ー放虎の将 8- 上洛計画の狂い始め
「うははははっげふごふがふっうううう。やっと大雨がやんで、天竜川も水が引いてきたのだわい。まったく、わしの時間が足りぬと言うのに、天は非情なのだわい」
信玄は駿河に上洛用として2万4千もの兵を集めたものはいいものを、季節外れの長雨にさらに天竜川の氾濫までもがプラスされ、2週間近くもの時間を無駄にしてしまった。信玄たち武田軍団は駿府城で待機せざるえなかったのである。
せっかくの奇襲作戦であった突然の織田家との同盟破棄なのに、2週間も足止めされれば、とっくに信長の知れることとなっている。信長からは再三に渡る、罵詈雑言の書状が届いており、さすがの信玄も辟易としていたのである。
「信長殿はしつこいのだわい。とうに終わった仲だと言うのに、グダグダ言うのは女に振られた未練たらしい男のようなのだわい。大体、月に代わって第六天魔王がお仕置きよ!と言うのは何なのだわい。つべこべ言わずに、全兵力を持って、駿府なりに攻めてくるがいいのだわい」
愚痴を散々にこぼす信玄に対して、馬場が
「んっんー。殿、愚痴はそこまでにするのでござる。愚痴を言うと幸せが逃げると聞いたことは無いのかでござる」
「うん?馬場よ、人間、生きてれば、愚痴なぞなんぼでも口から出てくるのだわい。それより、12月も半ばにさしかかろうとしているのだわい。この遅れを挽回する手だてを考えるのだわい」
「うーむ。そう言われても困るでござる。さすがに信長に殿の行動がバレてしまった以上、上洛への道は困難を極めるのでござる。いやはや、殿の運の無さには、ほとほと飽きれるばかりでござる」
「ぼくちんも不思議でたまらないでごじゃる。信濃をやっと手に入れたかと思えば、上杉謙信に喧嘩を売られる、運の悪い殿でごじゃる」
「それだけでは無いで候。いくら、北からの謙信に対してと言えども、そもそもとして、今川、北条、武田家とで3国同名を結ばざるえなかったこと自体が運が悪いので候。おかげで、信濃を手に入れてから、武田家は火事場泥棒で上野の一部を手に入れただけで候」
馬場信春、内藤昌豊、山県昌景がうーんと唸りながらそう、信玄に告げるのである。言われた側の信玄も渋面になりながら
「あの三国同盟を蹴っていれば、今川、北条、上杉を全部敵に回すことになったのだわい。嫌でも組まざるえなかったのだわい。しかも、今川義元が信長なんぞに討たれること自体、誰も想像してなかったのだわい。なんなのだわい、たかだか織田2000相手に今川3万以上の軍が負けるのは。さらに、負けるだけではなく、義元本人が討ち取られてどうする気なんだわい。あんな、馬鹿に恐れて、同盟したのが大失敗だったのだわい!」
信玄が思わず、でかい声で、ちっと舌打ちするのである。
「殿の運の悪さに反比例するかのように、信長の奴めは天に愛されているかのように幸運なのでござる。かの桶狭間の戦いでもそうであったように、岐阜を手に入れたかと思えば、義昭さままで手中に転がりこんできたのでござる」
馬場がそう言う。それに呼応するかのように内藤が
「だから、ぼくちんは殿に言ったのでごじゃる。義昭さまが北陸に流れ着いたときに、甲斐に招きいれるよう、殿に進言したと言うのに、まるで聞く耳を持っていなかったでごじゃる!」
「何を言っているので候。いつ、内藤殿がそんな進言を信玄さまにしたので候。あっ、これはダジャレないのでツッコミ不要で候」
「山県さん。いくら30を超えたからと言って、親父ギャグはやめてほしいのでございます。僕の可憐な耳が腐ってしまうのでございます。ああ、信玄さま。どうか、信玄さまの吐息を僕の耳に吹きかけてくださいなのでございます。山県さんの生ごみが腐ったような口臭がする台詞を聞かされて、耳が汚されてしまったのでございます」
「なんだとで候!我輩の口臭は、馬場殿のように生ごみが腐ったような匂いはしないで候。そう、例えるなら、我輩の口臭は、信濃の牛さんの絞りたての乳のような匂いがするで候」
「ああ、それなのでございます。牛の絞り乳を雑巾で拭いた時のあの匂いにそっくりなんでございます、山県さんの口臭は。失礼したのでございます。やっと、これで山県さんの口臭で鼻が曲がりそうな理由が判明したのでございます」
腐った生ごみと評価されるよりも、牛の絞り乳を雑巾で拭いた匂いのほうがよっぽどひどいような気がする馬場である。
「うっほん。どうでもいい話で脱線するのはやめるのでござる。今は、体勢を整えているであろう、織田家に対して、どうするか考えるでござる」
馬場が無理やり話しを戻す。それに対して高坂が反論を言う。
「信玄さま、馬場さん。言っては何ですけど、武田家の忍者部隊に情報を集めてもらいましたけど、織田は何かしらの大きな軍事行動に出る様子は無いみたいなのでございます。それより、不気味なほどに尾張、岐阜の守りを強化するようなことをしていなくて、不思議なのでございます」
「ん?どういうことなのだわい、高坂。わしらの裏切りなど、とっくに信長に知れ渡っているのだわい。その証拠に連日のように信長から怒りの書状が届いているのだわい。絶対、滅亡させてやるからな、絶対だぞ!と、何通にも渡って、書き綴られているのだわい」
信玄がそう疑問を呈す。
「信玄さまにそのような書状が届いているのは知っているのでございます。でも、その割には、兵力を畿内から引き揚げている様子がまったくと言っていいほど、見ることができないのでございます」
高坂の返答にうーむ?と唸る信玄である。
「まさかだと思うのだが、尾張と岐阜の防衛を諦めて、南近江で一気に決着をつける気なのかだわい?いくら、京の都を手放すのは惜しいと言えども、無防備にもほどがあるのだわい」
「殿、ひとつ考えられることがあるのでござる」
「なんだ、馬場。何か、お前には思い当たることでもあるのだわい?」
信玄の問いに、馬場がこくりと1度、首を縦に振る。
「信長めは、遠江を抜けて、三河、尾張、岐阜への大きな街道沿いに兵を伏せている可能性があるのでござる。あちらとしては、武田家が撤退しなければならない、4月初めまで粘るだけでいいのでござる。そうなれば、まともに尾張や岐阜で一大決戦をする必要がないのでござる」
馬場の言いに、ほうと嘆息する信玄である。
「では、何か?信長の奴は、京の都に至る街道のあちこちで、わしらの邪魔をすると言うのかだわい?」
「そう考えるのが自然だと想えるのでござる。それ故、大きな街道沿いは避け、道は悪いでござるが、遠回りに西進するのが上策かと思うのでござる」
馬場がそう信玄に進言するのであった。しかし、信玄はうーむと考え込み
「信長の奴がその腹積もりならば、馬場の言うことはもっともなのだわい。だが、時間が無いのだわい。多少、強引になろうとも、ここは西進を急ぐべきなのだわい」
「そう言うと思っていたでござる。では、折衷案として、三河、尾張は東海道を避けるでござる。岐阜はひのもとの国の交通の中心地でござる。どうしても大きな街道に出ざるえないでござるゆえ、そこは街道を真っ直ぐ進み、関ヶ原を抜け、一気に南近江を駆け抜けるでござる」
「うむ。では、馬場の言う通りの経路で行くのだわい。それと遠江では、かねてより考えていた通り、家康をふるぼっこにするのだわい。徳川家では歯がたたぬと思わせれば、信長の奴もびびって、土下座しながら飛び跳ねて、わしにひれ伏すのだわい」
「ぼくちん、さらに良い案を思いついたでごじゃる!」
内藤が右手をたかだかとあげて、信玄に発言許可をもらおうとする。信玄はこくりとひとつ頷き、話をするよう促す。
「清州の町や岐阜の町、それに周辺の村々を略奪しまくるのでごじゃる。信長の領地は年中、好景気で黄金が家からあふれ出るほどになっているという噂なのでごじゃる!」
内藤は爛々と眼を輝かせながら、そう信玄に言う。だが、信玄は、うーむと唸り
「村々で略奪を行い、作物を奪うのは、2万4千もの軍を養うには必要なことだわい。だが、わしらが最も優先すべきことは京の都へ上ることだわい。奪い尽くしたい気持ちはやまやまだが、それには時が足らぬのだわい」
信玄の言いに内藤がそんなああああと言いながら、がっくりと肩を落とす。
「ああ、清州の娘っ子は可愛くてきれいで足が細くて、おまけにおっぱいがご立派だと噂に聞いていたのに残念なのでごじゃる。ぼくちん、もう、信濃に帰っていいでごじゃる?」
「殿、略奪をしている時間があまり無いと言えども、下級兵士たちは戦働きにより、何かしらの恩賞を求めてくるはずで候。最低限の略奪でやめておけと言い聞かせようにも、土台、無理な話で候」
山県がそう、信玄に言う。信玄は腕を組み、頭を右に傾け、うーむと唸る。
「そこをどうにかするのが武田四天王のお前たちの役目なのだわい」
「ならば、此度の戦で、分捕りを行うものには罰を与えるとでも言うので候?それこそ、京の都へたどり着く前に、皆が不平不満を言い出し、統率がとれなくなるで候」
信玄は頭痛がする想いである。信濃侵攻でも上野侵攻でも、はたまた駿府侵攻でも欲しいままに略奪を繰り返してきた経緯がある。それが軍全体の士気の上昇につながるからだ。
いくら家族を人質に取られた農民たちを徴兵し、下級兵士としているからと言って、彼らが何も欲しがらないわけではないからだ。というよりは、全国どこの大名でももれなく他国侵攻に際しては分捕り自由を下級兵士たちに約束しているのだ。それをしていないのは、織田家と徳川家だけであり、彼らは例外中の例外なのである。
「内藤、山県よ。わかったのだわい。では、岐阜の町で分捕り許可を出すのだわい。そこで兵士たちに英気を養ってもらい、一気に関ヶ原を抜け、南近江に侵攻するのだわい」
信玄は背に腹は代えられぬと渋々ながら、分捕り許可を出すことに決定するのであった。