ー放虎の章 4- 影武者・徳川家康ーズ
佐久間信盛と滝川一益が遠江への進軍を急いでいた頃、浜松城にて籠る家康たちはと言えば
「困ったのでござる。信玄率いる武田最強騎馬軍団が天竜川を挟んで、続々と集合しているのでござる。このままでは俺、死んでしまうのでござる」
「殿、落ち着くでござる。3日前からの大雨で天竜川は増水しているのでござる。早くても1週間は天竜川を渡ってくることはできないのでござる」
酒井忠次は、そう言い、家康をなだめる。だが、家康はそわそわしながら、気が気でない様子だ。
「しかしでござる。浜松城に集まっているのは、1万2千でござる。武田家はざっと見ても2万を超える兵力を保持しているのでござる。いくら、心血を注いで引馬城を改築したと言っても、俺は心配なのでござる」
「でゅふっ。家康さまの命は自分が必ずお守りするのでもうす。いつか来るであろう信玄の奴との決戦のために自分は策を練ってきたのでもうす」
本多正信が眼鏡を人差し指でくいっと押し上げると、その眼鏡のレンズがギラリと光る。思わず、家康はごくりと喉を鳴らすのである。
「ほ、本当か?正信。一体、どんな策を用意したでござるか?できれば、俺に教えてほしいのでござる」
家康がそう言うと、正信はパーンパーンと2度、両手を打ち合わせる。すると10人に及ぶ、年齢がバラバラな将たちが家康たちがいる部屋に参上する。
「お呼びでござるか?ついに我ら、影武者・徳川家康ーズの出番でござるか!」
「ふふふっ。影武者・徳川家康ーズが3号の我輩に任せるのでございます。身体に巻いた火薬筒に火をつけて、見事、武田家の将と道連れになってくるのでございます!」
「いやいや。影武者・徳川家康ーズが6号の拙者に任せるのだぎゃ。両手に持ちし、二本の大斧で散々に、最強騎馬軍団を屠ってくれようなのだぎゃ!」
「うううっ。僕、怖いのです。影武者・徳川家康ーズの10号に任命されましたけど、僕には誇れる特技なんてありませんなのです」
影武者・徳川家康ーズと名乗った10人の男たちが、それぞれに自己紹介をしだす。なんだ、こいつら、一体、何者でござる?と疑問が頭をよぎる家康である。
「おい、正信。こいつら、一体、何でござる?そして、影武者・徳川家康ーズなんてものを一体、いつ組織していたのでござる?」
「でゅふ。自分、前々から考えていたのでもうす。なぜ、今川義元が信長さまに奇襲を受けたからと言って、あっさりと本人だとばれてしまったのかという疑問を持っていたのでもうす」
「ほう、それは中々に興味深い話でござるな、正信殿。良ければ、この忠次に聞かせてくれないかでござるよ」
正信は忠次の言いに、得意げな顔つきになり、またもや眼鏡をくいっとさせて、眼鏡のレンズをギラリと光らせる。
「知っている者は知っているかもしれないのでもうすが、今川義元は京かぶれでお歯黒さまと呼ばれていたのでもうす」
「ああ、そうでござるな。拙者も実際に今川義元とは仕事の打ち合わせでたまに拝見させてもらっていたのでござるが、見事なほどのお歯黒をしていたのでござったな」
「で、正信。この影武者・徳川家康ーズと、今川義元が何の関係があると言うのでござる?馬鹿な俺にもわかるように説明してほしいのでござる」
そう家康が正信に訴える。
「いきなり結論を急がないでほしいのでもうす。全国の大名はそれぞれに影武者を作って、戦時には傍らに置いておくものでもうす。今川義元も例を漏らさず、桶狭間の戦いにも、影武者を連れまわしていたのでもうす」
「ああ、そうでござるな。今川義元にそっくりな男たちが2人ほど傍らに付き従っていたのでござるな。あまりにも似すぎていて、俺は時々、間違えてしまったくらいでござる」
「戦と言うものは勝ち負けは兵家の常と言われるほど、確実に勝てる戦と言うものがないのでもうす。まあ、そんなこと言う必要はないでもうすが。それで、いつ負けてもいいように、大名は影武者を従えているでもうす」
家康はふむと息をつく。
「その理論はわかっているのでござる。だが、影武者を傍らに立たせていても、今川義元は、信長殿に討たれたのでござる。これでは、影武者を用意しておく必要性はあまりないのではござらぬか?」
「でゅふ。今川義元は致命的なことをしていたのでもうす。いや、していなかったと言うほうが正しいのでもうす」
「していたのにしていなかったと言うのは謎かけでござるか?俺、頭は柔らかいほうだから、なぞなぞは得意でござるぞ?」
ほう?殿がなぞなぞが得意でござるだと?初耳だと思う忠次である。
「殿、話の腰を折って申し訳ないのでござるが、「狸が持っている宝箱の中身は何?」でござる?」
忠次がニヤニヤとした顔付きになりながら、家康になぞなぞの問題を出す。しかし、家康はその問いを聞くなり、ふんっと鼻を鳴らす。
「狸は言いかえれば「た抜き」でござる。たからばこから「た」を抜けば「からばこ」でござる。したがって、「空箱」となり、「からっぽ」なのでござるううううう!」
忠次はなぞなぞの答えだけでなく、解説付きなことに驚きを隠せない。
「おい、正信!いつの間に本物の殿だと思っていた者を影武者・徳川家康ーズの者と入れ替えたのでござるか。本物の殿は一体、どこに隠したのでござる」
「でゅふ。忠次殿。落ち着いてくださいでもうす。うちの殿はなぞなぞだけは得意なのでもうす。家康さまと親友の僕は前から知っていたのでもうす。だから、安心してほしいのでもうす。正真正銘、忠次殿の眼の前に居るのは本物の家康さまでもうす」
正信の言いに、忠次が本当か?と疑いの念を晴らすことはない。じーーーっと家康の顔を見つめ、30秒ほど、ううん?と唸りながら、家康の左頬を自分のひとさし指と親指でつまみ、ぎゅっと力を込める。
「いたああああああああああああ!何をする気でござるか、忠次。お前は、長年、俺に仕えてきたというのに、俺が本物の家康だと言うことがわからぬのでござるかあああ」
「いやあ、失敬、失敬でござる。もしかしたら、顔の皮がべりっと剥がれて、違う顔が出てくると思ってしまったのでござる。いやあ、本物の殿で良かったのでござる」
左頬を思いっきりつねられた家康は、左手でさすりながら
「本当に顔の皮がべりっと剥がれるかと思ってしまったのでござる。違う顔が出てくる前に、顔の肉があらわになるのでござる」
「でゅふ。いちゃいちゃするのは、寝所でお願いするのでもうす。で、殿、義元本人にあって、義元の影武者になかったものは何なのかわかるでもうすか?」
正信が、家康と忠次とのやりとりをやめさせ、話の続きをするのである。家康は正信にそう問われ、うーーーんと考え込んでしまう。
「俺が見ていた限りでは、肉体的特徴はそっくりだったでござるからなあ。まあ、身長は少しだけ差があったような気がするでござるが、誤差と言われれば誤差でござるからなあ?」
「でゅふ。忠次殿には、今川義元とその影武者の差異は気付いていたのでもうすか?」
「うーん、我輩でござるか?そもそも、我輩が面会していたのが、義元本人なのか影武者なのか、そこの時点で判別がつかないのでござる。所詮、外様の三河の将でござるから、もしかしたら、本物の義元の顔を見たことがないかも知れないでござる」
「なあ、正信。本当に、本物と影武者で違いがあったのでござるか?俺には皆目、見当がつかぬでござるぞ?もしや、お前、俺をからかっているんじゃないだろうなでござる」
家康が訝し気な顔で正信を見るが、正信は笑い声をあげ
「ふっふっふっでゅふ。実はでもうす。本物の義元はお歯黒をしていて、影武者のほうはお歯黒をしてなかったのでもうす。まあ、普段、歯を見せて笑うようなお方ではなかったので気付きにくかったかもしれないでもうす」
正信の言いに家康が何かを思い出したかのように、ぽんっと左の手のひらに、右手で拳で叩いて、音を立てる。
「おお、言われてみればそうでござる!確かに、義元はお歯黒をしている時と、していない時があったのでござる。いやあ、正信に言われるまで気にもしていなかったのでござる」
感心している家康に対して、正信は、えっへんとばかりに胸を張る。
「で、そのお歯黒の話と、俺の影武者・徳川家康ーズは何の関係があるのでござる?見たところ、身長もバラバラ、顔も俺に似ても似つかぬものたちまでいるのでござる」
家康がそう正信に問いただす。
「でゅふ。よくよく考えてみれば、答えは単純なのでもうす。桶狭間の戦い以前に、信長さまは義元の顔を見たことはあるのかでもうす」
「ん?どういうことでござる?信長殿は義元の顔を知っていないのに、桶狭間の戦いで義元の本陣を突き止めたとでも言うのでござるか?いやあ、それはいくらなんでも無理があるでござるよ。人相書きなどで、大体の特徴は知っていたのではないかでござる」
「甘いのでもうす。それは確かに、信長さまに確認したことでもうすか?自分はしっかり、信長さまにその辺の事情を確認したのでもうす。それにより、このような、体つきも顔も似ていないような影武者・徳川家康ーズを結成したのでもうす」
「なにか?正信。では、この俺に似ても似つかぬ集団こそが、お前の策の真髄ってことでござるか?」
「そうでもうす。大体、殿は一度でも、信玄とは顔を合わせたことはあるのでもうすか?ないでもうすよね?では、陣中に同じ顔をした者たちが10人いたら、信玄は果たしてどうすると思うでもうすか?」