ー花嵐の章 8- 本多正信という男
清州で開かれた会合により、織徳同盟が成立してから2週間後、2月に入り、季節は春に向けて歩んでいた。清州の城や町は同盟成立後、松平家からの客人たちでごった返していた。織田家の技術を松平家に取り入れようと、いろいろな分野の者たちがやってきていたのである。
「松平のひとたちは勤勉ですね。この姿勢は、ワシたちも見習わなければなりませんね」
「織田家が勤勉になったら、松平家が追いつけなくなるでござるよ」
織田信長と、松平家康は談笑をしている。
「そういえば、元康くん、あらため家康くん。改名しちゃったんですねえ」
「はい!俺の元康の「元」は、今川義元の「元」をもらったものでござるゆえ」
「なるほど。今川から独立した今では、邪魔になるわけですね」
「はい。今川に下賜された名前は使いたくないでござるからなあ」
「ところで、なんで「家」なんです?」
「ひのもとの国を平和にするとういう意味を込めて、国家を康んじる、家康でござるよ」
信長は、はははと笑う
「単純ですがわかりやすいですね、その名前。ワシは好きですよ、そのセンス」
「ありがとうでござる。安直すぎると家臣から言われて、少々、失敗したかもと思っていたでござるよ」
ところでと家康は言う
「正直、織田家から学ばなければならないことが多すぎて、大変でござるよ」
「例えばなんです?」
「座の管理ですかね。三河は今川に従属を長年強いられてきたので、税収のほぼすべてを今川に吸い取られ、三河の民はぼろぼろでござる。まずは農業と商業に力をいれていかねばならないでござるが」
家康がひとつ嘆息する
「信長どのの支援のおかげで当面の金と食料はどうにかなりましたが、独立独歩していくためにも、三河独自の商いの発展が必要でござる」
信長はふむと2度頷き
「急には楽市楽座政策は取り込めないというところでしょうか」
「そうでござる。まずは商人たちを誘引するために座の優遇措置をとろうかと。それが軌道にのったあとに、楽市楽座をもうけようかと思うでござる」
「まあ、妥当な案でしょうね。ですが一つ欠点がありますね」
「そうでござる。三河は独立したばかり。座を設けるための特産品がないでござる」
商人の座を優遇しようにも、三河には新規の商人たちが目につけるほどの特産品がない状態である。これでは誘引力が弱い。三河の隣には魅力的な商業の場である尾張があるのだ。その尾張に負けない特産品が必要になる。
「でゅふ。殿、三河にも特産品はあるでもうすよ」
急に後ろから声をかけられ、振り向くとそこにはビン底眼鏡の長身細身の男が立っていた
「でゅふ。それは大昔、三河にて作られていたものでもうす」
「本多正信。それは本当でござるか」
本多正信と呼ばれたその男は、古い書物を手にとり、ある頁を開いて、こちらに見せてきた。
「このふわふわの綿がついた草はなんでござるか?」
信長は、はっとする。
「家康くん。きみ、すばらしい部下をお持ちですね。本多正信くん。いい着眼点です」
信長は手放しで、正信を褒める。家康はどういうことだとハテナマークを頭に浮かべる。正信はでゅふを2度繰り返し
「殿、これは綿花というものでもうす。南蛮ではこれを服の材料としているのでもうす」
「ふむ、それがどうしたでござる?」
正信はビン底眼鏡を人差し指で、くいっと一度上げ
「でゅふ。この戦国の乱世で、服の素材で大儲けしている大名が実際にいるでもうす。その名は」
「上杉謙信ですね。彼の治める土地はカラムシの日本一の生産地です」
現代日本人には馴染みが浅いカラムシであったが、日本では平安時代から戦国時代中期にかけて衣服の主力材料であった。麻より柔らかく暖かく、絹より断然にやすい。それがカラムシでつくられた衣服の特徴である。
「さすが、信長さまでゅふ。ご存知でしたか」
「それと綿花がなにと関係あるでござるか?」
正信は思う。家康さまは鈍いでゅふと。対して、信長さまは鋭いというより、鋭すぎる。この方にはあまり、からめ手を使ってはいけないでゅふな。気を付けよう。
「でゅふ。綿花はカラムシより暖かく、肌触りがよく、割と安価で栽培できるでもうすよ」
家康は、あっと声をあげ
「大昔に三河で綿花が栽培できていたということは、三河が綿花栽培に適しているということでござるな」
正信は頷き、続きを言わせる
「その綿花を特産品として、座を設け、商人を誘引し一大商業に発展させればいいのでござるか!」
正信はよくできましたとばかりに、ぱちぱちと数度、両手をうち
「さすが殿でもうす。そこで、信長さまにお願いがあるでもうす」
「はい。綿花の独占生産および、独占販売権がほしいというわけですね」
やはり読まれていたでゅふか。読まれついでにもうひとつ頼みごとを言っておこう
「伴天連の綿花栽培に詳しいものと、綿花の種を融通してくれるものを紹介してほしいのでゅふ」
「これは大きくでましたね、正信くん。それに対して織田家は何をもらえるのでしょうか?」
「おい、正信、だいじょうぶなのか。うちに代わりになるものなんてあるのか?」
心配そうに家康が正信の顔を見てくる。でゅふ。脳みそ筋肉の三河において、唯一無二の内政役・本多正信に任せてほしいところだ。
「5年、いや、3年以内に松平から兵3千の常備軍を編成し、信長さまの美濃攻略支援にあたらせていただくでもうす」
さらにと正信は続ける
「家康さまの嫡男と、織田家の姫さまとの縁談を提案したいと思うでゅふ」
信長はふむと思考する。綿花の独占生産、独占販売権を与えれば、兵農分離のための資金も稼げ、兵3千ならねん出できるであろう。それに婚姻を向こうから持ち掛けてきたのも大きい。こちらから姫をだしても大切にされるだろう。人質扱いにはならないはずだ。
信長は冷徹に思われるかもしれないが、裏切らないもの対しては心底甘い。いや、裏切ったものに対しても甘い。2度謀反を起こした信勝の息子すら、養育しているほどだ。そしてこの婚姻、旨みがあるのは織田家のほうである。松平家からは裏切らないという確証をもらえたようなものだ。
「わかりました。美濃攻略だけでなく、これから天下を狙いに行くのにおいて、松平家が大きくなるのは、こちらも願ってもないこと」
ですがと、信長が言う
「それは正信くんの考えであって、家康くんのとは違います。家康くんはどう思いますか?」
俺はと家康が言う
「俺は、正信と違って戦馬鹿だから内政には疎いでござる。だが、正信は俺の相棒だ。正信が良いっていうなら良い策なんだろう、これが」
そして、正信の眼をまっすぐ見つめ
「おい、正信。もし、お前が何か裏で考えてのことで失策になったとしても、俺は咎めねえ。俺が良いって言った以上、上司である俺が責任とることだからな」
家康は、まっすぐ正信を見つめ言う。
「だから、安心して、お前はお前が最善だと思う策を進言しろ。それをやっていいか悪いかは俺が決める。そして、俺が責任をとる」
正信は心底まいったなあと思う。これだから、この人は放っておけない。童のように部下を信じている。信じられている以上、この御仁が被害を受けるようなことは部下として避けなければならない。
「信長どの。俺の腹は決まったでござる。兵3千、ねん出するから、綿花の独占権をくれないか?」
困りましたねえと信長は思う。実際のところ、無料で独占権を渡してもいいのだ。だがこれは国同士の交渉なのである。無料でゆずったからと言っても必ず何かしらの貸し借りになる。意図のわからない貸しを作るくらいなら、いっそ、それならわかりやすく、兵を借りておきますか。
「はい、わかりました。証書は村井貞勝に準備させますので、あとで正式に取り決めを交わしましょう。婚姻の件もお忘れないように」
「ああ、そうであった。うちの倅は将来たのしみなやつだから、安心してほしいでござる、信長どの」
「その心配より、うちから出した姫が息災に暮らせるかどうかのほうが重要なのですがね」
はははと、家康は続ける。
「そうだ、信長殿。うちの倅の名前に、信長殿の名前をいただけないか?」
「といいますと?」
「信長さまの「信」の一字をもらって、信康と名付けたいんだ、いいでござるか?」
「それはいいですが、まだ、小さいですよね?そんな先のこと、今、決めていいんですか?」
「ははは、男の子はすぐに成長するものでござる。今のうちに決めておいて損はないでござるよ」
交渉事も終わり、談笑に移りかけていたところに村井貞勝が走ってくる。
「の、信長さま、一大事でござるのじゃ!」
「どうしました?勝家がまた何かこわしました?」
「ちがうのじゃ!犬山城の織田信清さま、ご謀反ですのじゃ!」
どうしてこう、織田家は騒がしさにおいては、ひのもといちなのであろうか。
頭を抱える信長であった。