ー放虎の将11- 決戦の地へ
「何か浜松城から悲鳴が聞こえるのだわい。本当に悲鳴をあげねばならぬのはこれからだと言うのに、家康たちは一体、何をしているのだわい」
信玄が不思議そうな顔で浜松城から聞こえてくる、悲鳴に首をかしげるのである。
「はははっ、きっと、今頃、逃げる算段でも考えているのではござらぬか?武田家の陣容を見て、びびらぬ者など誰もおらぬでござるよ」
馬場がそう信玄に言う。
「普通、武田家の騎馬軍団を見たら、びびるでごじゃるよね?北条氏康だって、小田原城に籠って、村々を焼かれようが、決して野戦にて決戦を行わなかったでごじゃる。ぼくちん、謙信が不思議でたまらないでごじゃる」
内藤がうーん?と首を右に捻りながら言うのである。
「アレは狂っているで候。武田家で落とせぬ小田原城を他人のためなんぞに4回以上も攻め込んでいるので候。しかも、なんの成果も上がっていないので候。それどころか、小田原城攻めの失敗で上野の一部を宿敵と想っている武田家にとられる失態を犯しているので候」
山県が言っているのは、上杉謙信が北条氏康の勢力の拡大に伴い、関東の諸侯が領地の大部分を奪われたことを契機に、彼らは上杉謙信に泣きつき、小田原城に攻め込んでもらったことの話だ。世に名高い、上杉謙信の関東侵攻のことである。
なんと、謙信は、武田家と川中島で5度も戦を行いつつ、同時に、越後から相模の小田原城まで攻め込むと言った大遠征まで行っていたのである。
結局のところ、武田・今川・北条の3国同盟により、謙信は最大の危機を迎えることとなる。
「しかし、今更ながら思うのでござるが、もし殿が今川家との同盟を破棄して、駿河に攻め込まなかったら、上杉家って滅びていたんではないか?ござる」
馬場がそう疑問を呈する。
「それは言ってはいけないでごじゃる。あの時、北条氏康がキレたからと言って、まさかの北条・上杉の同盟が成立するなんて、誰も思っていなかったでごじゃる。いやあ、本当に、氏康は戦上手でごじゃる」
内藤がうんうんと当時のこと思い出したかのように頷くのである。
「本当に、氏康は名将なので候。上杉が役に立たないと見るや、臨終の間際には、武田家と再同盟を結ぶよう、遺言を残したそうで候。いやあ、本当に、関東、駿河、甲斐、越後はあの男に最後まで振り回されたで候」
「山県さんが信玄さま以外を褒めるなんて、めずらしいことでございます。今日はもしかして、浜松城から槍か矢でも飛んでくるのではないかと心配でございます」
「うるさいぞ、高坂。で、忍者部隊の偵察はどうなっているでござる。まだ、織田家の連中は姿を現さないのかでござる」
「うーん。信玄さまが計画している、三方ヶ原での戦いの邪魔をしてくるのではないかと、三河方面を探ってはいるのでございます。やっぱり兵を伏している気配はありそうなのでございます。でも、所詮、多くても2000から3000くらいしか居ないような気がするのでございます」
高坂がそう、皆に忍者部隊からの偵察による結果を報告する。
「あくまでも信長は、わしらの上洛自体を邪魔する気なだけで、本格的な決戦を仕掛けてくるわけではないのだわい。わしらと野戦で決戦をするだけの力がないのか、そもそも、野戦を諦めているのか判断がつかないのだわい」
「たぶん、後者でござろう。いくら、京の都を死守するために畿内の各地に兵力を分散させているからと言っても、織田家の全兵力は6万以上は存在するはずでござる。いやはや、浅井長政には感謝をしてもしきれないでござる。武田家のために畿内を混乱の渦に落としてくれたのでござるからなあ」
馬場がそう織田家を、浅井長政を評価する。
「本当によくやってくれたのだわい。誰も頼んでもいないと言うのに、わしらのために信長に反旗を翻してくれたのだわい。そうでなければ、今頃、信長は天下を手中に納め、武田家はただ、織田家から捨扶持をもらえるだけの存在だったのだわい。これは、わしが上洛を果たしたら、何か褒美を与えねばならぬのだわい。がははははっげふっげふうごっほがっはあああああ」
「殿、そんなに高笑いをしたら咳き込むのは当たり前でごじゃる。もっと、おしとやかに、おほほと笑っておくのでごじゃる」
「何を言っているのだ、内藤。殿は常々、極悪人かのような高笑いをする練習を欠かせていないのでござる。病気で働けぬお父さんのために娘を身売りさせるぞ!と脅すときなどに使うためでござる」
「おい、馬場。何を言っているので候。殿は自分のところの領民にだけは優しいので候。そんなことをするのは敵国の親娘だけで候。高坂が勘違いするようなことを言うなで候」
「ええ?僕、信玄さまが悪代官プレイにハマっているものだと思っていたのでございます。黄金色のお菓子とか大好きでございますよね?信玄さま」
「高坂はかわいいのだわい。心が薄汚れた馬場、内藤、山県たちとは違うのだわい。まあ、山県の言う通り、敵国の領民の心配なぞ、する気はないのだわい」
高坂がひどいのでございます!と抗議するが、信玄は無視をし、皆に命ずる。
「さて、家康もわしらの動きが不可解で予測がつかぬと思っているころだわい。のんびり、浜松城を南に眺めながら、三方ヶ原へ向かうのだわい!」
ははあっ!と馬場、内藤、山県が応える。そして、陣幕を飛び出し、それぞれ、自分が率いる軍の元へ向かっていくのであった。
「ぐふふふふがはっごほっげふうう。さあて、わしの命はいつまでもってくれるのかだわい。せめて、岐阜まで行ければ、武田家の未来は安心なのだわい。だが、そうでなかった場合は、武田家は最大の失敗をおかしたことになるのだわい」
信玄は咳き込む。なかなか咳が止まらぬため、右手で口を押える。しかし、その右の手のひらに液体のようなものが付着する。
「ああ、本当に天は、わしを愛してくれはいないのだわい。女神の後ろ髪を掴みそこねたみたいだわい」
「信玄さま?一体、さっきから何のことを言っているのでございます?何か悩み事があるなら僕が相談に乗るのでございますよ?」
「ああ、高坂は本当にかわいいのだわい。お前の顔を見ているだけで癒されるのだわい」
「そんなこと言われたら、僕、照れてしまうのでございます」
高坂が頬をほんわか紅く染め、やや下向き加減に顔を下げる。信玄は高坂の姿を見て、ほほえましく想いながら
「さあ、高坂も自分の兵を率いてくるのだわい。家康の首級、必ず、もらい受けるなのだわい!」
はい、わかりましたのでございます!と高坂が言い、陣幕から飛び出ていく。信玄はその姿を見送った後、自分も出陣の支度をせねばと、椅子から腰を浮かす。だが、力がうまく入らず、そのまま地面に向かって倒れ込み、四つん這いになってしまう。
「がはっげふっごふっ。ああ、これは想っていた以上にまずいことなのだわい。あやつらが見ている前でなくて良かったのだわい」
信玄の側付きが彼の元にかけよってきて、抱きかかえるようにして信玄の身を起こす。
「いやあ、すまないのだわい。そこにある薬箱から赤い包みのものを取り出してくれだわい。京の都の名医が作ったという精力強壮剤なのだわい。副作用が強いからと安易に飲まないように信長には言われていたが、ここは致し方ないのだわい」
信玄がぜえぜえ言いながら、側付きに指示をし、水と紅い包みの薬を持ってこさせる。紅い包みを開け、中の薬を舌の上に乗せ、湯飲みに入った水を飲みこむことにより、胃に流し込む。
「うう?うう?うう!」
薬が胃に届いた瞬間、身体から違和感を感じる。なんだこれは?身体の節々から力がわいてくるのだわい。まったくもって動かぬ身だった自分が嘘かのように、身体が軽いとさえ思えるほどの爽快感がわいてくるのである。
「これはもしかして、信長の奴めに一服もられたのかだわい?いや、違うのだわい。毒にしては効果がおかしいのだわい。なんだか、気分が最高にハイになっていくだのわい!」
「信玄さま、その身体は何でござるか!」
なかなか、本陣から出てこない主君を心配して馬場が陣幕へと戻ってきたのである。だが、馬場が眼にしたものは、50間近の男の体つきではなく、まるで、20年前の姿、いや、それ以上の力強さを持った、主君の姿なのであった。
「おお、馬場なのかだわい。ああ、わしはすこぶる気分がいいのだわい。織田・徳川の全てを破壊しつくしても足りぬほどの衝動に駆られるのだわい!」
信玄が高らかと笑っている。その眼から発するのは歳をとって丸くなった視線ではなく、武田信虎を武田家から追放したころのあのぎらつく視線なのだ。馬場は思わず、ごくりと息を飲む。
「殿、一体、何があったのでござるか。あの牛のようにでっぱった腹がすっきりどころか、腹筋が6つに割れているのでござる。しかも、腕と太ももの筋肉は丸太のように雄々しく膨れ上がっているでござる!」
「がははははっ!ああ、二度と戻らぬと思っていた、あの頃の肉体が戻ってきているのだわい。今なら、ひのもとの国、全てを破壊できる気がするのだわい。さあ、馬場よ。馬を引けい。わしが全てを殺し尽くしてくれるのだわい!」
馬場は信玄に声をかけられた瞬間、ズボンの股の部分が暖かい液体で濡れていく感覚にとらわれる。馬場は異様な主君の姿と声の圧に耐えきれず、失禁してしまったのである。
「何をぐずぐずしているのだわい。お前はでくの坊か何かなのかだわい。わしに遅れぬようについてくるのだわい。次に情けない姿を、わしに見せた時は、馬場、覚悟するのだわい!」
馬場は、我に返り、ははあっ!と返事をし片膝付き、頭を下げる。信玄はズシンズシンと足音を響かせながら、陣幕を出ていくのであった。馬場もまた、身を起こし、遅れてはならぬよう、必死に自分の主君の背を追いかけるのであった。




