ー楽土の章26- 徳川家の跡継ぎ騒動
安土でのひと騒動も終わり、月日は流れていく。1579年8月の中頃には明智光秀による丹波国とその周辺の豪族たちを完全に屈服させることに成功したのだった。
丹波国の波多野一族は光秀の手により捕らわれの身となり、安土城へとその身柄を送られる。そして、そこで、信長直々の手で打ち首の刑とされるのであった。
「ふひっ。良い太刀筋なのでございます。信長さまは40半ばを過ぎても、日々の修練を欠かしていないことがよくわかるのでございます」
「ふむっ。鬼丸国綱もたまには使ってやらないと、その名が泣きますからね。さて、蘭丸くん。処罰は終わったので、その首級を一週間ほど城下町で晒したあと、丁重に念仏でも、お坊さんにあげてもらってください」
信長にそう言われた森蘭丸は、はっ!と若さを感じられる意気がこもった声で返事をするのであった。
「蘭丸殿も立派な武士に育ったようでございますね。今は亡き、森可成さまも、あの世で喜んでいるはずなのでございます」
「そうですね。蘭丸くんは良いお尻を持っています。もちろん、将としての才能も持ち合わせているところが憎らしいところですね。まるで、若き頃の利家くんを想い出す気分ですよ」
信長のお尻愛仲間である前田利家は、今、北陸方面指揮官の柴田勝家の寄力として活躍していた。信長はその利家に能登1国を与える旨をすでに通達していたのだった。
その報せを受け取った利家は感涙を流すのであった。彼も秀吉、光秀に遅れるながらも、やっと1国1城の主となっていくのである。
「ふううう。織田家のことはすでに各方面に信用できる将たちに任せているだけあって、最近は寂しい気持ちでいっぱいですよ。昔のように皆で同じ戦場に立って戦うことは、この先、無いのかもしれませんねえ?」
「それも致し方ないのかもしれないのでございます。丹波国の攻略が終わった僕くらいしか、暇な将は織田家には居ないのでございます」
「それもそうですね。光秀くん、お疲れ様です。しばらくは秀吉くんの援護くらいでしょうから、今はゆっくりと休暇でも取ってくださいね?」
「では、その休暇を使って、今井宗久殿、津田宗及殿たちとでも茶会でも開こうかと想うのでございます。信長さま。千利休殿をお借りしてもよろしいでございますか?」
「ええ、良いですよ?てか、先生をその茶会には誘ってくれないのですか?光秀くん。ちょっと、つれないんじゃないですか?」
「ふひっ。そうは言われても、せっかくの休暇なのに、信長さまを呼んでしまっては、仕事をしているのと変わらなくなってしまう気がするのでございますよ?」
光秀のツッコミに信長が、うぐっ!と唸ってしまうのである。
「ごほん。では、折衷案としまして、先生がその茶会の主催者になりましょう。それで、光秀くんは他の出席者共々、客人として招くことにしましょう」
「それだと、まるで信長さまを無理やり働かせているダメな臣下と想われてしまうのでございます!僕が主催者で結構ですので、信長さまは客人として僕に招かれてほしいのでございます!」
本当に、光秀くんは律儀なひとですねえ?そんなに先生に気を使ってばかりだと、将来、禿げてしまう、いや、すでにかなり禿げが進行していますねえ?と失礼なことを考える信長であった。
かくして、光秀は自分の直臣たちに丹波国とその周辺の統治を任せ、それと同時に、有岡城の荒木村重の謀反により、補給路を断たれ、物資が不足していた羽柴秀吉隊に救援物資を送る手筈を整えさせるのであった。
丹波国平定後の光秀主催による茶会は数十回に及ぶことになる。もちろん、信長もその茶会に参加していたわけであるが、信長は毎回の茶会で、どこから奪ってきたのか、拾ってきたのか、はたまた、買ってきたのかどうか出どころ不明な茶器の数々を披露することになった。そのため、誰が茶会の主催者なのか、わからなくなってしまったのである。
「ふっふひいいい!これだから、信長さまを茶会に招くのは嫌なのでございますううう!僕の顔に泥を塗るのはやめてほしいのでございますううう!」
「あ、あれ?先生、そんなつもりはまったくなかったのですが?それはさておいて、次の茶会では、唐の国の南で作られた壺を茶会に持って行こうと想うのですが?」
まあ、結局のところ、光秀が満足に休暇が取れなかったのは確かなのだろう。
さて、こんなそんなで、またもや月日が進む。1579年9月に入ると、信長の娘のひとりである五徳から、ある一通の書状が信長の手元に届くのである。
「ううむ。五徳くんは、本当に毎度、毎度、夫の信康くんに対する愚痴ばっかり書いてよこしますねえ。先生、いい加減、うんざりって、これ、どういうことですか!」
信長が五徳から送られてきた書状を握りしめ、ギリギリと歯ぎしりをしだすのであった。なんと、その書状の内容には、信長の盟友である徳川家康の正妻である瀬名姫と信康が、武田家と内通していると書かれていたのだった。
もし、これが嘘であったならば、信長は自分の愛娘である五徳を処罰する必要が出てくるのだ。いくら、夫に対する愚痴と言えども、明らかに越えてはいけない一線を軽々と飛び越えているのだ。
信長はこの書状の真偽を確かめるために、家康に安土城にて弁明するようにと要求するのであった。その信長からの招へいを伝えられた家康は、ついにこの時が来てしまったのかと、ふうううと長いため息をつくのである。
「酒井忠次よ。お前の好きのようにするのでござる。信長殿に、この徳川家で起きている争いを説明してきてくれでござる」
「はっ!わかったのでございます。信康さま、瀬名さまに寛大な処置が下るように、信長さまに申し開きをしてくるのでございます!」
家康は徳川家の命運を酒井忠次に全て任せて、安土城に彼を送り出すのであった。だが、酒井忠次は主君である家康の望みを完全に断つ気満々だったのが、家康にとっての不幸であった。
「はい。酒井忠次くん。返事はイエスかハイかのふたつにひとつでお願いします!」
「応えは単純。イエスでございます!信康さまと瀬名さまは、武田家に内通しているのは明白なのでございます!自分の主君である家康さまは、命ばかりは取らぬつもりでございますが、あの2人を徳川家に残しておけば、必ず禍根となるのでございます!」
「ちょ、ちょっと!?先生、悪のりしたつもりなんですけど!?本当に、あの2人を処分しろと。そういうことにしろと言いたいわけですか?忠次くん!?」
「その通りでございます。今、徳川家には二つの派閥が存在しているのでございます。ひとつは信康さま・瀬名さまを筆頭とした旧今川家の派閥。もうひとつは、純粋な三河武士たちとその首魁となられる秀忠さまの派閥なのでございます」
家康には数多くの子供が居た。その代表格として、秀康、信康、秀忠の3人であった。秀康は若き頃からの素行の悪さが眼につき、家康は徳川家の嫡男として、秀康を除外したのである。
そのため、秀康はほとんど歴史の表舞台にて活躍することはなかった。だが、それとは対照的に信康は着実に家康の跡継ぎとして、長篠の戦いという大舞台に参戦したりと、数々の戦で武功をあげていた。
そして、もうひとりの息子である秀忠は戦にこそ、才を発揮することはなかったが、政治力及び、本人の魅力は信康をはるかに超えるものを持ち合わせており、三河武士にとって、彼こそが次代の徳川家を継ぐべきだとの声が高まっていたのだった。
そもそもとして、徳川家は遠江攻略において、信玄の駿河侵攻が1度、失敗した折に家康は強硬策から今川家の家臣を懐柔する方向に転換したのだ。それが後の災いとなることになる。今川家に縁深い瀬名を担ぎ出したのだ。それと同時にその瀬名の息子である信康にも急接近したのである。
さらに間の悪いことにその旧今川家臣たちは徳川家を揺さぶるべく、動き出す。なんと、武田勝頼と繋がりを持ったのだ。それによって、旧今川家臣は急速に徳川家に対して影響力を大としていく。
家康にとっては信康は嫡男として育て上げてきた。だが、このまま、事態を放置すれば、徳川家は内側から崩壊することは眼に視えていた。家康としても忠次を信長のもとに送った時点でどうなるかはわかってはいた。わかっていたのだが。
「ふううう。事情はわかりました。家康くんと先生は盟友である前に親友です。家康くんだけが泥をかぶるのを避けるためにも、先生もまた、彼と同じ道を歩もうと想います。忠次くん。きみの言いを全面的に信じます」
「ははあっ!ありがたき話なのでございます!信長さまの命と通りに瀬名さま、信康さまを処刑するのでございます!では、自分はこれにてでございます!」
【信長の指示】として、瀬名と信康を処刑せよと家康に通達されることになる。信長からの書状を受け取った家康は、ふうううと深いため息をつき
「忠次、服部半蔵。あとは任せたのでござる。俺は少し、休ませてもらうのでござる。世は無情でござるなあ」
1579年9月15日。遠江の二俣の地で瀬名と信康はその命を散らすことになる。