ー放虎の章14- 戦国最強 武田騎馬軍団
「なんなのだぎゃ。自分の隊が壊滅したのだぎゃ!殿、すみませんのだぎゃ、自分は逃げますのだぎゃ!」
三方ヶ原の戦いが始まって1時間にして、家康の左翼に展開していた榊原の4000の軍団がなすすべもなく、武田信玄の策によって崩壊させられる。
信玄が示した策は単純なものであった。丘に配置させていた内藤昌豊の所属する投石部隊に榊原の軍団を横腹から攻めさせる。
それに対処しようとした榊原4000の内、1000が動いたところを山県昌景が率いる300の騎馬軍団が突っ込んだのである。
まず、動いた榊原の1000が山県の300の騎馬軍団にぼろぼろにされる。次に山県が狙ったのは、残りの榊原3000である。
山県が率いる騎馬軍団の数は300と少数であった。しかし通常、騎馬隊と言うものは、通常、騎馬1とお供の足軽3で構成されているものであるが、彼の率いる騎馬隊300は純粋に騎馬のみ300である。
この騎馬のみの軍団と言うものは恐ろしく移動速度が速い。歴史的に見れば、源義経が最も得意とした戦法である。彼の率いる騎馬軍団も純粋な意味での騎馬軍団である。
義経はその純粋な意味での騎馬軍団は旭将軍・木曽義仲を打ち破り、さらには福原に万全の体勢で待ち構えていた平家すらも打ち破っている。まさに、移動力だけでなく、破壊力もすさまじい。
この純粋な騎馬軍団を打ち破る術は、鎌倉幕府の起こりから戦国時代に至る400年の間、ひのもとの国では存在しなかったのである。
元寇のときにひのもとの国はモンゴルの軍団を押し返したではないかと思われる読者もいるかもしれないが、あのときのモンゴル軍団は騎馬軍団をひのもとの国に持って来てない。さらに言えば、あいつらの兵の9割近くが朝鮮人である。
朝鮮がモンゴルに対して、1戦もせずに、歴史上初であろう、いや、歴史上、例を見ないであろう【無条件降伏】をしたのである。そのため、モンゴルは、ひのもとの国を攻めるのに騎馬軍団用の馬を海上輸送できないので、代わりに歩兵部隊を送りつけてきた。それも、その中身の9割は無傷に手に入れた朝鮮の軍団なのである。
さて話を戻そう。純粋な意味での騎馬軍団は途方もなく強い。それを義経が、チンギス=ハーンが証明みせている。そして、山県昌景が率いる300の騎馬軍団も強い。
ひのもとの国の馬は今で言う、ポニーを想像してもらえると助かるのだが、よく言われるように足がそれほど速いわけではない。しかし、それは他の馬と比べての話であり、このひのもとの国の馬は馬力がすさまじく、鎧で身を固めた甲冑武者を乗せた状態で時速20~30キロメートルを叩き出す。
現代の時代の人間の走る速度から比べれば、充分、早いのだ。そして、おそるべき事実がもうひとつある。この時速20~30キロメートルの騎馬にひのもとの国の歩兵は走って追いつくのである。しかもちゃんと鎧を着込んでだ。まさにふざけんな!と言って過言ではない。
なぜひのもとの国では歩兵のことを足軽と言うかは、この騎馬隊にすら追いつく足腰の強さにあるのだ。足が驚くほど速いのである。
話を戻そう。その時速20~30キロを叩き出す騎馬の突進は恐ろしいエネルギーを生み出す。榊原の4000の軍団も、山県の騎馬軍団300を必死に止めようとはした。槍衾を展開し、迎え撃った。
だが、山県の騎馬軍団は馬鎧を身に着けている。槍や弓を弾き飛ばし、槍衾などどうしたことがあろうかとただ突っ込んでいく。止めに入った榊原の4000の軍団の全てが吹き飛ばされたのである。
榊原はその眼に戦国最強と言われる武田騎馬軍団の強さを散々に映させられることになる。榊原は部下たちを、そして主君である家康すらも置いて、戦場から離脱するのである。
「屈辱なのだぎゃ!ここまで、信玄の有する騎馬軍団が強いとは思っていなかったのだぎゃ!たった300に自分の4000がここまで手も足も出ずにボロボロにされるなど思っても見なかったのだぎゃ!」
榊原4000が総崩れとなる。そして、山県300を止める者は誰もいなくなり、彼が次に眼をつけたのは家康が率いる本隊4000であった。
「あーーーーーはははははははは。徳川は弱いで候!いや、自分が強すぎるので候。これでは、全ての手柄を自分ひとりで独占してしまうで候!」
山県は300の騎馬軍団を引き連れて、家康4000の軍団に突っ込んでいくのであった。
「山県め、たぎっているのだわい。どおれ、わしも自ら、家康の首級を取りに行くのだわい!」
山県の300の騎馬軍団が家康本隊に突っ込むと同時に、信玄もまた他の将たちに動くよう指示を出す。しかし、参戦せよと言う指示ではない。徳川の全てを殺せと言う指示だ。
「内藤昌豊、馬場信春、そして、高坂昌信よ!何を山県1人に功を稼がせているのだわい!お前たちも徳川の全てを殺せなのだわい!敵の首級をひとつも取れなかった者には罰を与えるのだわい!」
信玄はたぎっていた。家康は散々に徳川の兵は織田家の兵の3倍強いと吹聴してきた。それもあながち嘘ではない。姉川の合戦において、3倍近くの朝倉軍を徳川3000余りで互角以上に渡りあったのである。
今、徳川は1万2千の兵を有している。急ごしらえの鶴翼の陣で信玄に対して対抗してきた。魚鱗の陣に対して、鶴翼の陣を展開するのは兵法に照らし合わせれば、決して間違っていない。だが、家康の間違ったことは、そもそも野戦にて武田軍団とことかまえてはいけなかったと言うことなのだ。
信玄の軍団は強い。強すぎる。軍神と恐れられる謙信と川中島で互角に戦い、1度たりとも負けていない。第4次・川中島の戦いで、危うく信玄が謙信自らに首級を取られそうになったが、結局は勝った。
そして、今川・北条の2国を相手にしても野戦においては一歩も退かず、戦いのけた。そして、今川家を滅ぼし、駿河をまるまる1国、遠江の3分の1を手に入れた。そして、北条氏康には自分が死んだあとは信玄とはことかまえるなと遺言を残させる。
岐阜より東において、今、この時点で武田家に抗う力を持った者がいたのだろうか?すでに今川は滅亡し、北条家も武田家の恐ろしさが身に染みており、武田家と同盟を結んだ。関東諸侯は北条家にすら抗う力を持っているわけがない。さらに東北になれば、あそこの地は伊達家の縁戚計画により、小競り合いはしていても、本格的な戦などしていない。
「家康さま、榊原殿の隊が総崩れしたのだ!これは予想外なのだ!」
「ぐぬぬ。本隊の兵たちよ、榊原の隊を崩した騎馬軍団を迎え討つのでござる!せめて、あの騎馬軍団だけでも道連れにしてやるでござる!」
家康は本隊4000の内、半分の2000を榊原が崩れた穴を補強するように展開する。最初、忠勝をその2000の指揮を任せようと思ったが、嫌な予感がしたため、影武者・徳川家康ーズの1号2号に任せる。
正信が用意した影武者ならば、そこそこの指揮はできるとの判断だが、ある意味、その判断は間違っていなかった。
山県が率いる300の騎馬軍団は家康の本隊の別動隊2000の左翼の横側を大きく迂回していく。そのまま、離脱していくのかと想いきや、その機動力を生かして、なんと別動隊の後方へと回り込むのである。
その動きに面喰ったのは、影武者1号2号である。自分たちの別動隊の多くは長槍を装備した足軽隊であり、身体の右側に槍を構えるのが基本となる。そのため、長槍隊は左側に回り込まれると、対応が遅れてしまう。
だが、山県の騎馬軍団の動きはそんな生ぬるいものではなく、家康の別動隊の後ろへと完全に回られてしまったのである。こうなれば、いくら軍の指揮を取れる人間とて、対処できるものではない。山県は別動隊の背中に向かって突進をかけるのである。
「力の1号!技の2号!すまぬ、すまぬでござる。俺の判断が間違っていたのでござるうううう!」
家康にはただ、別動隊の2000が300の騎馬軍団に蹂躙されていく姿を見ているしかなすすべがなかったのだ。山県率いる騎馬軍団が別動隊の後ろから前方へと駆け抜けたと思えば、再び、別動隊の左、左へと回っていく。
そして、柔らかい横腹や背に向けて突進を繰り返す。榊原の隊4000も同様にこの手を喰らい、なすすべもなく崩壊したことが家康には想像に難くない。
家康は判断を迫られていた。このまま、残り本隊2000と酒井忠次の4000で抗えるだけ抗うか。それとも、信玄に尻を向けて、全速力で浜松城へと逃げるべきかのふたつにひとつだ。
「全軍、とっか」
突貫準備と叫びそうになるところを、忠勝が家康の右肩をぐいっと掴み、馬から引きずり降ろすのである。馬上でバランスを崩した家康は思いっきり背中から地面に激突するのである。
「何をするのでござるか、忠勝。お前は俺を殺す気でござるか!」
「落馬で死ぬほど、家康さまの身体についた脂肪はやわではないなのだ。それよりも、家康さま。今まさに、最大最後の失策を犯そうとしたのだ。それをおいらが止めたのだ!」
「失策とはなんでござるううう。もしかしたら、信玄の野郎に一矢報いることができるかもしれないでござるううう」
忠勝もまた、馬上から降り、家康が喚き散らしているその顔面に向かって右こぶしを放つ。ガンッと勢いよく殴られた家康は想わず、3メートルほど後方へ吹き飛ばされるのである。
「これで少しは冷静になったかなのだ。この戦の勝敗は決したなのだ。だけど、まだ、徳川家には希望があるなのだ」