ー放虎の将 9- 信玄、天竜川を越える
「大変でござるううううう!ついに信玄めが天竜川を渡ったでござるうううう!」
「忠次、本当なのかだぎゃ!その数、いくらほどなのだぎゃあああああ」
「その数、約2万4千なのでござるううううう。うちは1万2千。これは死んだ、絶対、死んだでござるうううう」
1572年12月15日、ついに武田の総勢2万4千の軍が遠江を縦断する天竜川を越えて、徳川領に侵攻をする。それにより、浜松城では家康をはじめ、その家臣たちはおおいに恐怖する。
「おちつくのだぎゃ。ここは殿をひとり差し出して、土下座をすればいいのだぎゃ。おい、忠勝、殿を縄でふんじばるのだぎゃ!」
「それが、家康さまはどこかに雲隠れしてしまったなのだ。せっかく蜻蛉切バージョン2で、とどめを刺してやろうと思っていたのに残念なのだ」
「くっ、殿ひとりで逃げやがったでござるか。ええい、こうなったら仕方ないでござる。おい、忠勝、榊原を縄でふんじばれでござる。こいつを殿だと言い張って、拙者らは生き延びるでござる」
「おい、待てなのだぎゃ。そういう忠次、お前のほうこそ、縄でふんじばるのだぎゃ。忠勝、自分が許可を出すから、とっととお縄ちょうだいをするのだぎゃ!」
「仕方ないなのだ。ここは折衷案で、2人とも縄でふんじばるなのだ」
忠勝はそう言うと、手に持った縄で忠次、榊原をあれよあれよと間にふんじばるのである。待つでござる!や待つなのだぎゃ!の2人の言葉には一切、耳を貸さずにだ。
「ふう、良い仕事をしたなのだ。あとはこの2人を浜松城の城門前にでも吊るしておけばいいなのだ」
「一体、お前たちは何をしているのでござるか。信玄との決戦前に遊んでいるではないでござる」
家康が屋敷の部屋にようやくやってくる。
「あれ?殿、逃げたとばかり思っていたでござるが、鎧姿で一体どうしたでござる?」
「どうしたもこうしたもあるかでござるうううう!お前らも遊んでないで、さっさと鎧を身につけろでござるううううう」
「しっかし、殿だけではなく、影武者・徳川家康ーズまでにも全員、鎧姿にさせて、一体どういつもりだぎゃ?」
家康は影武者・徳川家康ーズたちにも自分と同じ格好をさせている。身長や体つきや顔はバラバラであるが、同じような鎧を身に着けているため、遠目から見たら、どれが本物の殿かもしかしたら、見分けがつかなくなってしまうのではないのかとさえ、榊原は想ってしまう。
「戦をするなら、影武者たちにも同じ格好をさせるのは当たり前でござる」
「しかし、いくら、見た目がバラバラと言っても、戦の最中、どれが家康さまかわからなくなるのだ。これは困ったなのだ」
「ふっふっふ。安心するでござる。お前たちは馬鹿だから、きっと、本物の俺がどれかわからないかもと想い、正信が対策を講じてあるのでござる。力の1号の立物には【力】。技の2号の立物には【技】の字をつけてあるのでござる」
「おお、すごいでござる。とても、普段の殿とは想えない配慮なのでござる。これなら一発で影武者だとわかるのでござる」
「あれ?でも、殿自身の立物はどうなっているのだぎゃ?それを知らぬことには自分たちは、本物の殿がどれだかわからないでござるぞ?」
榊原がそう疑問を投げかける。そうすると家康がふっふっふと笑いだし
「本物の俺の立物には【本】と言う立物をつけているでござる。これで、俺が一発でわかるでござるぞ。さあ、お前たち、俺を褒めたたえるでござるううううう!」
家康の高笑いに、忠次、榊原、忠勝がひそひそと耳打ちしはじめる。
「おい、ついに殿の頭の中に虫がわいたでござる。そんなに信玄が怖かったでござるか。だれか、信長殿から贈られてきた京の都の名医の薬を処方するでござる。馬鹿にも効く薬らしいでござる」
「本物が【本】とか失笑なのだぎゃ。しかも、本多政重と同じ立物だってことを忘れているのだぎゃ。この殿の馬鹿さ加減にはいい加減、うんざりなのだぎゃ」
「なんか、しかも勝ち誇って高笑いしているのが正直、イラッとするなのだ。蜻蛉切バージョン2の石突き部分で、ちょっと、あの立物をぶっこわしておくなのだ」
忠勝はそういうと、家康が被っている兜に目がけて、蜻蛉切バージョン2で突きをぶちかます。
「お、おい!一体、何をするのでござるか。忠勝、お前、俺を殺す気でござるか!」
「安心するなのだ。殿がネタ被りにならないように、立物だけ、壊しておいたなのだ。他の文字にするよう再考を願うなのだ」
「そうでござるぞ。大体、本多政重がかわいそうだと思わないのかでござる。家臣と同じ立物をつけるのはさすがにダメだしをさせて頂くでござるぞ」
「いっそのこと【馬】か【鹿】にしておくのだぎゃ。それならとってもわかりやすいなのだぎゃ」
「そんなの嫌でござるうううう。【本】は諦めるから他にもっと良い案を思いついてほしいのでござるうううう」
家康の懇願に、3人はやれやれと言った表情を作る。
「しかし、拙者たちに考えろと言われても、頭脳労働担当の正信が今、ここにはいないでござるぞ?拙者ら、自慢ではないが、正信が知力10だとしたら、拙者が5、榊原が3、忠勝が1でござる」
「ああ、そうだったでござる。頼む相手が間違っていたでござる」
家康はがっくりと肩を落とす。これではせっかく、正信が用意してくれた影武者・徳川家康ーズの能力を充分に発揮することができなくなってしまったからである。
「うう、ここは仕方ないでござる。正信が用意してくれた【狸】の立物をつけるでござる。せっかく、自分なりにアレンジしようと思っていたのに、結局、これをつけるハメになるとは思わなかったでござる」
家康は渋々、【狸】印の立物をいそいそと自分の立物に着け始める。
「おい、殿。最初から、なんで狸をつけないでござる?」
忠次がそう家康に質問する。
「んん?いやあ、やっぱり、信玄と1戦かまえるつもりでござるから、この戦いは後世の歴史家たちに色々と書かれるはずだと思ったのでござる。そこで、俺が家臣が考案した立物をつけるよりは自分が考えたものをつけたほうが、見栄えが良くなると思ったのでござる」
家康のその返答に、忠次は瓶貫きを、忠勝は蜻蛉切バージョン2を手に持ち、構える。
「ほどほどにしておくのだぎゃ、2人とも。あと、打ち身程度の怪我ならいいのだぎゃ、骨折はさすがに避けるのだぎゃ。傷害事件になってしまうのだぎゃ」
「わかっているなのだ。少し、家康さまの尻の穴を拡張するだけなのだ。家康さま、ご覚悟してほしいなのだ!」
ちょっと待つでござるうううううう!の家康の叫びもむなしく、晴れ渡った冬空にその叫び声も消えていくのであった。
「うううう。寒いのだわい。なんで、こんな冬の真っただ中に天竜川を泳いで渡る必要があったのだわい。わしを死なせるつもりなのかだわい。ああ、げふっげふうううう、げっふううううう!」
「おい、武田家の馬鹿大将が風邪を引いたようでござる。これで毒が裏返って、武田家の勝利は確定したようなものでござる」
「おお、馬場よ、奇遇なのでごじゃる。ぼくちんもそう想っていたのでごじゃる。体調の悪いときの殿は、すこぶる采配が冴えわたるのでごじゃる」
「馬場殿、内藤殿。いくらなんでも口が過ぎるので候。確かに、殿が風邪を引いたほうが良いのは馬鹿ではないと言う証拠にはなるで候が、さすがに頭がもうろうとしていては、軍配もまともに握れなくで候」
山県昌景がそう、馬場と内藤に諫言する。
「いやあ、そうは言っても本当でござるからなあ。下手に殿が元気だと、すぐに力攻めをしたがるでござるし、返って体調が悪いほうが策を重視してくれるおかげで、使われる身としては安心なのでござる」
「そうなのでごじゃる。最近の殿は体調がすこぶる悪いみたいで、おかげで無理攻めを指示してこないのでごじゃる。やはり、戦の華は策なのでごじゃる。策が飛び交うほうが楽しいのでごじゃる」
「少しは信玄さまの体調のほうを気にしてほしいのでございます。僕、信玄さまが体調が悪いせいで寝所に呼ばれても抱いてもらえるのが1回で終わってしまうのでございます」
高坂昌信がそう、苦言を呈する。
「うははははっげふっごふっがふうううううう。それは、高坂にはすまないことをしたのだわい。この戦いが終わったあとにはゆっくり養生して、風邪を治すのだわい。それまで、夜伽の回数が減るのは我慢してほしいのだわい」
信玄は豪快に咳をしながら、高坂を慰めるのであった。
「さて、馬場、内藤、山県、高坂。お前たちの体調は何ともないのかだわい。主力のお前たちまで、風邪を引いてしまいましたは、わしは困ってしまうのだわい」
信玄がジロリと4人の顔を見つめる。馬場はその視線を感じながら、ふっと息を吐き
「大丈夫なのでござる。拙者、産まれてこの方、風邪を引いたことがないのが自慢なのでござる」
「おい、馬場、それは自分が馬鹿ですって宣伝しているものなのでごじゃる。馬鹿にはつける薬がない代わりに神仏が風邪をひかないように加護を与えてくれるなのでごじゃる」
「はははっ。では、馬鹿に産まれたことに感謝するのでござる。おかげで大病もなく、殿とずっと戦をし続けれたでござるからな!」
「僕は馬場殿が馬鹿なことが心底うらやましいのでございます。僕は今では立派な体つきになったのでございますが、昔は喘息持ちで、いつ、武田家から追い出されるか心配な身の上だったのでございます」
「高坂。喘息になるのは、気合が足らぬからでござる。朝一番の水垢離で鍛えあげればいいでござるよ?」
「気合で治るわけがないのでございます。馬鹿な事自体は許されますけど、馬鹿な発言はやめておいたほうがいいのでございます」




