ー虎牙の章14- 山県(やまがた)の由来
「大体、一騎駆けをしかける謙信も謙信で狂っているのでごじゃるが、受ける殿も大概に狂っているのでごじゃる。とっとと本陣から逃げておけば良かったのごじゃる!」
内藤昌豊が信玄に対して諫言を続けていた。言うべきことはここではっきりと言っておかねば、この後に控える、殿の上洛作戦でも似たようなことをされてはたまったものではないと言う考えからだ。
「ううむ。しかし、あの場で逃げようと思ってみても、側に居たはずの弟の信繁の姿まで見えなくなるくらいの濃霧だったのだわい。その中を下手に逃げようとすれば、雑兵に首級を取られていた可能性だってあるのだわい」
「結局、あの戦いの後、信繁さまの遺体は見つけることができなかったので候。きっと、多分、いや、絶対に信繁さまは殿をお守りしようと、上杉の奴ら相手に大立ち回りをしたのだと思うので候」
山県が、当時のことを思い出し、くっと唸り、悔し涙を流し始めるのである。
「あの戦いでは大勢の若者たちが死んでいったのだわい。謙信の奴め。絶対に許さないのだわい。織田家の方がついたら、再度、川中島の戦いを起こしてやるのだわい!」
信玄が握りこぶしを作って、わなわなと身体を振るえさせるのである。だが、馬場と内藤は冷めた面構えで
「おい。また、殿がおかしなことを言いだしているのでござる」
「そうなのでごじゃる。そもそも、別に無理に戦わなくても、謙信は冬が到来すれば勝手に帰っていくのでごじゃる。逆にこっちが上杉家を攻めても、どうせ雪が降って、時間切れでごじゃる」
「貴様ら、信繁の仇を取りたいと思わないのかだわい!わしの可愛い弟だったのだわい」
「そうは言っても、そもそも、殿が勘助の策を採用しなければ、あんなことにはならなかった可能性が高いのでござる。まあ、あの日が濃霧になったのは運が悪かったとも言えるのでござる。それでも、本陣を手薄にしてしまうような策はいけないのでござる」
馬場の言いに信玄が言い返せず、ぐぬぬと唸る。
「まあ、殿が謙信に一泡吹かせたいという気持ちはわかるのでごじゃる。でも、雪が降れば、それは無理なのでごじゃる。信濃ですら、結構、積もると言うのに、信濃を越えて越中に入り、春日山を囲んだときに雪に降られれば、ぼくちんたちは帰る道を失くしてしまうのでごじゃる」
「くっ。結局、打つ手なしなのかだわい。わしの眼が黒いうちに、謙信の首級を取ることは叶わないと言うことなのかだわい」
「10年、20年経ったとしても、このひのもとの国から雪が降らない異常気象でもやってこない限りは、武田家が上杉家に攻め込めることはないのでござる。いっそ、このまま、謙信との決着はなあなあで済ませておくのが良いのでござる」
「今は、上杉家のことを言っている場合ではないで候。目の前の敵、徳川家をどうにかするほうが先決なので候」
山県がたまりかねて、そう信玄、馬場、内藤の3人に言うのである。
「そうだったわい。謙信のことなど、今はどうでもいいのだわい。話を戻して、家康との対決について策を考えるのだわい」
「まあ、殿が言う通り、家康はきっと、浜松城から我輩らを追いかけてくるのでござる。野戦となれば武田家が遅れをとることはなくなるのでござる」
「うむ。そうなれば、どこで飛び出してきた家康を迎え撃つかでごじゃるな。浜松城の周辺で、こちらとあちら合わせて3万以上の兵が戦える場所はあったでごじゃるか?」
「それなら浜松城から東海道を西に進んだところに三方ヶ原という丘陵地帯があるのでございます。こちらの2万5千の兵が転進するにはちょうどいい広さでございます。しかも、三方ヶ原の周りは林に囲まれていて、その林を越えて追ってくるであろう家康は、三方ヶ原に到達したとき、驚き、慌てふためくことになるのでございます」
「まるで見てきたかのように言うのでござるな、高坂よ。お主、いつの間に、遠江の地理を調べていたのでござるか?」
「はい、馬場さま。あの辺に良い釣り場があると地元の民たちから聞いていたので、お休みをもらって釣りに行ってきたことがあるのでございます」
「はあ?釣りでござるか?釣りくらい、駿河湾ですれば良かろうでござる。なぜに、わざわざ、遠江にまで行って、釣りをしてきたのでござるか」
半ば、あきれ顔で馬場が高坂にそう質問するのである。
「いやあ、天竜川と浜名湖は釣り師にとっては、宝の山なのでございます。確かに、海釣りは海釣りで楽しいのでございますが、山育ちの僕にとっては川魚はそうるふーどなのでございます」
「確かに天竜川は信濃から遠江まで流れているのでごじゃる。ぼくちんたちは言わば、天竜川の恵みで川魚を食べてきたのでごじゃる。高坂がわざわざ遠江まで出向くのもわからないことではないでごじゃる」
「そういうものでござるか?川魚など、その辺の川で釣ればいいでござる。わざわざ、敵地である遠江で釣りをすることはないのでござる」
「釣り師と言うものをわかってないで候、馬場殿は。あの人種は別に魚の種類がどうとかではないで候。そりゃあ、喰うだけであるなら、その辺の川で良いので候。だが、釣り師と言うものは全国津々浦々の川や湖、そして、海で釣りをしたくなる生物なので候」
山県がそう、馬場に言う。馬場はそんなものなのか?と疑問に思うのである。
「さすが山県さまなのでございます。へっぽこの馬場さまとは違いますね!山県さまの言う通り、僕は全国の川や湖で魚たちとの戦いを行いたいと思っているのでございます。馬場さまは大人しく、その辺の川の魚でも喰ってろって言うのでございます」
高坂の言いに馬場がくっと唸る。釣り馬鹿と言うものにはつける薬がないとはよくよく言われているが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。
「喧嘩はやめるのだわい。で、高坂よ。その三方ヶ原の地についてもう少し、詳しく教えてくれなのだわい。徳川との決戦の地となるならば、情報は多くあって損はないのだわい」
「はい。駿河と遠江の境には天竜川が流れているのでございます。その川を越えてさらに東海道を西にいくと三方ヶ原です。さらに三方ヶ原の地の西には、川幅は狭いですが川が流れているのでございます」
高坂の言いに信玄がふむと息をつく。
「と言うことは三方ヶ原で武田家が陣を敷くとなると、川を背に戦うことになるのだわい。できるなら、その川の向こうに渡ったところで、家康と対峙したいところだわい」
信玄はあごを右手でさすりながらそう言うのである。
「お言葉ですが、殿が大好きな孫子の兵法には背水の陣と言うものがあるので候。川を背にすることで否応なく、武田家の士気は上がるというもので候」
「ほう、山県。いつの間に孫子の兵法をかじっていたのだわい。確かにそのような兵法は書いてあることにはあるが、それは破れかぶれの策なのだわい」
「ですが、川を挟んで対峙するとなれば、せっかくの武田が誇る騎馬軍団を生かすことができなくなってしまうので候。ここは川を背にしてでも、平地の確保を優先し、騎馬軍団を有効に使えるようにするべきなので候」
「そこまで言うのであれば、山県。お前の任せてある騎馬隊に期待させてもらうが、覚悟はできているのかだわい?」
信玄がジロリと山県の顔を見つめる。しかし、山県はその信玄の視線に気圧されることもなく、まっすぐに眼を信玄のほうに見せたあと、ぺこりと頭を下げる。
「この山県、必ず、家康の首級をあげて見せるので候。我輩が鍛え上げし300の騎馬隊が戦場に紅い華を咲かせてみせようで候!」
山県は頭を伏せたまま、力強く宣言する。信玄はふむと息をつき
「では、期待させてもらうのだわい。兄から奪いし、その地位。見事、使いきってみせるのだわい」
山県昌景は元は飯富という苗字であった。かつて信玄の長男で嫡男であった義信は昌景の兄と共謀し、父である信玄を武田家から追い出そうと画策したのである。
甲相駿三国同盟。これがすべての元凶でもあった。今川義元とその重臣である大原雪斎が画策した、武田、北条、今川の三国同盟である。
このとき、互いの大名たちは愛娘をそれぞれの家の嫡男に嫁がせたのである。今川義元の娘はこの義信に託されたのだ。だが、今川義元が桶狭間の戦いで信長に討たれたときに、この3国の運命は大きく歪むことになる。
弱体化した今川家を攻め滅ぼす好機と見た信玄は、今川家との同盟を一方的に破ることとなる。だが、その父の方針に異議を唱えたのが嫡男である義信であった。
異議を唱えるだけならまだ良かった。義信は情に流され、あろうことか、信玄に反旗をひるがえそうとしたのである。そのときに義信の片腕となった男が、山県昌景の兄であったのである。
昌景は義信と兄の信玄追放の計画を知ることになった。しかし、昌景の取った行動は、嫡男・義信を援護することではなく、信玄にこの2人の計画を密告したのである。
昌景の密告により、義信と昌景の兄は捕らわれることになり、義信は幽閉、昌景の兄は切腹に追い込まれる。
「はっ。殿よりいただいた、山県の苗字に恥じぬような働きを見せるので候!」
義信と兄を犠牲にしてまで手に入れた、山県という苗字と騎馬隊長の地位。飯富昌景はあの時、死んだのだ。山県昌景が、殿の未来を切り開くので候。そう、山県は心に誓ったのである。




