ー放虎の将15- 家康・忠勝 逃げの算段
家康は忠勝に殴られた左頬をさすりながら、忠勝の言いをコクコクと頷きながら聞く。
「忠勝、その希望とは一体、なんでござる?忠勝が俺の代わりに突貫してきて、信玄の野郎の首級を取ってきてくれるでござるか?」
「何を言っているなのだ。おいらは逃げさせてもらうなのだ。ここでの戦いは負けたのだから、後は逃げて逃げて、逃げまくることなのだ」
「ちょっと、待ってくれでござる。お前に今、逃げられては俺はどうしろと言うのでござる」
家康は今や泣きそうな顔になっていた。1万2千もの兵を開戦から2時間もせずにその半数を崩壊させられ、あとは破れかぶれの突貫だけだと思っていた。その矢先に自分の副官である男が逃げ出すと言い出したのだ。
「何を言っているなのだ。家康さまもおいらと一緒に逃げるに決まっているなのだ。ただし、ここにいる本隊の残りには死んでもらうことになるのだ。家康さまを逃がすためにその身を犠牲にしてもらうなのだ」
「なんと!俺に全てを捨てて、逃げろというでござるか。そんなことになれば末代までの恥になるでござるううう。それだけは出来ないのでござるううう!」
「逃げるのは何の恥でもないなのだ。戦は生き残ったものが勝ちなのだ。家康さまが浜松城に無事に逃げ帰れれば、実質、勝ちなのだ!」
「忠勝、お前、さっきはこの戦は負けだと言ったばかりでないかでござる。何を今更、勝ちにこだわるでござる?」
「ここ三方ヶ原での戦いは負けたのだ。でも、続いて、撤退戦に移行するなのだ。ルールは簡単なのだ。家康さまが生き残るのはもちろん、主だった将たちが生き残れば、徳川家は再起可能なのだ。そして、兵士は畑から生まれるなのだ。将は得がたきものなのだ」
「なんか、嫌な表現でござるな。一応、念のために言っておくでござるが、下級兵士と言えども、畑で採れるものではないでござるぞ?俺が逃げると言う案は採用するでござる。だが、同時に、徳川家の下級兵士たちにも生き延びてもらうでござる!」
家康の眼はこの死地においてギラギラと輝いていた。忠勝は、ふうとひとつ嘆息し
「家康さまは甘いなのだ。兵士たちまで一緒に逃げたら、家康さまの生存率がグッと下がるなのだ。優先すべき命を考えるべきなのだ」
「忠勝、何を言っているのでござる。俺は甘さで言っているのではござらん。俺が逃げ切れば勝ちでござるが、それでは徳川家が再起するまでに時間がかかり過ぎるでござる。よって、下級兵士たちが生き残れば、それだけ徳川家の再起が早まるでござる。ちゃんと、計算の内でござる」
家康の言いに忠勝がはあと息をはき、天を見上げる。
「やれやれなのだ。家康さまの理屈はもっともなのだ。でも、家康さまがその策を採用すると言うのであれば、おいらはひとりで勝手に逃げさせてもらうなのだ。おいらも家康さまの大事ないち兵士なのだ。文句はもちろん、ないなのだ?」
「忠勝が側に居てくれないのは不安でござるが、ここは仕方ないでござるな。しかし、ひとつ言っておくでござるが、間違って、敵陣のほうに向かってはいけないのでござる」
「ちっ、ばれていたなのだ。いち兵士の命なんて、捨ておいてほしいなのだ。しょうがないなのだ。ここは大人しく、浜松城に逃げるなのだ」
忠勝は兜についている鹿角立物をベキッと2本ともへし折る。そして、肩から掛けていた数珠も引きちぎり、地面に叩きつけるのである。
「忠勝、いつも思うのでござるが、その合わせて40キログラムあるそれらを身につける必要はあるのでござるか?いつでも本気を出せるように軽いものにしておいたほうが良いでござるぞ?」
「これを身につけておかないと、身が軽くなりすぎて、力の加減が出来なくなるのだ。家康さまの背中を軽く押したつもりが5メートル先まで吹っ飛んだら、おいらはその夜、涙で枕を濡らすことになるのだ」
「おい、忠勝。普段は絶対に、その鹿角立物と数珠を手放すでないでござるううう!いたずら心に背中を押されたら、俺、浜松城の天守から、来世に向かって、羽ばたいてしまうでござるううう!」
「何を言っているなのだ。冗談なのだ。せいぜい、3メートルほどしか家康さまを飛ばせられないなのだ。織田家の勝家さまじゃあるまいし、土俵の真ん中から客席まで張り手一発で大の人間ひとりを吹き飛ばせるわけがないなのだ」
「ほっ。勝家殿のほうが凶悪でござるか。それは安心したでござる。ってか、5メートルも3メートルも変わりないでござるううう!絶対に、忠勝は、俺の背中に回るのは禁止なのでござるううう!」
「あっ、良いこと思いついたなのだ」
忠勝が急に何かを悟ったような顔をしだす。家康は、絶対、こいつ、ろくでもないことを考えているに違いないでござると思うのである。
「家康さまがおいらの前を走るなのだ。そして、走る速度が落ちて来たら、おいらが後ろから突き飛ばして、その身体に加速を与えるなのだ。我ながら良い案なのだ!」
忠勝の言いに家康がにこにこと笑顔になりながら
「忠勝。その案は確かに魅力的でござる。でも、ここ、三方ヶ原の地から浜松城まで俺が忠勝に突き飛ばされ続けたら、一体、どうなると思うでござる?」
「うーん。良くて家康さまみたいな肉塊になるか、悪くてなんだかわからない肉塊になるかもなのだ。あれ?これじゃ、家康さま、どっちにしろ死んでしまうなのだ。困ったなのだ。なんとか、肉塊にならずにすむ方法はないか?なのだ!」
「最初から、俺の背中を突き飛ばさなければいいのでござるううう!お前は馬鹿かなにかでござるかあああ!」
家康が怒鳴り声をあげ、はあはあと息をつく。
「そんなに褒める必要なんてないなのだ。いやあ、家康さまに褒められるといちもつがビクンってなってしまうなのだ。でも、戦場なので、さすがのおいらでもビキィッにはならないなのだ」
「褒めてないでござるぞ?そんなことよりも、一刻の猶予もないでござる。忠勝の足らぬ頭で俺が、全員が無事に逃げれる策を示すのでござる!」
「本当に皆を逃がすつもりなのだ。家康さまは優しいお方なのだ。そんなおいらにとっておきの策があるなのだ」
家康が訝し気な顔つきで忠勝に向かって、ほう?と言う。
「ちなみにろくでもない気がしてならないでござるが、ひょっとしたら、本当に役に立つ策かもしれないでござるから、聞いておくでござるよ?」
「実はなのだ。徳川家の兵士たちの兜の内側に、薬が入った包み紙が隠されているなのだ。もちろん、家康さまの兜にも仕込んであるのだ。確認してみるといいのだ」
なんだと?と思った家康は兜を脱ぎ、ごそごそとその内側を探り出す。すると、兜を被っている時には気付かなかったが、そこには小さなポケットがあり、その中には赤い包み紙が入っているのである。
「おお。本当に包み紙が入っていたでござる。で?この薬はどんな効果があるでござる?」
家康はニコリと笑顔を作り、忠勝を問いただす。
「それは改良に改良を加えた、足の速さが通常の3倍になる薬だと信長さまからは説明を受けているなのだ」
「重要なのはそこではないでござる。これはきっと、曲直瀬殿作の薬でござる。副作用の方が心配なのでござるよ?」
「うーん。副作用はなんだった?かなのだ。たしか、以前は赤味噌が尻の穴から出るはずだったなのだ。でも、今は改良に改良を重ねて、普通のうんこが出るように変わったような気がするなのだ」
「ちょっと、待つでござるううう!普通にうんこが出るように変わったのは進展したと言えば進展でござるが、それだと、ただ単に、うんこ漏らしなのでござるううう!」
「でも、馬は使えないなのだ。逃げるときに馬に騎乗していれば、まっさきに将だと疑われてしまうなのだ。ここは走って、浜松城に逃げるのが生存確率がグッと上がるなのだ」
忠勝の言いに家康がくっ!と口から悔しい吐息を漏らしてしまう。
「それと、影武者・徳川家康ーズの何名かをここの前線に、あとは家康さま本人と少し距離を開けて、走ってついてきてもらうなのだ」
「むむむ。せっかく正信が結成してくれた影武者たちをここで全て失うことになってしまうのでござるか。こればかりは致し方ないでござる。影武者・徳川家康ーズ、集合でござる!」
集合をかけられた影武者・徳川家康ーズの3号から10号が一同に家康の前に並ぶ。
「非情に申し訳ないでござるが、影武者たちよ。俺のために、徳川家の兵たちが無事に逃げ延びれるように死んでくれでござる!」
「そんなことをわざわざ伝えるために俺たちを呼んだんだぶうか。何を水臭いことを言っているのだぶう。元より、俺たちは家康さまの代わりに死ぬことこそが仕事なんだぶう」
速さの影武者3号がそう応える。
「おいどん、短い間とは言え、家康さまと同じ寝室に眠れて、幸せだったでごんす。ああ、ふかふかの布団は最高だったでごんす。それだけで、今まで生きてきた分は満足できているんでごんす」
知恵の影武者4号がそう応える。
「僕は天麩羅をたくさん食べさせてもらったのでやんす。家康さまの好物は影武者も好物にならねばなるまいと、正信さまがたらふく食べさせてくれたのでやんす。ついつい、家康さま本人の分にまで箸をつけてしまったのでやんす」
情けの影武者5号がそう応える。
「おい、ちょっと、おかしなことを言っている奴がいるでござる。最近、冬だと言うのに、夜は人肌のぬくもりを感じたり、ご飯のおかずの天麩羅が食いさしのものが出てきたのは、4号と5号の仕業でござるか!」
影武者4号と5号が、えへへっ!と言う、いたずら小僧のような笑顔を作る。家康は、つい、はあああああと深いため息をつくのである。
「影武者が家康さまと寝食を共にするのは当たり前の話なのだ。いつもの生活を家康さまと同じように体験させなければ、いざと言うときに、家康さまらしからぬ行動をとってしまいかねないなのだ」
そう忠勝が影武者たちに代わり、弁明を行う。
「それもそうでござるな。そもそも、そうせねばならぬのは、俺の命に危機が訪れた時に必要なことでござるからな。こっそり、布団の中に入って来たり、俺の天麩羅に箸をつけたことは、不問にするのでござる。だから、死んでくれと命じたでござるが、出来る限り、生き延びてほしいのでござる」