを捨てて、ひとりだけ逃げたのだ。信長の怒りは収まる場所を失くし、その怒りを有岡城に残された者たちにぶつけるのであった。
「有岡城に残る全ての兵、荒木くんの嫁、息子たち全てを殺しなさい!あと、荒木くんがどこに逃げたか探しだしなさい!荒木くんを捕まえた者にはそれなりの領地を与えることを約束します!」
信長の命により、有岡城のほどんとの者たちが死罪を課せられた。しかし、肝心の荒木は、ついに信長が放った追手に捕まることは無く、まんまと逃げおおせたのであった。
「くううう!悔しいです。先生、こんなに悔しいことはありません!まさか、この包囲網を突破されるとは想いもしませんでした!」
「本当にすごいよな。5000もの兵を使って、山狩りをしたっていうのに、捕まえることが出来なかったもんな。荒木は逃げることにおいては、ひのもといちの武士なんじゃね?」
信盛もまた、まさか、この包囲網を突破されるとは想っていなかった。だからこそ、荒木の逃げっぷりに感心せざるをえなかったのだった。
もうひとつ、皆が忘れていたことなのだが、有岡城の地下牢からあの男が発見されることになる。
「ああ、二度と日の目を視ることはないと想っていたのでごわす。信長さまは、おいどんを救ってくれた神さまなのでごわす!」
そう。その男とは黒田官兵衛であった。秀吉が荒木村重を説得するために彼を有岡城に送ったのであったが、そこで消息を絶っていたのだ。竹中半兵衛が信長に官兵衛の息子を切らぬようにと説得していたのだが、信長自身はそもそもとして、官兵衛のことなどすっかり忘れていたのだった。
「あ、ああ。官兵衛くん。生きていたんですね?先生、てっきり、とっくの昔に死んでいたと想っていました」
「おいどんも生きのびれるなど、これっぽちも想っていなかったでごわす。これも信長さまの日頃の行いの良さが、おいどんを救ってくれたのでごわす!」
その後、官兵衛は無事、秀吉の元に送られることになる。秀吉もまた官兵衛の帰還に喜び、涙を流しながら官兵衛を抱擁するのであった。
「官兵衛殿。随分やつれてしまい、ましたね。それとあんなに色男だったのに、顔までただれてしまって、私としては残念極まりありま、せん」
「いやいや、命があっただけでもありがたい話なのでごわす。長い幽閉と虐待のせいで身体の一部がうまく動かせなくなってしまったでごわすが、なあに、頭の中身は無事なのでごわす。秀吉さまの役に立つにはこれで充分なのでごわす!」
官兵衛の左眼から左頬にかけて、火傷により皮膚がただれていたのだった。そして、左足はびっこをひくことになり、官兵衛は杖を使わざるをえない生活を余儀なくされた。だが、彼は口さえうまく動けばよかったのだ。この先、彼は数々の策を秀吉に提示し、彼の進撃を支えていくのであった。
有岡城が落城したことにより、ふたつの効果が生まれる。まずひとつは織田家の本国と秀吉の中国方面侵攻隊との輸送路が繋がったことだ。これにより、窮地に立たされていた秀吉隊は救われることになり、たっぷりと、兵糧が秀吉隊に送られることになる。
「ふう。ひさしぶりにお腹いっぱいに食べられたんだぶひい。子供たちが育ち盛りなのに、なかなかに食べ物を与えられなかった日々からおさらばなんだぶひい」
「まあ、田中のところは子だくさんだからなあ。この前、3人目が産まれたんだったよな。これで1男2女だろ?俺のところも男の子がほしいところだぜ」
「彦助くんのところは不思議やで?なんで男の子が産まれへんのやろな?椿くんが女の子をふたりと菜々くんは女の子ひとりやんな?わいのところは5年ほど前に、待望の男の子が産まれたんやけど、最近、娘の吉祥くんが万福丸くんと結婚した今、ふたりの間に男の子が産まれたら、どっちをわいの跡継ぎにしようか悩んでしまうところなんやで?」
「二人とも良いよなあ。男の子がいるだけでも。しっかし、あんまり子供の話って、ひでよしさまの前では言えないよな。いまだにねねさんとひとりも子供ができてないもんなあ。俺たちはともかくとして、ひでよしさまは跡継ぎをどうするんだろうな?」
「まあ、信長さまからいただいた信長さまの息子を跡継ぎにするほか、ないんじゃないのか?ぶひい。ひでよしさまは成り上がりモノだぶひい。これ以上、出世すれば、信長さまはともかくとして、織田家の将たちが良い顔をしない可能性もあるんだぶひい。ひでよしさまに子供ができないのも天の采配の可能性があるぶひいね?」