ー放虎の章 6- 家康の懊悩
家康たちは重臣たちを集め、軍議を行っていたのだが、1時間、2時間、過ぎようと武田家を追い返す策については皆目、良い案を浮かぶことはなかったのである。
「おいらが蜻蛉切を両手で構えて振るえば、武田家の騎馬軍団と言えども、押し返せるなのだ。だから、おいらを先鋒に配置させるなのだ!」
「おい、さっきから言っているのでござる。いくら、お前の蜻蛉切がバージョン2になった今でも、正面から相手をするのは、いささか無理があるでござる。ここは拙者の瓶貫きに任せるでござる!」
「何を言っているのだぎゃ。相手は2万以上もいるのだぎゃ。蜻蛉切と瓶貫きでも半分の1万しか相手できないのだぎゃ」
あれ?忠勝の蜻蛉切と忠次の瓶貫きって、武田家の軍を1万も削るほどの威力を持っているのでござるか?もしかして、徳川家、勝てるのではないかでござる?と思う、家康である。
「榊原、その話は本当でござるか?忠勝と忠次に任せれば、武田家の半分を屠れると言うのは!」
「冗談に決まっているなのだ。家康さまはとち狂ってしまったか?なのだ」
「そうでござるぞ、殿。信長さまの軍相手なら徳川家はそれくらいはできるかもしれないでござるが、この時代で最強と呼ばれる、武田騎馬軍団でござるぞ?こちらが1万で玉砕覚悟で行って、あちらの1万と相討ちになる程度でござるよ」
「あっれーーー?じゃあ、徳川家の総戦力が1万2千だから、2万以上を有する信玄には絶対、勝てないと言うことでござるか?」
「そうなのだぎゃ。信玄がこちらに尻を向けてくれない限りは、野戦なんかしてはいけないのだぎゃ。もしかして、家康さまは、浜松城に籠らずに、信玄と野戦で決着をつけるつもりだったのだぎゃ?」
榊原の言いに、家康が、うっと言う声を漏らす。榊原は、やれやれと言った表情になり
「確かに、徳川家の兵は、織田家の3倍は強いと言う自負はあるのだぎゃ。1万2千徳川は3万6千織田と換算できるのだぎゃ。さらに、忠勝が3千徳川で、忠次が1千徳川と言う計算が成り立つなのだぎゃ」
榊原の言いに、家康が、こいつ何を言っているのござる?と思うのである。
「おい、榊原、言っている意味がいまひとつピンとこないでござる。どういうことか説明するのでござる」
家康がそう榊原に説明を促す。すると、榊原は碁盤と囲碁の石を影武者・家康ーズに準備させる。
「いいかなのだぎゃ?この白い石ひとつが1000人の織田の下級兵士の戦闘力だと思ってほしいのだぎゃ。そして、黒い石のほうは、徳川家の1000の下級兵士の戦闘力なのだぎゃ。白い石3つと黒い石1つが互角の戦力なのだぎゃ」
「うーん、要は忠勝ひとりで、徳川家の3000の下級兵士の戦闘力を持っていると思えば良いのでござるか?」
「そうなのだぎゃ。これくらいの計算、忠勝でも出来るのだぎゃ」
本当でござるか?と思った、家康はつい忠勝の方を見る。だが、忠勝は眼を開けたまま、こっくりこっくりしながら鼻ちょうちんを作っている。あっ、こいつ、寝てやがるでござるな。
「忠勝が眼を開けたまま寝ているように見えるでござるが、そこは置いといて、徳川家の兵力は1万2千と忠勝3000と忠次1000で、合せて1万6千でござるか。うーん、確かに、野戦を仕掛けるのは無謀なのでござるなあ?」
「まあ、それは正面から武田家とやり合えばの話でござる。横腹から攻めた場合は、相手の戦闘力は半分に、さらに後ろから攻めれば、その戦闘力は4分の1に減るのでござる」
忠次の追加補足に、こくこくと頷く家康である。
「では、例えば、徳川家が浜松城に籠るでござるよな?そうすれば、上洛を急ぐであろう信玄は、浜松城を攻めるのをやめて、西進する可能性が出てくるでござるよな?」
「そうなのだぎゃ。信長さまより早馬が来ていたなのだぎゃ、信玄の目的は上洛だと思われるだそうなのだぎゃ。だから、徳川家は無理に信玄と戦う必要はないのだぎゃ。家康さまは一体、何を疑問に思っているのだぎゃ?」
「そう、そこなのでござる。信玄率いる戦国最強の騎馬軍団と言えども、後ろから俺たちに襲われれば、戦闘力は4分の1でござる。徳川家は京の都に上り詰めた信長殿の兵より3倍も強いのでござる。信玄を木っ端みじんにできるチャンスだと想えるのでござる!」
家康の言いに、忠次、榊原がうーーーんと唸る。
「うん?この策はダメでござるか?上手く行けば、信玄の首級を取れるチャンスなのでござる。しかも、信長殿に対して、大きな貸しを作ることができるのでござる。今まで、信長殿から数々の恩義をもらってきたでござるが、それを総て返しても余るくらいなのでござる!」
「うまく行けば、殿の言う通りでござる。でも、いくら、上洛を急いでいる信玄と言えども、果たして、徳川家を放っておいて西進するか、謎なのでござる」
「そうなのだぎゃ。西進するとしても、武田の軍の半分の1万は、ここ浜松城を包囲するために残していくと思うのだぎゃ。後ろを取られることをわかっていて、わざわざ全軍を西に進ませることはしないと思うのだぎゃ」
家康の策に乗り気でない忠次と榊原である。しかし、家康は語気を強めて言う。
「それならば、なおさら、信玄は戦を知らぬ男と言うことになるでござる。2万以上で浜松城を囲み続けるなら、いざ知らず、たかだか1万で徳川家の兵を抑えられると思っていることが兵法をわかっていないのでござる。その残していった1万を壊滅させて、信玄の後を追うのでござる!」
家康が野戦にての抗戦論を説く。だが、忠次と榊原は渋面のままである。
「さきほどの戦闘力の説明はあくまでも理想論でござる。確かに、殿の言う通り、わずかな兵を残して信玄が西進すれば、しめたものでござる。でも、北条家や上杉家と互角に戦える男でござるぞ、信玄は。兵を残すのであれば、そこには信玄が最も信頼する将を配置すると思うのでござる」
「馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信、どれも1流の将として名高いのだぎゃ。この4人の内、誰かを配置していると思うのだぎゃ」
「なら、お前たち2人は、俺に指をくわえて、信玄が遠江、三河を抜けて、信長殿の領地にまで信玄を侵攻させろと言うのでござるか?それは、いささか、信長殿に対して、不義ではないかでござる!」
「しかしでござる。信長殿には信長殿の考えがあっての、殿に浜松城にて籠れとの通達だと思うのでござる。それを破るほうが不義になるのではないかと、拙者は考えるのでござる」
忠次の言いに、ぐぬぬと唸る、家康である。家康には負い目に似た感情が信長にあった。信長が浅井長政に裏切られたあと、盟友であるはずの徳川家が織田家にできたことと言えば、姉川の合戦の時だけなのだ。
それ以降は、信玄との仲が悪化し、武田家との同盟を切り、上杉謙信と同盟を結ぶ運びとなった。それゆえ、ここ1年、まったくもって、家康は信長に対して、何か助力をできたわけではない。いつ、武田家が遠江の全権を掌握するかもしれぬ事態に対処し続けなければならなかったからだ。
「俺はこれ以上、信長殿に助けられてばかりなのは嫌なのでござる!俺も立派に信長殿のために戦えると証明したいのでござるうううう」
その悲痛な叫びに忠次と榊原は押し黙ってしまう。彼ら2人にもわかっていたのだ。徳川家のふがいなさを。たったひとつしかない盟友の手助けができないことに、歯がゆい気持ちなのだ。
「わかったのでござる。殿がそこまでもうすなら拙者は止めないのでござる。もし、信玄の奴が浜松城の包囲を解き、西進するようであれば、こちらから討って出ようでござる!」
「仕方ないだぎゃか。名誉のために死ぬのも悪くないのだぎゃ。自分も地獄の果てまでついて行くのだぎゃ」
こうして、徳川家の方針が決まるかと思った瞬間、思いがけない人物が部屋に飛び込んでくる。
「ひーひー。ああ、疲れたわー。いくら、家康殿のピンチだからと言って、尾張から三河を通って、さらに遠江だからなあ。信玄の野郎が天竜川の増水で渡れないって知ってたら、3日でここまで来る必要なかったぜ」
佐久間信盛が尾張から遠江の浜松城まで3000の兵を引き連れて、駆け抜けてきたのである。
彼は滝川一益に3000のほとんどの兵を三河と遠江の国境沿いに伏せる準備をするよう命じたあと、わずかな供まわりを連れて、家康たちが軍議を開いている屋敷の部屋に飛び込んだのである。
「おお、信盛殿ではないでござるか。信長殿より援軍がくるとは聞いていたでござるが、まさか、こんなに早く着くとは思わなかったのでござる」
「おお、家康殿。まだ生きてて幸いだぜ。もしかして、もう、武田家相手に1戦、やらかしてるかと思って、冷や冷やもんだったわ。あ、悪いんだけど、お茶か水をもらえる?いやあ、道中、飲まず喰わずで走ってきたから、もう死にそう」
家康は、ぱーんぱーんと手を叩き、小姓に熱いお茶を人数分、用意するよう伝える。はっと応えた小姓は急いで、お茶を持ってくるのであった。
「ごくごくごく、ぷはあ、生き返るう!悪いが、もう1杯もらえる?やっぱり、遠江の茶葉は美味いと聞いていたけど、こりゃ格別だわあ。岐阜のと比べたら、馬の小便と女房のしぼり乳くらいの差だぜ」
家康の小姓は、はあと応え、もう1杯分、茶を用意する。渡された湯飲みを掴み、信盛は浴びるように飲みきったあと、ガンッとその湯飲みを盆の上に置く。
「さて、家康殿、わかってると思うが、うちの殿の言いつけどおり、浜松城から一歩も出ないようにしてくれよ?変な色気を出されて、家康殿に死なれちゃたまらんからな?」




