ー巨星の章12- 落ちぬ野田城
「何をやっているのだわい!お前たちはっ」
信玄はいらつきを隠せず、自分の家臣たちを怒鳴っていた。三河の野田城を攻略し始めてから早3週間が経った今でも、一向にかの城を落とせそうにないからだ。
「す、すまないのでござる。敵方の城からの反攻が思った以上に激しくて、中々に攻めづらいのでござる」
馬場信春は頭を低くし、信玄に平謝りをするのである。
「馬場殿の言う通りなのでごじゃる。これほどまでに頑迷に守られていては、こちらの損害が増える一方なのでごじゃる。ここは野田城の攻略を諦めて、西進を急ぐことにするのでごじゃる」
内藤昌豊が、そう弱気な案を信玄に提言する。その言葉にますます信玄は苛立ち
「お前ら、何を言っているのだわい!ここを落とさずして西進などしようものなら、家康が再起して、わしらの後ろから攻めてくるに決まっているのだわい。家康も馬鹿ではないのだわい。2度も三方ヶ原の地での惨敗を繰り返すことはないのだわい!」
内藤は信玄に叱られたことにより、なよなよと、ひざを折る。武田を代表する2将が信玄から叱責を受けている所に本陣へと2人、飛び込んでくる。
「殿、やられたので候!馬の餌に毒を仕込まれてしまったので候。武田家の所有する馬の半分がしばらく活動不可能になってしまったので候!」
「すいません、信玄さまあ。小荷駄部隊を襲われてしまったのでございます。よくよく注意はしていたのでございますが、霧の中を朝駆けされて、武田家の食料事情が危険でぴんちでございます」
本陣に駆けこんできたのは、山県昌景と高坂昌信である。山県は馬の被害の報告を、高坂は兵糧の被害を訴えてきたのである。
「き、さ、ま、らああああああ!散々、注意しろと言ってきたのだわい!何故に、やられるとわかっていることを未然に防げないのだわい。武田四天王の名を汚すななのだわい!」
信玄は、山県と高坂を叱り飛ばす。2人は涙を流し、およよよと嘆きながら、ひざを折り、両手を地面につけ、泣き崩れるのである。
「畜生なのだわい!なぜに、こんな小城ひとつ落とすのに、3週間もかけなければいけないのだわい。しかも、朝倉義景は一体、何をしているのだわい。散々に、越前から出てきて、京の都を襲えと言っているのに、一向に越前から出陣する気配がないのだわい!」
「しかし、殿。越前は信濃より雪が多く降る、豪雪地帯なのでござる。そんなところを越えて、京の都を襲えと言われても朝倉義景でなくても無理なのでござる」
「うるさいわい!そんなことはわかっているのだわい。それでも、下級兵士の何人かが死のうが、今は無理やりにでも豪雪地帯を越えて出陣しなければいけない時なのだわい。あいつはそんなこともわからぬ馬鹿か腑抜けなのかだわい!」
「おい、内藤。やばいでござる。殿が怒りで理性を失ってしまっているのでござる。領民にだけは優しい殿の言いとはとても思えぬのだわい」
「殿が領民にだけ優しいのは、自分の領地だけでごじゃる。越前は他人の領地でごじゃる。そこの民が何人、寒さで死のうが殿には無関係なので、その例えは正しくないでごじゃる」
「ああ、そうだったでござる。拙者のほうが間違っていたでござる。越前の民は殿のために死ねばいいのでござる。朝倉義景め、何を出し渋っているでござるかっ!」
馬場の言いに、山県が、はあやれやれと嘆息する。そして、信玄にあえて諫言をする。
「殿。朝倉は、浅井が信長を裏切ってからここ数年、ずっと出兵続きで候。満足に毎年の苗付けが出来ずに、疲弊していくばかりで候。ここは朝倉抜きで考えたほうが良いで候」
しかし信玄は怒りで赤くなった顔をさらに赤くし、まさにどす黒い顔になっていく。
「山県、言葉を慎むのだわい!朝倉がいくら疲弊しようが知ったことではないのだわい。信長を織田家を滅亡させることができる際の際のところまで来ているのだわい!将軍・足利義昭さまからは、我らが岐阜に到着するころには、京の都にて蜂起をすると言ってきているのだわい。ここで、朝倉が義昭さまを援護せねば、誰が義昭さまをお守りするのだわい!」
「信玄さま、それでも朝倉には酷な話なのでございます。僕の顔に免じて、朝倉の出兵は許してほしいのでございます」
高坂の言いに信玄は苛立ちを抑えきれなくなり、椅子から立ち上がり、目の前の机をガンッと蹴飛ばし、ひっくりかえすのである。
「朝倉はこの武田家の西進計画において、最重要なのだわい!これについて、わしにこれ以上、意見をすると言う者があれば、即刻、その首級、叩き落として、カラスの餌にしてくれるのだわい!」
山県、高坂の陳情にも、信玄は全くもって耳を貸すことは無いのである。しかも、これ以上、何かを言えば、本当に首級を叩き落とされる恐れがある。山県と高坂は、黙って視線を地面に落とす以外、術はなかった。
「紙と筆を持ってくるのだわい!再度、朝倉に出兵するよう、書状を送るのだわい。ええい、誰なのだわい、机をひっくり返したのは!これでは、書状が書けぬのだわい」
馬場、内藤、山県、高坂が無口のまま、信玄に対して、右手のひとさし指を突き付ける。信玄は、ぐぬぬと唸り
「ええい、いちいち細かいことを指摘するのでないのだわい!そんなことより、机を直すのを手伝うのだわい。くそっ。なんで、こんなでかい机なんぞ、本陣に持ち込んだのだわい。責任者を連れてくるのだわい。即刻、首級を叩き落としてやるのだわい!」
またしても、馬場、内藤、山県、高坂が無口のまま、信玄に対して、右手のひとさし指を突き付ける。信玄は、ぐぬぬと唸り
「貴様ら、何かの嫌味なのかだわい!言いたいことがあれば、指で差し示せずに、何かを言えばいいのだわい」
信玄の言いに馬場、内藤、山県、高坂が自分たちの口に両手で蓋をし、プルプルと首を左右に振るのである。信玄はまたしても、ぐぬぬと唸り
「わかったのだわい。さっきは言い過ぎたのだわい。首級を叩き落とすことはせぬから、何かしゃべるのだわい」
信玄がさきほどの発言を撤回することにする。すると、4人は、ほっと安堵の息をつき
「ふう。助かったのでござる。余計なことを言ったら、本当に殿に首級を叩き落とされると想っていたのでござる。拙者、さすがに肝が冷えたのでござる」
「ぼくちん、ちょっとだけ、じょじょじょじょと漏らしてしまったのでごじゃる。いやあ。あれほど怒り狂った殿を見たのは、父・信虎さまが殿を嫡男から排斥し、追放するとの話を知った時以来なのではごじゃらぬか?」
「うむ。内藤殿の言う通りで候。あの時の殿は、本当に怖かったで候。信虎を逆に国外追放してやるぜ!と、馬の上で仁王立ちをしていた時のあの形相だったのござる。子供心ながら、すべての悪をその炎を焼き尽くすと言われる、不動明王の如くで候」
「僕、これほどまでに怒った信玄さまは初めてだったので、お尻の穴がきゅっと締まってしまったのでございます。これはあとで信玄さまにほぐしてもらわないと、お通じがわるくなってしまうのでございます」
信玄は、右手に持った軍配の先っちょでぽりぽりと頭をかく。
「ええい。頭を冷やしてくるのだわい。少し席をはずずゆえ、馬場と内藤は軍の指揮を任せたのだわい。あと、山県と高坂はちらかった本陣を元にもどしておいてくれなのだわい」
4人は、はっ!と応える。その返事を受けた信玄は、どっこらしょと椅子から立ち上がり、本陣の陣幕の布をどけて、外に出る。
本陣から少し離れた丘陵の草の上で、信玄はひざを折り、両手を地面につけ、四つん這いになる。
「がはっげふっごほっ!ああ、これはついに来るときが来てしまったのだわい」
信玄は苦しそうに咳をする。あまりにも咳が止まらぬため、胃の中の物が食道を逆流し、地面に全部、出てしまう。
「はあはあはあ。家康に三方ヶ原の地で完勝しておきながら、まさか、野田城で足踏みさせられるとは思っていなかったのだわい。わしの人生はいつもこうなのだわい。良いことがあったと思った矢先に絶望が押し寄せてくるのだわい。うおぅ、げほっがほっ!」
信玄は咳をしながら口を手で押さえる。その手のひらに胃の中身とは違った、また別の液体のぬくもりを感じることになる。信玄は、自分の手のひらを見ると、そこには真っ赤な液体が付着しているのである。
「ああ、これは思った以上にまずいことになっているのだわい。京の都の名医の薬でもごまかしきれぬところまで、きているのだわい」
信玄は一通り、吐しゃ物と血を吐いたあと、草むらの上で大の字になって寝ころぶ。見上げた空からはちらほらと雪が舞い降りていきていた。
「武人の本懐は戦の場で死ぬことと言われているが、わしもまさかその本懐を成し遂げれるとは思っていなかったのだわい。ああ、京の都の女子たちと組んずほぐれず、三日三晩、いちゃいちゃし放題の夢は、ここで潰えてしまうのかだわい」
信玄は何かを恨むかのように天を睨みつけていた。しかし、数分後、これもやむなしかと思うと、ふっと息を吹き、こわばった身体から力を抜く。
「まあ、廃嫡寸前だった男が、天下を牛耳る男を追い詰めかけただけでも、立派な人生だったのだわい。あとは勝頼にでも任せるのだわい。馬場、内藤、山県、高坂がいれば、きっと、信長を京の都から追い落とすことができるはずなのだわい。わしは疲れたのだわい。少し、ゆっくりさせてもらうのだわい」
信玄はそう言うと眼を閉じる。すると、今までの自分の人生での名場面があれよあれよと脳内に再生されてくるのである。信玄はかつての戦の数々を想い出しながら、満足気に寝息を立てて眠りに堕ちることになるのであった。