ー花嵐の章 6- 元康の覚悟
松平元康は夢を見ていた。
「はっけよい、のこった、のこったー」
「えーーーい、やあ!」
吉法師に上手投げをくらい、竹千代は背中から地面に打ち付けられる。
「いたたた。さすが吉法師さま。お強いでござる」
「竹千代もいい線いってるけど、まだまだだな」
吉法師は、へへっと笑い、鼻の下を人差し指でこする。いまの対戦成績は、吉法師の2戦2勝。竹千代はふんどしを締め直し
「吉法師さま、もう一丁お願いでござる」
「お、元気だな。よし、こい!」
元康はまどろみの中から目を覚まそうとしていた。
「吉法師さま、負けそうになったからといって、ふんどしをはがすのは止めてほしいでござる」
むにゃむにゃと寝言を言っているところ、頬をばしっと一発叩かれた。はっと元康は目を覚まし、周りを見る。
そうだ、ここは那古野の町だ。俺は信長さまに会うために尾張の道を旅していた途中であった。しかし、記憶がはっきりとしない。元康は頭を振る。
「殿、大丈夫か?」
服部半蔵が心配そうに、顔を覗き込んできていた。
「俺は何をしていた?」
元康は半蔵に問いかける。半蔵はやれやれといった表情を浮かべ
「殿は、柴田殿と相撲を取っていたでもうす。ただ、がっぷりよっつに組んだ瞬間、殿の様子がおかしくなり、そのまま、膝から崩れ落ちたでござる」
元康は、近くで立っている柴田勝家のほうを見る。ああ、そうだ。俺はこの方の筋肉に触れたいと思い、相撲をとったのだ。
再び、元康は頭を軽く左右に振る。相撲には少しばかり腕に自信があったが、世界は広い。俺はまだまだ弱いのだなとため息をひとつつく。
「にわちゃんは思うのです。しゃべって歩く筋肉に真正面から挑むのは無謀なのです」
「たしかに無謀でござった。だが、次やるときはもう少し健闘するでござるよ」
丹羽は、このひと、こりないなあと顔をしながら言う
「にわちゃんが勝家さまとやるなら、10人で囲んで、三間半の槍でぶっさすのです」
三間半の槍とは、織田軍の兵が使う、6メートルある長槍である。戦国時代の通常の槍は、1間半の約2メートル半ほどで、織田家の槍は倍、長い。
「それは相撲とはいわないでござろうか」
確かに相撲とは言えない。だが、この豪の者に勝とうというなら、丹羽の言う通りなのだろう。それでもと元康は思う
「三河の兵は、他国の3倍強いのでござる。その大将ならもっと強くならねばならぬでござる」
三河の意地である。尾張には負けていられないとのいう意地である。
「ガハハッ!その意気や、良し!松平さま、いつでも再挑戦を待っているでもうすよ!」
元康は、勝家に見送られ、那古野の町を出た。この先1時間ほどいけば、清州に到着する。自然と心がひきしまる思いだ。果たして、信長殿は、あの吉法師さまは、今はどうなっているのだろうか、不安と期待を胸に元康は道を行く。
それからは何事もなく、清州の町についた元康一行は城へ向かう。
「やあ、そこのお武家様。この肩入れなぞいかがでしょうか?旅には最適な品ですよ!」
肩入れとは、肩下げかばんのことである。
「いやいや、お武家様。替えの草鞋はいかがですか?お安くしますよ!」
露店の草履売りが元康に声をかける。
「おなかすいてませんか?川で獲れた魚の天麩羅です!」
露店の天麩羅屋の女性が声をかけてくる。その天麩羅をひとつ買い、元康は口に運ぶ。なんとも言えない、いままで味わったことのない、衣がさくさくとした感触に舌鼓をうつ。
「天麩羅とやらは、うまいでござるな!もうひとついただこうか!」
「松平さまは、天麩羅は初めてなのです?」
丹羽が元康に聞く。元康はさぞ嬉しそうに答える
「いやあ、こんなうまいものを食べたのは初めてでござる。清州の町では、こんなうまいものを露店で食べれるでござるか」
「ほかには、果物、肉、野菜。そしてそれらを調理したものが毎日、露店で売られているのです」
「毎日でござるか。三河では、露店販売は、せいぜい月に一度程度でござるよ」
尾張以外の他国では、三日市や、五日市などと言った、ひと月に決まった日に他国から商人がやってきて商売をやる程度である。尾張のように毎日が祭がごとく、露店が設けられ、商人が集い、商売繁盛しているところは、まったくもって無い。
元康は思う。これが噂の楽市楽座というものでござるか。我が国でもできないものなのかと。
「いい国でござるな、この尾張という国は」
元康は心底うらやましそうにつぶやく。
「三河の国もこうでありたいものでござる」
「三河には無理なのです」
「む、無理とはまたきつい言い方でござるな」
元康は、すこしむっとしながら返す。だが丹羽はあっけらかんとしていう。
「信長さまは、今の尾張を築くために、親族を倒し、実の弟を斬り殺したのです」
丹羽は、元康のただ羨望するだけの心持ちに少し怒りを感じながら言う
「この尾張の大地は、織田家自身の血で染め上がっているのです」
「だが、どこも親族や家臣同士で血を流すのが戦国の常でござろう」
元康は反論する。丹羽はいつもとはちがう表情を浮かべて言う
「他国は無辜の民の血を流し、その上で平然とした顔で君臨しているだけなのです」
明らかに怒りの感情を顔に、にじませている
「信長さまは、流した血を無駄にしないために心を砕いている、ただひとりのひとなのです」
しかしと元康は反論する
「領民に心を砕いているのは、俺も一緒でござる。一体、信長殿と、俺では何がちがうでござるか」
「信長さまは、心を砕き、身を砕き、大地に自らの血を注ぎ、血で地を洗い、清州を、尾張を発展させてきたのです」
丹羽は、らしくないのですと思いながらも言葉を続ける
「清州に続くまでの村を見たのでしょう。那古野を見たのでしょう。そして清州を見たのでしょう」
「ああ、見てきたでござる。どこもかしこも民が笑っていたでござった」
「信長さまは、周囲から馬鹿だと罵られても、自分を貫いてきたのです。民が笑える国を作るために」
丹羽は元康に願うように言う
「松平さまは、馬鹿の仲間入りをしてでも三河を、しいては、ひのもとの国の民が笑える国を作ってくれるのですか?」
元康は反論できずに黙ってしまう。俺には覚悟が足らなかったのかと自問する。丹羽は熱くなる心と声を抑えて言う。
「そろそろ清州城に着きます。そのあと、信長さまとの会合になるでしょう。それまでの短い時間の間ですが、考えておいてください」
「わかったでござる。ご忠告、ありがとうでござる」
元康は内心、あわよくば、三河の独立を織田家に支援してもらえると思っていた。だがそれはただの甘えでしかなかったのだ。織田家が求めているものは、対等なるものであった。ただただ支援を受けて、独立を成し遂げるのではなく、自分の足で立てとそう言われているのだ。
「まるで覚悟がなってなかったでござる」
信長殿は、すごい。尾張のことだけを考えて、三河に力を貸してくれるわけではない。ひのもとの国に居る、すべての民を笑顔にしたいのだ、あのひとは。俺は、その相棒になれるかをこれから、信長殿自身に問われるのである。
「ははは、俺にそんなだいそれたことができるのでござろうか」
元康は自分をあざけ笑うかのように言う。
「殿ならできもうす」
半蔵が元康を支えるかのように言う。
「あの柴田殿に再戦を誓う、馬鹿な殿なら、できもうす」
「あはは。にわちゃんも思います。松平さまは意外と馬鹿なのです。今はまだ、赤子のような考えですが、将来性はあると思うのです」
「そ、そうでござるか?あまり褒められてない気もするでござるが」
「馬鹿を褒めたら、つけあがりますので」
半蔵がきっぱり言う。ひどい家臣を持ったものだと元康は、笑ってしまう。
「もしも、松平さまが信長さまに認められたら、にわちゃんが松平さまを鍛え直す企画を考えるのです」
「わたしもその企画に便乗して、殿を鍛えるでもうす」
半蔵が文字通り便乗して発言する。
やれやれ、信長殿との会合をうまく乗り切ったとしても、苦難は続くのであろうなと思いながらも、将来が楽しみでしょうがない元康であった。