ー放虎の将12- はめたつもりがはめられる
「伝令!武田軍、浜松城を迂回し、一気に三河へと西進していく模様!」
「おお、その情報はまことでござるか!いやあ、これで殿がちびりっぱなしにならなくて良かったでござる。いちいち、替えのふんどしを準備するのも手間だったでござる」
「何を言っているでござるううう!俺は全くもって、ちびっていないでござるううう。忠次、お前、何をいきなり、嘘を言っているでござるか」
「おや?信玄が天竜川を越えてから1週間。ずっと、殿は貧乏ゆすりをしていたでござるぞ?おい、榊原、本当に殿がちびってないかどうか、確認をするでござる」
「しかたないのだぎゃ。さあ、殿。ふんどしを替える時間なのだぎゃ。さっさと鎧を脱ぐのだぎゃ」
「だから、漏らしてないと何度も言わせないでくれでござるうううう。って、こんなコント、いつまで続けるつもりでござる。いい加減、真面目にどうするか決めるでござる」
家康が真面目な顔付きでそう、忠次と榊原に言う。だが、忠次と榊原は、ちっと舌打ちし
「信長さまや信盛殿の言う通り、このまま籠城していればいいのではないかでござる」
「忠次の言うとうりだぎゃ。ここは信長さまのご厚意に甘えさせてもらうだぎゃ」
「お前ら、1週間前は俺についてくると言っていなかったでござるか?」
忠次と榊原は、さらに、ちっと舌打ちし
「おい、殿があの時のことを覚えていたでござる。3歩すすめば忘れるはずでござったよな?」
「うーん?今日の殿はおかしいのだぎゃ。もしかして、影武者と入れ替わっているのだぎゃ?」
「安心しろでござる。俺は正真正銘、お前たちの愛すべき主君なのでござる。さあ、わかったら、とっとと準備をするでござる」
家康はにこやかな顔で、忠次と榊原を見つめる。だが、2人は家康と眼を合わせぬよう、やや斜め下に顔を向けるのである。
「おいおい。どうしたでござる?2人とも。これは徳川家にとって、大チャンスなのでござるぞ?信玄は俺らに尻を向けて、西進しているのでござる。今更ながら、急がねば、四月までには上洛できないと判断したのでござる」
「ああ、殿の言う通りでござる。信玄は拙者らと戦う時間が惜しいと思い、相手にする気もないとばかりに浜松城の目の前を通過していったのでござる」
「本当、疑ってしまうくらいに徳川家にとって、大チャンス到来なのだぎゃ。ここまで、信玄が戦知らずとは思っていなかったのだぎゃ」
「そうであろうでござる。いやあ、本当、信玄の野郎、わざわざ、浜松城に接近してから東海道を西に向かっていたでござるなあ。あれは何でござる?見逃してやったから、感謝しろとでも信玄の野郎は言いたいでござるのか?」
家康のにこやかな顔をしつつも、こめかみには青筋がビキィッと2本、浮き出ていた。忠次と榊原はなるべく、殿と眼を合わせないように、うつむき加減で返事はしていたものの、家康が近づいてきて下から仰ぎ見るように見てくる。
「おい、忠次、榊原。なんで俺の眼を見ないのでござるか?」
「い、いや?殿が色男すぎて、視線を合わせるのがつらいのでござる。いやあ、今日は籠城日和でござるなあ。このまま、春まで浜松城に籠っていたい気分なのでござる」
「忠次、奇遇なのだぎゃ。自分もちょうど同じことを想っていたのだぎゃ。さて、今年の冬は冷えるのだぎゃ。薪と炭の準備をしてくるのだぎゃ」
榊原がクルッと身を回し、部屋から退出しようとしたところを、さらに家康に肩を掴まれ、くるっと回されてしまう。
「忠次、榊原。聞いてくれでござる。俺は今日、この瞬間まであまり怒りに心が奪われない人間だったと思ってきたでござる。しかし、あの信玄の野郎は、さすがに俺をなめすぎでござるううう!見ていたでござるか?武田軍のやつら、ズボンを降ろし、尻を丸だしにして走っていったでござるううう!」
武田軍は浜松城を横切る際に、一度止まり、2万4千の兵の1万もがズボンを降ろし、尻をこちらに向けて、両手でバンバン!と叩いて、去って行ったのである。
その行為が心底、家康の心に怒りの炎を宿らせたのである。
「あれほどの侮辱、義元にすらされたことはなかったでござるうううう!絶対に、信玄の野郎を八つ裂きにしてやるでござるうううう」
激昂する家康が、部屋にある机や椅子に蹴りを入れていく。忠次と榊原はひそひそと耳打ちし
「おいおい、榊原よ、どうするでござる。いくら大チャンス到来と言っても、こんなに頭に血が上っていたら、奇襲が成功するなんて思えないでござる」
「そうなのだぎゃ。そこが問題なのだぎゃ。別に武田の軍を追いかけるのは賛成なのだぎゃ。出来るなら、1度、冷静になってもらったほうが得策なのだぎゃ」
「忠次ううううう。榊原ああああ。全員に出立の報せを出すでござるううう。乾坤一擲、信玄の野郎の尻を掘り尽くしてくれるでござるううう!」
忠次と榊原がコクリと頷き、部屋から退出する。そして、3分後、もどってきた彼らの手には水がなみなみと入った桶である。よいしょおおおおお!とばかりに2人は家康に向け、桶の中身をぶちまけるのである。
「うえええごほごほ!お前ら、何をするのでござあああるううう!さっさと準備をしろと言っているのでござるううう」
「うーむ、これは重症なのでござる。致し方ないでござる。ここは真の怒りに目覚めた殿の力を信じてみるでござるか」
「仕方ないのだぎゃ。念のため、暴走しないように忠勝を殿の側につけておくのだぎゃ。殿が4000、自分が4000、忠次が4000を率いるでどうだだぎゃ?」
「うむ、そうするでござる。では、殿、30分ほどお待ちくださいでござる。徳川の恐ろしさ、信玄めにとことん思い知らされてやりましょうでござる」
「ああ、忠次、榊原、頼んだでござる!俺の真の力を見せるときがきたのでござるううう!」
忠次と榊原はぺこりと頭を下げると、部屋から退出し、全軍に武田軍を追うと通達する。浜松城に籠る1万2千の兵たちは、うおおおおおお!と叫び声をあげ、出立の準備を急ぐのであった。
30分後、浜松城から家康たち1万2千の軍は武田軍を追うように東海道を家康自らが先駆けとなり西進するのである。
「おお、見えてきたでござるぞ!あそこに見えるは、信玄の軍でござるううう。皆の者、抜刀許可を与えるでござるううう!」
「家康さま、待つなのだ!あれは信玄の尻じゃないなのだ。おいらたちはここ、三方ヶ原に誘いこまれたなのだ!」
忠勝が今まで見せたこともないような驚愕の色を顔に浮かべる。そして、生まれついての野生の勘が働き、武田軍に突っ込もうとする家康を止めようと、彼の騎乗している馬の顔を思いっきり左の拳でぶん殴るのである。
その衝撃により、家康の騎乗している馬は大きく左によれていき、速度を落としていくのである。
「何をするのでござるうううう!眼の前に見えるのは信玄の尻に決まっているのでござるううう。今更、怖気ついたでござるか!」
「だから、待てと言っているなのだ!全軍、家康さまが先ほど言った命令は取り消しなのだ。伝令!後方の忠次殿と榊原殿に、本体の左右に展開するよう伝えてくるなのだ!」
「何を勝手に命令を変えているでござるか?忠勝、お前は一体、どうしたと言うのでござる?いつもの蛮勇さを見せるときでござるぞ!」
しかし、家康の問いに対して、忠勝はただ、ふるふると顔を左右に振っている。
「おいらにはわかるなのだ。これでも視力は5.0あるなのだ。信玄たちは尻を向けていないなのだ。こちらの方を向いているなのだ!」
「それは本当なのでござるか?忠勝。俺には遠すぎて、判別がつかないのでござる」
「本当も本当なのだ!しかも、見るからにただ漠然と踵を返しているわけではないなのだ。こちらにいつでも突っ込んでこれるように陣形を整えているなのだ!」
忠勝の言いに、ついに怒りで我を忘れかけていた家康にすら、今、自分たちが置かれている状況について危機感を持つことになるのである。
「やばいのでござる!今から浜松城に引き返すでござるうううううう」
「それはダメなのだ!今、このタイミングでこちらが信玄に尻を見せようものなら、本当に徳川家のすべての将たちが討ち取られてしまうなのだ。ここは少しでも武田の軍の勢いを殺したあとに退くべきなのだ!」
忠勝の言いには一理あると思い、家康は率いる本隊に急いで停止命令を出す。そして、本隊の右翼に忠次4000を、そして本体の左翼に榊原4000を配置させる。
「これで良いのでござるか?忠勝。できれば、その視力で相手の陣形を見定めてほしいのでござる」
「うーん、多分なのだけど、信玄は魚鱗の陣を敷いているなのだ。そういうわけもあって、こちらは鶴翼の陣になるよう、忠次殿と榊原殿を両翼に展開してもらったなのだ。信玄が突っ込んでくると言うのであれば、この陣で正解なのだが、果たしてどうなるかはわからないなのだ」
忠勝が自信なく、そう家康に返答をする。
「困ったのでござる。そもそも、俺が怒りに身を任せ、浜松城から出陣してしまったこと自体が失敗だったのでござる」
家康ががっくりと肩を落とす。忠勝は、家康の右肩に左手をポンッと乗せ、顔を左右に振るのである。
「誰だって、あんな挑発を受ければ、城から飛び出してしまうのは仕方ないなのだ。その家康さまを止められなかったのはおいらたち家臣の責任なのだ。家康さまを斬ってしまってでも止めるべきだったのだ」
「はははっ。敵に斬られるのならまだしも、自分の家臣に斬られたくはないでござるなあ。さて、出陣してしまったのは仕方ないでござる。できる限り、信玄の野郎の軍を削って削るのでござる。そうすれば、後に続く、信長殿の支援にもなるのでござる」




