ー放虎の将18- 逃げて逃げて逃げて
「影武者7号、8号。25人を引き連れて、南西に向けて走るのでござるううう!」
家康は焦っていた。未だ、武田の騎馬150余りがこちらに向けて、全速力で追ってくる。浜松城まで残り1キロメートルの地点までやってきていたのだ。ここに来て、ついに家康たちは高坂に追いつかれることになる。
「友情の7号、しかとその命令を承ったでございます!半分の25人は、おいらに付いてくるんでございます」
「だども、ただでさえ少ない人数を半分に割って、大丈夫なのだべか?おら、家康さまが心配なんだべさ」
「家康さまの運を信じるのでございます。お尻にたっぷりウンコがついているんでございます。こんなに縁起の良いことはないのでございます!」
「そんなこと、力説しなくても良いのでござるううう!そんなことよりも、さっさとお前ら、逝くでござるううう!」
「そうだったべ!家康さま、無事に生き残ってほしいんだべ。影武者・徳川家康ーズの命、全て、持って行ってほしいんだべ!」
「さあ、8号、今日は死ぬにはもってこいな日なのでございます。家康さま、草葉の陰から徳川家が発展していく姿を見守っているのでございます!」
「すまないでござる。すまないでござる。お前たちの墓前には、たっぷりの赤味噌を供えさせてもらうでござるううう!」
家康は涙を流しながら、影武者7号、8号たちに別れを告げる。7号と8号はにっこり笑い、家康を見送るのであった。
高坂は家康と思わしき3人組を50人の集団の中に見出していた。だが、ここにきて、敵はさらに半分に分かれ、しかも、家康と思わしき男が2人、南西へと進路を変えていく。
「これはどういうことでございますか。少ない人数をさらに半分にするのでございますか!ええい、今度ばかりはどちらに本物が居るのかわからないのでございます!」
高坂は想う。普通に考えれば、家康本人を1人残して、南西に向かった2人のどちらもが影武者である可能性は非常に少ない。必ず、最後まで敵を欺くために、影武者とセットで動くはずだ。ならば、南西に向かったほうに自分も追うべきだ。
だが、もしも、あの1人で行動している将が本物だった場合はどうするのでございますか!
「ええい!わからぬのなら、両方、追うまででございます。三枝殿、騎馬30を率いて、まっすぐ浜松城に向かう25人を追ってくださいのでございます!影武者の可能性は高いのでございますが、決して、逃がさず、討ち取ってくださいなのでございます。自分は南西に向かった25人を追うのでございます!」
高坂は賭けに出た。ここで1人で行動をするような家康ではないとふんだのだ。高坂は残りの120の騎馬隊を率いて、南西に向かった方を追うのであった。
その高坂の大失策に喜んだのは家康本人である。
「やったでござるううう!追ってきた大部分の騎馬軍団が、まんまと俺の策にハマってくれたのでござるううう。騎馬30程度が相手なら、1人が1騎馬と相討ちになれば、残りは5騎馬でござるううう。あれ?計算が合わないでござるぞ?これでは捕まってしまうのでござるううう!」
「皆さん、塊を作ってくださいなのでしゅ!イワシは1匹1匹弱いでしゅが、集まれば端っこに泳いでいるイワシから喰われて、中心のイワシは助かるのでしゅ!」
家康は、残り少なくなったお供の中に、軍の指揮を執れる人物が残っていたことに驚くのである。
「お前、一体、どこから湧いたでござる?てっきり、徳川家の将たちは、全員、離れ離れになってしまったとばかり思っていたでござる。って、お前、平手汎秀殿でござるか!なんで、こんなとこに居るのでござる!」
「すいませんなのでしゅ。家康さまが浜松城から飛び出していったので、こっそり、戦場に付いていったのでしゅ。言い出す機会を失ったまま、ここまで、家康さまの後をずっと追いかけていたのでございましゅ」
「汎秀殿は、信長殿の家臣でござるぞ!こんな、信長殿の忠告を聞かなかった俺など、放っておいて良かったのでござるううう!」
「これも運命なのでしゅ。家康さまに昨晩、抱かれた身体がつい、うずいてしまったのでしゅ」
「あれは、汎秀殿がかわいかったから、つい抱いてしまっただけでござるううう」
「家康さま、かわいいなんて言ってくれてうれしいのでしゅ。ぼく、産まれてきてよかったのでしゅ」
汎秀はそう言うと、集団からひとり離れていく。
「汎秀殿おおおおお!汎秀殿おおおおお!」
家康の絶叫がこだまする。汎秀はひとり、追ってくる30の騎馬に向かって走っていくのである。家康はそれを止めようと、汎秀に向かって手を伸ばす。だが、周りの者たちは家康を担ぎあげ、決して汎秀殿の方には振り向かぬとばかりの決死の形相でしかも、全員、血涙を流しているのであった。
「お前ら、汎秀殿を止めるでござるううう!汎秀殿が死んでしまうでござるううう」
「殿、いけませぬ!汎秀殿はわざと集団からはぐれたのでござる。我らを家康さまを逃すためにその命を使い切ろうとしているのでござる!」
家康は両眼から涙を流す。汎秀は敵の騎馬隊にまさに飲みこまれようとした瞬間、家康の方を振り向くのである。家康は見た。汎秀殿の顔は確かに笑っていた。
「家康さまが無事に戻ってこれたのだ!皆の者、門を固く閉じるのだ!」
忠勝は家康が浜松城の城門をくぐるやいなや、城に戻っていた兵士たちに命令する。
「忠勝、そんなことをすれば、まだ戦場に残っている皆が城に入れないでござるううう。せめて、あと10分、城門を閉じるのはやめてほしいのでござるううう!」
「それはできない相談なのだ!城門を閉じるなのだ!」
忠勝の号令の元、浜松城の城門は閉じられていく。家康は、あああああああと嗚咽を漏らしながら、閉じていく城門を見続けていた。
「俺が、俺が、皆を。徳川の兵士たちを殺したでござるううう。こんなことになるのであれば、浜松城から出陣するのではなかったでござるううう」
家康は、両ひざを折り、がっくりと地面に四つん這いになる。そして、大粒の涙をボロボロと流し、自分の失策を悔やんでいた。
「殿、ご帰還、うれしく思うのでござる。なあに、徳川家の兵士たちは存外にしぶといでござる。今頃、皆、その辺の林や森に隠れているでござるよ」
忠次が、そう言い、家康を慰めようとする。だが、家康は泣きやまない。傍から見れば、家康は閉じた城門に向かって、土下座をしながら泣いているようにも見える。忠次は、どうしたものかと思案にくれる。
「殿。そんなとこで泣き崩れていては、皆の邪魔になるでござる。泣くのであれば、屋敷の部屋にて、たっぷり泣くと良いでござる」
「忠次。今回ばかりは俺は俺自身を心底嫌いになりそうなのでござるううう。1万2千の大半がいまだ、場外で戦っているのでござるううう。それを置いて、ひとりおめおめと、浜松城に生きて帰ってこれたことが、恥に思えて、心が折れそうなのでござるううう」
家康の言いに、これは心底まいったといわんばかりの顔付きになる忠次である。徳川家の主だった将たちは、先に帰還を果たしていた。しかし、1万もの兵士たちは、城門を閉じることにより、帰る場所もない。下手をすれば、その逃げ遅れた半数近くが武田家の捕虜になりかねない。
忠次自身も、部下の兵士たちを置いて、一目散に浜松城に逃げ帰った身であり、泣き喚く家康にかける言葉も見つからないのである。
言う言葉も見つからず忠次はただ、家康が泣き崩れるの見ていた。だが、この男だけは違った。
「一体、いつまでメソメソと泣いているなのだ!家康さまが徳川家の筆頭なのだ。生き延びたことを嬉しがっても、部下が死んでいくのをいつまでも悲しんでいてはいけないなのだ!」
忠勝がそう家康に叫ぶ。そして、次に取った行動は、地面に四つん這いになって泣いている家康の腹めがけて、思いっきり蹴りを喰らわせる。家康は腹に受けた衝撃により、最後の一粒を尻の穴からひねり出されることになる。
「何をするのでござるううう。我慢していた、うんこが全部、出てしまったのでござるううう」
「うんこを漏らすことくらい、何の恥でもないなのだ。おいらも、今頃、便意が襲ってきているなのだ!あいたたたたなのだ。これでは家康さまを元気づけることができないなのだ」
勝家が苦しそうに腹を抑え始める。そして、よれよれと、両ひざを折り、忠勝もまた四つん這いになるのである。
「忠勝、一体、何をしているのでござるか。殿を元気づけようとした矢先にそれでは、恰好がつかぬでござるぞ?」
忠次が呆れ顔で忠勝に言うのである。
「うううううん。なんで、忠次殿だけ、平気なのだ?一緒にあの薬を飲んだはずなのだ」
「はははっ。忠勝とは鍛え方がちが、うおおおおおおおお!」
忠次が笑った瞬間、腹に激痛が走り、ぎゅるるるるるうううと豪快に腹が鳴りだす。
「殿、忠勝。拙者はもうダメなのでござる。厠に行かせてもらうでござる!」
忠次が腹を手で抑えながら、ゆっくりと屋敷の厠に向かっていこうとする。だが、忠次は両足を誰かに捕まれ、すっころぶことになる。
「誰でござるか。拙者は今、危険がピンチなのでござる!例え、殿と言えども許さないのでござる」
忠次の足を掴んだのは、家康と忠勝であった。彼ら2人は、にっこりと笑い
「忠次。水臭いのでござる。先ほど、お前は言ったでござる。うんこは皆で漏らせば怖くないでござる」
「さすが家康さまなのだ。有言実行なのだ。では、おいらはお先に逝かせてもらうなのだ」
忠勝はぶりぶりっ!と言う音を尻から響かせて、地面に横たわるのである。忠次は苦痛に歪んだ顔で忠勝を睨みつけるが、たいして、忠勝は全てを解き放ったような、菩薩のような微笑みを浮かべるのである。
「くっ!信玄に謀られたばかりではなく、殿や忠勝に謀られるとは思わなかったのでござる!去れ、拙者の便意。拙者はこんなうんこまみれの仲間にはなりたくないのでござる!」
「俺は今回の戦で多くの仲間を失ったと思っていたでござる。だが、それは間違いだったでござる。やはり、男と言うものは一度、おぎゃあああと産まれた以上は、うんこを漏らすものでござる。さあ、忠次、今こそ、俺に真の忠臣である証を見せるのでござるううう!」