ー放虎の章 2- 恐怖
「家康殿にそうさせないのが、俺たちの役目だぞ!どうしたんだ、一益。何いらついてんだ?お前らしくないぞ?」
信盛は一益を引き留めようと、必死に言葉をかける。だが、一益はくるっと身体を回し、信盛に背を向ける。
「おい、待てって!」
信盛がそう言い、右手でぐいっと一益の肩を掴み、こちらに振り向かせようとする。だが、信盛が一益の肩に触れた時、一益の身体はカタカタと震えていたのである。
「一益。お前、もしかして、怖いのか?」
信盛は神妙な顔つきになり、そう一益に問いかけるのである。
「へへっ。ばれちゃったっすか。信盛殿っち、俺、本当は信玄とやるのが怖いっす。一向宗相手でも、びびらなかった俺っちっすけど、今度ばかりはダメっす」
一益は信盛に背を向けたまま、やや顔をうつむき加減にそう応えるのである。
その一益の姿を見て、信盛は言葉に詰まってしまう。いつも明るく振る舞う一益であったため、この死地においても一益なら大丈夫だ。そう信盛はタカをくくっていた。
だが、一益も血の通う人間である。どんなに厳しい戦場であっても、明るく振る舞うのは、自分の心を騙すためのものだ。だが、今回ばかりは騙しきれないのである。
「信盛殿っち。俺、死にたくないっす。まだ、息子が10歳になったばっかりっす。俺っち、息子とはまだまだ遊びたりないっす。槍の振るい方も鉄砲の扱い方もまだまだ満足に教えてないっす」
一益が身体をカタカタと振るわせて言う。
「ああ、わかるぜ。俺にも息子がいるんだ。一益とはそういえば、10年以上前の合婚の時に知り合ったんだよな。んで、その時のお前ときたら、どこぞのお調子者が織田家にやってきたもんだと思ったもんだ」
「へっ。そう言えばそうっすね。信盛殿っちとはそれからの付き合いだったっすね。俺っちは信盛殿っちを初めて見たときは、しょぼくれた幸先なさそうなおっさんに見えたもんっすよ」
「ええ?今更だからって、そんなこと言っちゃうわけ?なら、言わせてもらうけど、俺なんか、お前を初めて見た時は、どこぞの乞食か何かと思ったもんだぜ!」
「さっきと言ってることが全然、違うじゃないっすか!お調子者なのは認めるっす。でも、乞食と見間違えられるほどには落ちぶれてなかったっす、多分」
一益が信盛にひどいことを言われ、思わずカッとなり、信盛のほうに振り向き直し、噛みつくのであった。
「悪い悪い。乞食ってのは言い過ぎた。謝るぜ。だが、あの時の一益はひどい恰好してたんだぜ?風呂に入ってるのか疑いたくなるほどにな」
「うっさいっすね。あの頃は関氏から追い出されて、食べるものにも困っていた時期っす。風呂に入る金があったら、喰う物を買っていたっすよ」
「あんななりでよくもまあ、かわいい香ちゃんを捕まえたもんだぜ。こいつ、すげえなって素直に感心したもんだったわ」
「信盛殿っちには言われたくないっす。どこをどう間違えたら、あんなご立派な乳の椿っちと付き合うことになるっすか。信盛殿っち、あの時って30歳過ぎてたんっすよね?椿っちは確か20歳くらいだったはずっす。10歳差以上っすよ?どういうことっすか!」
「そりゃあ、俺の身体からあふれる魅力的な?」
「信盛殿っちからあふれだしているのは加齢臭っす。何をとち狂ったことを言っているっすか」
「おい、待て、一益。加齢臭ってのは何だよ。俺の体臭はハーブの香りがするわけ?断じて、貞勝殿みたいな加齢臭じゃない!」
「一緒っすよ。信盛殿っちと貞勝殿っちが2人並ぶと加齢臭が4倍になるっす。俺っち、いい香りのする香水を持っているから、お金を払えば分けてもいいっすよ?」
「ええ?金とるのー?ちなみにおいくら?」
「まけにまけて10貫(=100万円)でいいっすよ?信盛殿っちには合婚の時からお世話になっているっすからね」
「うーん、悩む値段だな。9貫にまけてくれね?今度、酒をおごるからよ?」
「しょうがないっすねえ。その代り、とびきりのいい酒を飲ませてもらうっすよ?あと香っちもその時は呼ぶからよろしくっす」
「きたねえ。こいつ、きたねえ。くっ、こうなりゃ、この戦が終わったら、俺んとこの女房と息子も連れて、居酒屋に行こうぜ?」
ふと一益は気付く。いつの間にか身体の震えが止まっていることに。
「へへっ。気付いたら、とんでもない約束をさせられたっす。こりゃ、信玄相手でもおちおち死んでられないっすね。どうせなら、あの合婚で一緒になった奴ら、全員、集めて飲みに行くっすよ!」
「おお、いいね?でも、良いのか?あの時の奴らの中には一豊の嫁さんのお千代さんも来るってことだぜ?また、お前、飲みつぶされちまうぞ?」
「古いことをよくもまあ覚えているもんっすねえ。加齢臭がするおっさんは嫌な事だけ覚えているってのは本当のことなんっすねえ?」
一益の問いかけに、けっと吐き捨てる信盛である。
「いつも明るいだけが取柄の一益なんだ。もっと軽口を叩いとけ。俺にだったら、なんぼでも言っていいんだぜ?」
一益は信盛の言いに対して、にっこりと笑顔を作る。
「ありがたいもんっす。俺っちと信盛殿っちは親友っすね。親友は得難いとは言うっすけど、俺は幸せものっす」
「一益より10歳近く歳が上だと思うとなんだかこそばゆい感じだけどな」
「それはそうとして、なんで、信盛殿っちは若い女ばかりひっかけてくるんっすか?俺と香っちって3つしか変わらないっすよ?」
一益はさっき自分で言ったことを思い出し、そう信盛に尋ねるのである。しかし、信盛は、うーん?と言いながら
「そんなこと言い出したら、織田家なんて10歳以上離れた夫婦が結構、いるんだぜ?秀吉の嫁さんのねねちゃんは秀吉より10歳若いし、利家の嫁さんの松ちゃんなんか12歳のときに結婚してんだぜ?」
「えっ?どういうことっすか?利家殿っちが12歳の時っすか?」
一益が怪訝な顔付きになり、さらに信盛に質問を繰り返す。
「いや、そうじゃないって。利家が確か25,6の時に、12歳の松ちゃんと結婚したんだよ。ちなみに秀吉は24歳のときに、14歳のねねちゃんと結婚したんだっけかな」
信盛の言いに一益がぽかーんと口を開ける。
「どういうことっすか。織田家は犯罪者集団の塊だったんっすか?14歳ならせーふっすけど、さすがに12歳はあうとっすよ!ちょっと、今から、利家っちのとこに言って、ぶんなぐってくるっす」
「おいおいおい、ちょっと待てよ。家康殿の救援はどうすんだよ?利家は確かに犯罪者だが、あれでも5児のお父さんなんだぞ?そっとしておいてやれよ」
「それは無理っす。俺っちだって、若いぴちぴちのおっぱいがぼーん!の嫁さんがほしいっす。香っちには俺っち、おしとやかなおっぱい派とは言ってるっすけど、一度は手からこぼれ落ちるほどのおっぱいを揉んでみたいっす!」
「あれ?言われてみれば、織田家って、ご立派さまを信仰しているって公言してるのって、俺だけだったりする?殿の奥方の帰蝶さまや吉乃ちゃんは、おしとやかとまではいかないけど、それほどでかいわけじゃあ、ないもんなあ?」
「そうっすね。俺っちも落ち着いて考えてみたら、松っちも、ねねっちもおしとやかなおっぱいっすよね?河尻殿っちは合法幼子妻最高!って、いつも言っているし、勝家殿っちの奥さんの香奈さんっちも、おしとやかっすもんね?」
信盛と一益が、うーん?と頭を捻らせる。
「じゃあ、別に俺っち、利家殿っちを三条河原に埋めて、鉄砲で頭を狙撃しなくていいじゃないっすか。怒って損したっすよ」
「そうだなあ。松ちゃんの年齢はあうとだが、おっぱいに関しては一益が怒る必要はないなあ?」
「じゃあ、問題も解決したと言うことで、元気に遠江目指して出発しようっすか、信盛殿っち」
「そうだな。家康殿の奥さんの瀬名さんがスイカのような胸をしていることは、この際、置いておいて、元気に信玄の野郎と殺し合いでもしにいきますかあ」
信盛の言いに一益が、思わず、手に持っていた軍配をぽとりと地面に落としてしまう。
「えっ、今、なんて言ったっすか?家康殿っちの奥さんがどうかしたっすか?」
信盛は、ドスの効いた一益の言いに、思わず、やべえ!と叫んでしまう。
「い、いや。俺は別に変なことは言ってないよ?ああ、来年のスイカは良く実って、おいしいんだろなあって言っただけだぜ?」
だが、一益のきっつい視線に晒され、つい、信盛は眼が泳いでしまう。
「俺っち、このまま伊勢に帰っていいっすか?なんか、一気にやる気を削がれた気分っす。ああ、家康殿っちはスイカを枕に討ち死にしてほしいところっす」
「な、なに言ってんだよ。殿の命令だぜ?たかだか、スイカがどうとかで、退却しちまったら、さすがに切腹は免れないと思うぞ?」
「ああ、香っちのおっぱいが急に恋しくなったっす。信盛殿っち、そう言うことだから、後は任せたっす!」
一益がそう言うとすたすた歩いて、遠江とは反対方向に進んで行くのである。
「待て!一益、俺がとっておきの薬を分けてやるから、それで手を打たないか?」
信盛の言いに一益がうろんな表情で信盛を見つめ返す。
「なんっすか?良い薬って?眠り薬とかは勘弁っすよ?俺っち、犯罪はしたくないっすからね?」