ー桶狭間の章 3- 決戦直前 信長の苦悩
木下秀吉。今はまだ、部下50名を率いる足軽組頭である。その半数に農民の恰好をさせ、桶狭間山に陣取る、今川本隊の饗応役に任じていた。
とは言っても、秀吉自身が農民あがりであり、部下もまた、農家の3男、4男坊たちだった。適任といえば適任の配置である。残り20名は、信長本隊との合流地点である、桶狭間山のふもと1kmの林の中に潜んでいた。秀吉はつぶやく
「あ、雨があと1時間もせず、あ、上がってしまいます」
19日午前11時より、桶狭間山の陣を見張っていた秀吉は空を見上げていた。今は正午を半ばすぎていた。今川義元着陣の伝令はすでに信長本隊に送っている。
あと30分もしないうちに、信長本隊はここにやってくるであろう。やるべきことはやった。しかし、もう一手ほしい。そのためには、雨が遅すぎず、はやすぎず降りやまなければならない。半ば、自分に言い聞かせるように秀吉は言った。
「て、天は勝者に、み、味方するといいますから!」
そうこうしているうちに時はすぎ、19日午後1時、信長本隊1300名、信盛隊700名が桶狭間山ふもとの合流地点に集まったのである。小雨降り注ぐなか、小規模ながら最終軍議が行わていた。
秀吉は報告する。
「現在、前方1km先の丘の上で、今川義元が陣を、構えており、ます。末端の兵たちは戦勝気分に浮れ、振る舞われた、お酒に興じており、ます」
秀吉は、一呼吸おき、続けた
「ただ、義元の近習は戦闘態勢は解除しておらず、奇襲がせ、成功したとしても、義元までたどりつくには困難、かと」
信長は右手で頭をかきつつ
「困りましたねー。意外と兵がいますねー。ざっと見て5000ほど?周りの兵は無視するとしても。近習。これ500は居るでしょ」
近習とは本隊付き親衛隊のことである。織田家では馬廻り、母衣衆がそれに相当する。その黒母衣衆筆頭・河尻秀隆が答える
「さすが三河・遠江・駿河の3国支配しているだけあって、他家とは違い、揃えておる」
今回の奇襲成功の最低条件は、義元に手傷を負わせることである。命を獲れないまでも手傷を負わせれば、必ず兵を退く。このまま突撃をしても、農民に武装させただけの4500は浮足だつであろうが、近習500は死兵と化し、10倍の敵にも匹敵する。
何か起きれば、近習たちは必ず、義元を無事に本陣から退却させるであろう。そして、もう一つ問題がある。佐久間信盛が言う
「殿。成功にしろ失敗にしろ、戦局が決まったら、一気に離脱しなければならないぜ。下手にとどまれば、我ら全員、包囲される」
信長は、すっとんきょうな顔をしながら
「え?失敗したら、きみ、残ってくれるんでしょ?」
いや、まてよと信盛は喰ってかかる
「しぬしぬしぬ!むーり無理むりかたつむり!失敗する前提の話より、成功率あげる策でも考えろー!」
でもと、信長は続ける
「きみ、泥沼戦は得意なのに攻め手には欠くんですよねー。そんなんだから婚期が遅れてるですよ」
「関係ない話、やーめーてー!傷をえぐらなーいーでー!」
「利家くんは、話が来てから結婚するまで早かったですね。おまつちゃん、12歳でしたっけ」
いまや隠れることもしなくなっていた利家は、ハキハキと答えた
「はい!去年、結婚しましたッス!でも、おまつも、信長さまも同じくらい好きでッス!」
ええっと信盛が目を見開き驚いていたところ、さらに利家は続けた
「実は、俺、秀吉とまぶだちなんッスけど。秀吉のやつ、この前、祝言をあげたばっかりなんッスよ」
ええええっと信盛は、猿面冠者を驚きの表情で見た。
「なんで、自分。こんな死地にいるの!殿、なんてことしてんの!」
秀吉は両腕を前に突き出し、ぷるぷると両手を振りつつ
「お給料。よくて。あと頑張ればもっと、出世でき、ます。信長さまは、農民あがりでも、取り立ててくれまっす!」
わからん。なぜこんなに人望あるんだろ、殿は。信盛は不思議に思いつつも、顔を信長に向けた。信長は、ふふんと鼻をならし、やや上機嫌に
「のぶもりもり。きみ、300で撤退路の確保しといてください。200づつ、佐々くんと利家くんに持たせます。二人には先駆けを担当してもらいましょうか」
では、と河尻は右手にもった扇子を左手にぽんと2度たたきながら
「黒母衣衆500は、わたくしが率います。のこり800は信長さま直轄になろうかと」
のこりはどうしますか?と河尻が尋ねると、秀吉が接収するといことで落ち着いた。
利家は、一時とはいえ、久々の部下持ちに戻った。実は利家は自宅謹慎となるまえは、黒母衣衆と対をなす、赤母衣衆筆頭であった。
語尾にッスとつける辺り、軽く見られがちであるが、信長の小姓上がりの超エリートであったりする。事件を起こす去年までは、利家、20代前半ですでに、10歳は違う、河尻と同格だったのである。
隊長、おかえりなさい!と、元部下たちに挨拶され、長さ50cmの手槍を5本、腰に回した縄で右腰にくくりつけ、左手には1m半の愛用の十字槍を携えていた。ふっふっと息を吐き、軽く十字槍を3度、突き出し、槍が手になじむのを感じるままにした。
「信長さま。見ててくださいッス。義元までの道はつけるッス!」
一方、200名を任された佐々は昂揚してくる心を必死におさえていた。黒母衣衆所属ではあったが200名もの直属の隊を率いての合戦は、佐々には、これが初である。
佐々が愛用する武器は、長さ1m半の片鎌槍と、腰につけたやや長めの太刀である。佐々は若い兵たちのほうに顔を向け
「ん…。全員、突撃準備。ただし、生き残れ」
秀吉は空を見上げていた。接収した兵を合わせれば100はくだらない。兵たちは各々で準備を整えている。秀吉は鉄の棒を右手に携えていた。
同じように部下20名にも鉄の棒をもたせている。秀吉個人の武勇は利家に比べれば半分にも満たない。だがそれを補うだけの才をもっている。ただ、その才が発揮されるには時が絡んでくる。秀吉は空をじっと睨み
「あと一手。あと一手なの、です!」
信長は自問していた。もし、この戦いを生き延びた先、ワシはどこに向かうべきかと。義元に手傷を負わせて撤退させたとしても、一時しのぎにしかすぎないのではないか。
義元はきっと再起して、また尾張に侵攻してこよう。やはり、逃してはならぬ。だが手が足りぬ!熱田神宮に座します神様。どうかこの信長に天運をあたえたまえ!